アンドレイ・イワノフ編集長没、早すぎる死を悼む日本研究家たち

© Sputnik / Pavel Lisitsynアンドレイ・イヴァノフ編集長没、早すぎる死を悼む日本研究家たち
アンドレイ・イヴァノフ編集長没、早すぎる死を悼む日本研究家たち - Sputnik 日本
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スプートニク日本語課を率いてきたアンドレイ・イワノフ編集長(58)が6月19日に急逝。この死はスプートニクにとっても大きな打撃だが、ロシアにおける日本研究者界も大きなショックを受けている。死者の魂は語り継がれ、生きている人間の記憶から去らない限りは生きている。イワノフ氏がロシア正教の9日目(仏教で言う初七日に近い)を迎える6月26日を前に、追悼記事を表したい。

アンドレイ・ウラジーミロヴィチ・イワノフ氏 - Sputnik 日本
スプートニク日本語課のアンドレイ・イワノフ編集長が逝去
東アジア、日本問題でスプートニクのページにしばしば名前の挙がるモスクワ国際関係大学のドミトリー・ストレリツォフ教授。イワノフ編集長は絶大な信頼を置いていたストレリツォフ氏によくインタビューを依頼していた。露日の研究者間でも有名なストレリツォフ氏はイワノフ編集長について、次のように語っている。

「アンドレイは素晴らしい専門家だった。国際政治、東アジア地域という領域を見事に網羅する本当の意味でのプロだった。

複雑に絡み合った状況、時に接近も難しいというとき、アンドレイはいつも一番重要なことをつかみ、いわゆる先導の星を見いだすことが出来た。

アンドレイは東アジアの地域情勢のことで、露日関係について、領土問題についてまた日本の国内問題、経済問題についてインタビューを採ろうとよく電話をくれた。彼はそれらの問題に精通していることははっきりと分かったから、彼と話すのは本当に面白かった。私自身も彼の非常に充実した深い考察を読もうと『ロシアの声』『スプートニク』のサイトをよく覗いたものだった。私のようなこの分野での専門家にとってはアンドレイも彼のコメントも実に多くを教えてくれるものであり、それからたくさんの新たな事を学んだものだった。

そんなこと以外にもアンドレイは人間として素晴らしかった。優しくて、親切で、控えめな人だった。アンドレイが亡くなったと聞いたとき、周りの世界ががらんどうになり、その大事な部分が失われたように思えた。

アンドレイ、どうか安らかにお眠りください。」

「お便りスパシーバ」6月23日アンドレイ・イワノフ編集長追悼号 - Sputnik 日本
「お便りスパシーバ」6月23日アンドレイ・イワノフ編集長追悼号
日本研究家でジャーナリストで執筆活動も行なうアレクサンドル・クラノフ氏(日本研究家協会、ロシア史研究会会員)はアンドレイ・イワノフ編集長とは17年来の友人だった。つい先日もクラノフ氏の出版した『ロマン・キム』の本をスプートニクが取材するよう取り上げたのはアンドレイさんの提案だった。

クラノフ氏はアンドレイ・イワノフ氏との大切な思い出を語り、そのあまりにも早すぎる死を深く悼んでいる。

「アンドレイ・イワノフ氏が自分より13歳も年上だったなんて、彼が死ぬまで知らなかった。彼はいつだって僕には年上の友達だった。とはいえ年上なのは事実そうで、なんでもよく知っていたし、出来る。分かる。教え上手。それなのにいつも変わらず友達でいてくれた。近くて、分かり合えて、すぐに飛んでいける。

僕たちが知り合ったのは1999年の春、日本への記者旅行のときだった。僕はついちょっと前に雑誌「今日の日本」に就職したばかりで、アンドレイはそのちょっと前にそこを退社したばかり。『創造的なキャリアアップ』を図るためと彼の退社理由を僕たちは冗談めかして語っていた。

彼の元職場と僕の今の職場が一緒だとわかったとたん、僕らは『俺、お前』で呼び合うようになった。話が進むうちに、なんと僕に充てられた担当は雑誌社の中でもアンドレイのやっていた『日本の習慣、武道、日本流マネージメント』で、つまり彼の直接の継承者だってことがわかった。しかも彼はそれらについて全部、またはほとんど全部、それはそれは詳しく知っていた。当時僕は何も、またはほとんど何も知らなかったのだが、大事な事はできた。それは学ぶために目を見開き、耳をそばだてるということだった。

日本での2週間は彼の庇護のもとに過ぎた。僕が初めて覚えた長い日本語のフレーズはルポルタージュ的なもので、これも東京のど真ん中の日枝神社で彼が教え込んだものだった。『お写真を撮らせていただいてもいいでしょうか?』

© 写真 : イヴァノフ氏遺族アンドレイ・イワノフ氏、2002年撮影
アンドレイ・イワノフ氏、2002年撮影 - Sputnik 日本
アンドレイ・イワノフ氏、2002年撮影

アンドレイが『コメルサント』紙に就職したとき、僕は彼と知り合いなんだ、こんなに経験を積んだジャーナリストと昔一緒に日本に行ったことがあるんだと誇らしかった。アンドレイには時々、特に複雑な問題について電話で相談していた。彼が柔道や合気道をやっているところに通いもした。

ただ時間が経過するにつれ、付き合う機会は薄れていったが、それでも互いに視界から消えることはなかったし、会うたびに昔からの友人に再会したときのように喜び合った。新しいニュースはないか、何か変わったニュースはないかと尋ねあった。だけど彼が死んだというニュースを待つはめになろうとは考えもしなかった。しかもこんなにも早く…。君のことは決して忘れない。」

 

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