無名の墓はあってはならない

© Sputnik / Viktor Temin / メディアバンクへ移行大阪平和センターの新展示に市民が抗議、日本軍の蛮行忘れまじ
大阪平和センターの新展示に市民が抗議、日本軍の蛮行忘れまじ - Sputnik 日本
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日本の厚生労働省は最近、第二次世界大戦後に現在の北朝鮮、中国東部の大連、ロシアのサハリンに旧ソ連が設けた収容所で死亡した日本の兵士や民間人12130人の名簿を公開した。この名簿はロシア政府が提供し、厚生労働省によって保管されていた。しかし厚生労働省は、「戦後70年がたち遺族が高齢化するなかで、広く情報を公開すべきだ」(NHKより)として、今回ホームページで公開した。

今から70年前、20世紀最大の悲劇の一つとなった、人類史上最も恐ろしい戦争が終結した。この戦争は様々な大陸に住み、様々な言語を話している大勢の人々の記憶の中に深い痕跡を残した。この悲劇の規模は世界史上に類をみなかった。あらゆる戦争はどの国にとっても、どの民族にとっても、そして一人ひとりの人間にとっても恐ろしい試練だ。その戦争の特別なページの一つが、戦争捕虜だ。

第二次世界大戦後、ソ連の30地域に収容所が設置された。アルタイ地方もその一つだった。アルタイ地方には3ヶ所に収容所が設置され、そこには1万7000人以上の日本兵が収容されていた。1946年秋、捕虜たちを祖国・日本へ送還する準備を命じる指令が出されたことが明らかとなった。もちろん喜んだ。しかし喜ぶ代わりに大勢の人たちが泣いた。彼らは祖国へ戻るという幸福が、全ての人に笑いかけてはくれないことを知っていたからだ。1946年、そのうちの多くの人が日本へ帰還した。しかし全員ではなかった。彼らの親族には、自分の父親あるいは叔父などがどこに埋葬されているのかを知り、墓参する権利がある。「露日協会」アルタイ支部のヴャチェスラフ・ノヴォショロフ会長は、このような確信を表している。ノヴォショロフ氏は、ラジオ「スプートニク」からの電話インタビューで、次のように語った。

「1987年に私たちの協会が創立された当時から、私たちは日本の捕虜たちの埋葬地の捜索を行ってきました。アルタイ地方のバルナウル、ビイスク、ザリンスク、ゴルニャクなどに日本の捕虜がたくさんいました。地元の住民やアルタイ国立大学の大学生、また中・高校生などが、捜索でずいぶんと私たちを助けてくれました。古文書と私たちが入手した資料によって、アルタイで亡くなった日本人2317人の名前が明らかになりました。私たちの情報では、2563人が亡くなっています。保管されていた名簿は1990年に日本の団体『日本ユーラシア協会』に渡され、日本の各紙に掲載されました。しかしこの名簿には、アルタイの具体的な埋蔵場所が表記されていませんでした。そこで私たちは捜索活動や、古文書の作業を続けました…」

「露日協会」アルタイ支部のイニシアチブにより、1992年に日本の公式代表団がアルタイを訪問し、初めて日本人の埋葬地を訪れた。日本代表団は、ザリンスクとゴルニャクでの日本人の抑留時代の生活を伝える博物館も訪問した。1993年、バルナウルとゴルニャクに、亡くなった日本の捕虜たちの記念碑が設置された。1994年から1996年までにアルタイ地方から日本に81人の遺骨が運ばれた。2007年には、ビイスクの埋葬地にも記念碑が建立された。そして日本から代表団がアルタイ地方に一度ならず訪れた。

2015年春、アルタイ地方ゴルニャクの第2番学校で学ぶ9年生の女子学生アリサ・ヤンゴリさんが、アルタイ地方の学生たちによる歴史・郷土会議で「1945-1946年のゾロトゥシンスキー鉱山における日本の軍事捕虜たちの生活」をテーマにした研究で1位に輝いた。ヤンゴリさんは、この研究論文の中で初めてそこに埋葬されている日本人捕虜たちの名前を明らかにした。1945年秋、ゴルニャク市に、第511番収容所が設置され、日本軍の元兵士5965人が収容された。収容所は4つの支部からなり、ゾロトゥシンスキー鉱山の敷地内に第6支部があった。戦時下の1942年の困難な時期に鉱山の建設が始まった。戦争で周辺の村や町の大多数の男性が死亡し、鉱山では作業員の大幅な不足が感じられた。これが日本の捕虜たちが鉱山に連れてこられた原因になったと思われる。厳しい気候、病気、憂鬱などが、捕虜の高い死亡率につながった。

ヤンゴリさんは自身の論文では、「残念ながら、私たちは第6支部の捕虜の名前と個人情報を完全に明らかにすることはできませんでした。しかし、保管されていた文書の中から私たちが見つけた死者の名簿は、捕虜部隊のメンバーに関する一定の情報源として役立たせることができます。名簿の分析によって日本人の年齢が20-50歳で、大部分の人が若かったことが分かりました。軍人の階級は、兵長や下士官などもいますが、主に一平卒でした」と述べられている。ヤンゴリさんが集めた資料は今、学校の歴史博物館に展示されている。ヤンゴリさんはなぜこの研究をしようと思ったのだろうか?ヤンゴリさんは、ラジオ「スプートニク」に次のように語ってくれた。

「これは私が取り組んだ2つ目のテーマです。最初のテーマは、私の祖父と、祖父たちの大祖国戦争への参戦でした。日本の捕虜のテーマは、私の故郷の町を観光していた時に思いつきました。私の町には、日本の捕虜の記念碑が設置されています。私の先生が日本の捕虜について話してくれました。それまで私は彼らのことはほとんど知りませんでした。私は日本の捕虜に大きな関心を持ちました。そして先生と一緒に研究することにしました。私にとってこれは非常に価値のある情報でした。私はこの日本の捕虜たちに関する書籍などを読みました。彼らはまるで私にとって近しい人たちのように感じました。なぜなら彼らは私たちが住むこの地で働いたからです。日本の捕虜たちは、私が7年生まで学んだ第1番学校を建設しました。この建物は今も残っています。私は、先生と共同で行った私たちの研究は、非常に時宜を得たものだと考えています。なぜなら今、70年前に戦った人たちから残されているものは、記憶しかないからです。また私は、この記憶を保存する責任を感じています…ここに埋葬されている日本の捕虜の名簿を見つけたとき、このテーマの研究を続けたいという願望が沸き起こりました。もし私が自分の町ゴルニャクで日本人と会う機会があったなら、私は日本の人たちを墓地に案内し、この墓地に眠っている人たちのについて私が知ったことをお話するでしょう。そして、ここに埋葬されている日本人のことで、日本の人たちが知っていることについて尋ねるでしょう。今、私と同年代の人たちの間では、古い文書などが引っ張り出されて、調査のために検討されています。なぜなら自分たちの血統に関心があるからです。私は、日本でも自分の親族や過去の世代に興味が持たれているのか知りたいです…」。

ヤンゴリさんとノヴォショロフ氏は、アルタイのゴルニャクに埋葬された約180人の日本人の名簿をラジオ「スプートニク」に提供した。これまで、この名簿が公開されたことはなかった。ヤンゴリさんとノヴォショロフ氏は、アルタイの地に眠っている日本人の名簿を公開することで、彼らの親族を探し出す助けになるかもしれないと考えている。ノヴォショロフ氏は、次のように語っている。

「祖国に戻ることのできなかった日本の捕虜たちも戦争の犠牲者です。そして彼らの親族は、自分の父親や祖父の運命を知る必要があります。日本には、故人の遺骨を祖国に埋葬する習慣があります。ですが、常にその可能性に恵まれるわけではありません。遺骨の一部は祖国へ帰還しましたが、一部は私たちの地に残りました。私たちは日本大使館に、埋葬されている人々の名簿を添えて書簡を送り、遺族を見つけるようにお願いしました。日本ユーラシア協会愛知県連合会などの日本の社会団体にも同様の書簡を送りました。ですが、まだ返事はもらっていません。もしラジオ局のお陰でこの名簿が日本で知られるようになったら素晴らしいことです。私たちは戦勝70周年までに、無名の墓をなくしたいのです。彼らの子供、孫、ひ孫たちがみつかって、彼らが墓参できるように…」。

第二次世界大戦は、参加した全ての国に計り知れない不幸をもたらした。恐ろしい戦争から70年が経過した。参戦者の大多数がすでにこの世を去っており、生きてきる人々の中では、体験の記憶が消え去ろうとしている。そのため、過去を単に記憶するだけでなく、新たな戦争を防止するために、過去の教訓を学ぶことが私たちの義務だ。そしてまさに若者たちは、地球の平和が誰の腕にかかっているのかを考える必要がある。

ラジオ「スプートニク」はすでにアルタイで死亡した日本の捕虜の名簿の日本語翻訳に取り掛かった。翻訳終了後、名簿はスプートニクのサイトに掲載いたします。

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