ロシア語で俳句を

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第8回国際ロシア語俳句コンテストに2500作品の応募があった。主催は年鑑「ハイクメン」編集部とモスクワの日本文化基金。予選通過作は「伝統俳句」「現代俳句」「川柳」の3つのカテゴリーに分けて審査される。「渡り鳥」をテーマとするコンテストへの追加受付も発表された。

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年鑑「ハイクメン」編集員でコンテスト運営委員のドミートリイ・クドリャ氏は次のように語る。「世界中でそうであるように、ロシアにおける俳句の歴史は明治時代にまで遡る。19世紀末以来、日本の俳句の翻訳を備えた最初期の研究が現れ始めた。日本との関係が悪化し始めた1920年代以来、日本文化の受容は大幅に狭まった」

1954年、日本の俳句の翻訳を備えたヴェラ・マルコワの図書「日本の詩」が出版され、俳句への関心の新たな波が起こった。出版後マルコワは、彼女とその詩的な実験を共有する読者からの手紙を受け取るようになった。そこから彼女は俳句愛好家の文学サークルの出現を知った。しかし、これらの詩を公開することはほとんど不可能だった。1990年代になってやっとロシアの俳句という詩的形態が徐々に、主として詩誌「アリオン」によって、地下から現れ始めた。最初に大衆的人気が爆発したきっかけは、1998年に「論拠と事実」紙とロシアの日本大使館が主催した最初のロシア語俳句コンテスト。想像を上回る数の応募があった。たった三行という、一見したところのとっつきやすさが、人々を引き付けたのだ。しかし、その真の奥深さ、形式と内容の調和を理解したのは、ほんの一握りだけだった。

俳句の普及に少なくない役割を負ったのはインターネットだ、とドミートリイ・クドリャ氏。

「最初期のインターネットユーザーは非常に教育の高い人たちだった。その中の俳句に惹かれた人たちがウェブ上で自分の作品を発表し始めた。徐々に彼らは互いの連絡を構築し、俳句愛好家のコミュニティが成長した。興味深いことに、俳句の本質が理解され、応募作への責任が増すほどに、俳句コンテスト参加者の数は減少していった。質は向上した。1998年に送られてきたものと今のコンテスト応募作を比べると、差は歴然だ」

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ロシア語俳句コンテスト参加者についてインターネットサイト「かたつむり」編集員で審査員のエリナ・ヴィトムスカヤ氏は次のように語っている。

「参加者の地理と年齢は非常に幅広い。モスクワ、サンクトペテルブルグ、サマラ、ノボシビルスク、ウラジオストク他の都市から若者と高齢者の両方が参加し、ウクライナ、ラトビア、ダゲスタンの俳人もいる。職業も様々だ。教師、学生、ミュージシャン、医師。スイスで衝突器に取り組んでいるモスクワ郊外の街ドゥブナ出身の物理学者ミハイル・リャブリン氏は非常に繊細かつロマンチックな俳句を書く。そして、このジャンルでは米国、イスラエルその他の国からの移民も目覚ましい。我々のウェブサイト「かたつむり」開設の中心人物の一人アレクサンドル・クドリャショフ氏は電気技師であり、Graf Murの名で自身も俳句を作るほか、「ハイガ」と「フォトク」という二つのコーナーを主催している。映像とテキストをミックスしたものだ。コンテストでは制限があるが、「かたつむり」には「フリースタイル」のコーナーもある。これは必ずしも俳句ではなく、しばしば全く俳句ではないものだ。それは自由詩であり、格言であり、言葉遊びまたは非常に強力なメタファーあってもよい。しかし、いずれにしろ、それは簡潔で、奥行きがあって、心を打つものであり、その点で俳句と親近性のある詩なのだ」

第8回国際ロシア語俳句コンテストの結果発表は9月17日、「日本の秋」フェス内で開催される。

 

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