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被爆者、70年の時を刻んで

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1945年8月6日および9日の原爆により、世界に「被爆者」という概念が生まれた。原爆にあいながら一命を取り留めた人たちのことだ。原爆を身をもって体験した、これら「ヒバクシャ」の数は、年を追うごとに減少している。それに反比例して、彼らの証言のもつ価値はますます大きなものとなっている。ヒバクシャの語る回想は、人々に深い印象と、恐怖心を与える。

その印象の強さは、もしかしたらキノコ雲の写真にも勝るかも知れない。今回ラジオ・スプートニクは、日本原水爆被害者団体協議会の木戸季市(きど・すえいち)日本被団協事務局次長に話しを聞いた。

広島被爆者の坪井直さんの訴える平和の祈り、「人間は戦争で勝つための道具なんです」 - Sputnik 日本
広島被爆者の坪井直さんの訴える平和の祈り、「人間は戦争で勝つための道具なんです」
「僕は8月9日、長崎の、爆心地から2kmの道路に、母親と一緒にいました。飛行機の爆音が聞えたので、その方向を見上げた瞬間に「ピカッ」と光を浴びて、顔を火傷して、ドーンと爆風で飛ばされました。2kmくらいだと、大体人間、20mくらい飛ばされます。それで地面に打ち付けられて、気を失いました。で、母親の私を呼ぶ声で気が付きました。母親は顔から胸から、全部火傷していました。もっとも、そのときの母の顔は全く記憶していません。それで、山のほうへ連れて行かれました。

翌日、爆心地をほとんど通って、田舎へ逃げていきました。この8月9日・10日に見た長崎は、死体がごろごろして、家などもほとんどが焼けてしまった。廃墟の街と、命を失ったり怪我をした人々の群れを見たんです。

私は今年75歳になりましたが、私は「3度被爆者になった」という具合に思っているんです。1度目が8月9日。2度目が1952年、米国の日本占領が終わって、原爆についての報道が解禁され、原爆についての写真などが報道されるようになって、そこで「私は被爆者なのだ」と意識するようになった。それまで、日常的にはごく当たり前の生活をしていましたが、不安な時を迎えるというか、不安から逃れられない生活になっていく。そして1991年に、私はいま岐阜に住んでおり、岐阜には被爆者の会はなかったんですが、被爆者の会を作って、被爆者の願い、「再び被爆者を作るな」「核兵器をなくせ」「原爆被害に国家補償を」という運動に参加するようになり、多くの先輩たちの、運動といいますか、被爆者の生き方といいますか、そういうことを学びはじめます。それが3度目。たしかに被爆者というのは、広島・長崎で被爆をするんですが、その後、「被爆者はどう生きなければならないか」を考え、学び、それを実践していく、そこである意味でもう一度被爆者になる、本当の意味で被爆者になるんじゃないか、そう考えています。そういう意味で、僕は「3度被爆者になった」という印象を持っているんです。」

今日広島では原爆投下70年の記念行事が行われた。日本原水爆被害者団体協議会主催の、「核兵器のない世界のため 被爆者と市民のつどい」と題されたイベントだ。中で、日本被団協事務局長の田中煕巳(たなか・ひろみ)氏が、「被爆70年の時を刻んで被爆者の死と生のたたかい」と題した報告を行った。参加者向けパンフレットにはこうある。「今年は被爆70年。広島、長崎の原爆被爆者の平均年齢は80歳を超えました。「生きているうちに核兵器廃絶を」という願いは切実です。被爆者はこの70年、国内と世界の人々に懸命に訴えてきました。そしていま、この願いを若い人々に受け継いでもらいたいと願っています」。
現時点での日本被団協の課題は何だとお考えか。この問いに、木戸氏は次のように答えている。

「広島・長崎から70年なんですが、被団協ができたのは1956年です。1945年から11年後に出来たということになりますね。その11年間、何をしてたんだ、ということがひとつ、あるわけですが、それは、GHQが原爆に関する報道を禁止していたんです。国際赤十字のジュノー博士をはじめとして、救援のための食糧・医薬品を送って欲しいというお願いがマッカーサーになされたんですが、拒否されました。原爆に関する報道が一切禁止され、被爆者の救援も一切行われないようにしました。たとえば、放射能の被害についても、一切知らされなかった。だから私たちは爆心地に畑をつくって、オイモつくったりカボチャつくったりして、それを一杯食べていたんです。私の言葉で言えば、被爆者は10年間を見捨てられた、遺棄された。それが被爆者の最初の10年でした。

しかし1954年にビキニ事件が起き、日本で原水爆禁止の波が大きく盛り上がります。そういう中で「被爆者の話を聞こう」ということになり、被爆者も原水爆禁止のために、話し始める。それまで全く見捨てられていた被爆者が、話し始める。すると、聞く方も涙、語る方も涙。なんと惨たらしい、原爆というものは何と非人間的なものであるかということで、大変な反響を呼ぶわけです。

そういう中で1956年の8月10日に、長崎で日本原水爆被害者団体協議会、日本被団が結成されます。そこで「世界への挨拶」という設立宣言を採択し、世界の人々に訴えました。「世界に訴えるべきは訴え、国に求めるべきは求める。そして私たち自らを救うとともに、私たちの体験を通して、人類の危機を救おう」という呼びかけをしたんです。本当に、もし再び核戦争が起こったら、人類は滅亡してしまいます。「再び被爆者をつくるな」というのが、私たちの願いなのです。

今年で被団協結成59年ですが、この間、運動をずっと続けてきました。広島・長崎に次ぐ第3の核戦争は、どうにか阻止されてきました。しかし、核兵器はいっぱい残っていますし、国家補償についても、日本政府はずっと拒否し続けてきた。そういう状況です。」

米国務省によれば、広島・長崎で行われる今年の追悼式典には、兵器管理・国際安全保障担当国務次官ローズ・ゴッテミュラー氏が参加する。米国高官が広島の式典に初めて参加したのは5年前のことだ。当時はジョン・ルース大使が参加した。日本国民は、もたらされた被害と苦しみについて、米国が日本国民に謝罪することを求めているのだろうか。

「求めています。まず原爆投下について謝罪しなさい、と求めています。そして、謝罪の一番の表わし方は、自分の国の、米国の核兵器をなくすことです。そして、「世界の核兵器をなくしていこう」という世界の世論を作るリーダーになってくれることを求めています。」

いかなる目標があったとしても、市民に対し原子爆弾を使用したことは正当化されない。「核保有国クラブ」では早くから、たとえ限定的にでも核を使えば破滅的な被害が出る、よって核の使用は事実上不可能である、との意識が共有されている。以来核兵器は軍事というよりは政治の道具となった。ただし、そのことは核の危険をいささかも減じるものではない。

非人道的核爆弾から70周年となることを記念する追悼式典はロシアのいくつかの都市でも開かれる。

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