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マールイ劇場ソローミン芸術監督「黒澤監督は『白痴』の映画化は失敗だったと思っていた」

© AFP 2021 / STF黒澤監督
黒澤監督 - Sputnik 日本
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「『羅生門』を撮影するまで、私はずっと『白痴』をやりたかったんです。若い頃から、ロシア文学を愛していました。ドストエフスキーこそ最良だと思っていましたし、彼の原作から、素晴らしい映画を撮ることができるだろうと、長い間思っていました。ドストエフスキーはやはり今でも大好きな作家です。私の意見では、彼は唯一の、人間という存在について真実を書いた作家です。」偉大な日本人映画監督、黒澤明氏はそう語った。

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世界的な巨匠である黒澤監督と、一緒に仕事をすることができた幸せなロシア人俳優の数は、そんなに多くはない。劇場俳優であり映画俳優の、ユーリー・ソローミン氏(現・マールイ劇場芸術総監督)は、そのような幸せなロシア人俳優のうちの一人である。

ソローミン氏「私はいつも喜びをもって日本のことを思い出します。そのような大事な思い出の中のひとつが、もちろん黒澤明監督との出会いです。私は『デルス・ウザーラ』で主役をさせてもらいました。黒澤監督は、第二次世界大戦が始まる前に既に監督としての仕事を始め、映画人生の第一歩として、『デルス・ウザーラ』を撮りたかったのだと私に話してくれました。実際のところ、監督は当初、主役に日本人をあてることを考えていたのですが、ある日本人プロデューサーが、私を起用するよう要求したのですよ。それは私にとっては本当にラッキーなことでした。なぜなら、全ての俳優が、天才的な巨匠である黒澤監督と出会えるわけではありませんからね。そして私にとっては、彼との出会いは更に貴重なものでした。『デルス・ウザーラ』の撮影の後、私と監督とは30年以上も、彼が亡くなるまで、ずっとずっと友情が続いたのですから。私は90年代に、マールイ劇場を率いて、初めて日本で公演をおこないました。そのとき黒澤監督は個人的に、マールイ劇場の日本公演を宣伝してくれたのです。その際、マールイ劇場の俳優とステージの写真が入った、特別アルバムを作りました。

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黒澤監督はそのアルバムに、冒頭の挨拶文を書いてくれました。私にとっては、彼がロシア文学を愛し、ロシアの古典から何本かの映画を撮影したことは、とてもありがたく大切なことです。日本ではロシア文学が愛されていますし、みんなトルストイやドストエフスキーを知っています。特にチェーホフは、愛されていますね。マールイ劇場は3回、日本で公演したのですが、その3回とも、チェーホフの『桜の園』を上演しましたよ。日本の観客の皆さんが『桜の園』が見たい、また見たいとリクエストされるのです。皆さん、『桜の園』が好きなんですね。」

ソ連時代、黒澤監督の映画は非常にたくさんの人に鑑賞され、人気を博した。「デルス・ウザーラ」が公開された後、黒澤監督のもとには何回も、何かしら新しい映画をロシアで撮ってほしいというリクエストが来ていたという。ソローミン氏は、当時を次のように思い出している。

ソローミン氏「私も黒澤監督に、もう一本映画を撮ってくれるよう提案しました。黒澤監督は、当時の『モスフィルム』の総裁だったニコライ・シゾフ氏を大変尊敬していました。何といっても、シゾフ総裁が、黒澤監督が『デルス・ウザーラ』を撮ることを提案したのです。黒澤監督はすぐに賛成しました。それは彼の長い間の夢だったのですからね。その夢がかなった後、黒澤監督はエドガー・アラン・ポーの『赤き死の仮面』をロシアで撮影したいと考えていました。黒澤監督は『赤き死の仮面』の主役を私が演ずるよう誘ってくれました。音楽は、イサーク・シュワルツが作曲する予定でした。彼は『白夜の調べ』に素晴らしい音楽を提供した人です。

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しかし、残念ですが、その計画は実現しませんでした。当時黒澤監督はサンクト・ペテルブルグに来て、私たちはこの映画についてたくさんの打ち合わせをしました。しかし、あるとき、黒澤監督は何人かのロシア人映画関係者たちから侮辱されたと感じたのです。それはどういうことかというと、当時のソ連には芸術評議会というものが存在していたのですね。この評議会と、どういうアーティストを起用するかについて、お伺いをたて、意見を一致させなければならなかったのです。黒澤監督はそのシステムに慣れていませんし、それをすることを拒否しました。でも私は、その撮影されなかった映画の脚本のロシア語版を、聖なる人の遺物のように、今でも大事に保管しているのですよ。

そのことがあっても私たちの友情は続きました。私が日本へ行ったときには必ず彼と会いました。私がマールイ劇場の芸術監督に就任した1989年、この劇場で、好きな戯曲を上演してくれるよう黒澤監督に提案しました。彼は長い間それについて考えていましたが、その提案をのみませんでした。なぜならば、彼はロシア古典文学を愛してはいましたけれども、彼が撮影したドストエフスキーの『白痴』は失敗に終わった、と考えていたのです。本当に残念でした。もし監督がOKしてくれていたら、私たちは彼の望む条件、劇場に求める条件を、全て満たす用意がありました。『白夜の調べ』で私と共演していた栗原小巻さんがその劇に出演してくれたかもしれません。

黒澤監督はそれからまもなくこの世を去ってしまいました。でも私のまわりには、黒澤監督に関わる色々な物が今でも残っています。映画監督になる前、彼は芸術アカデミーを卒業しました。私の書斎には、黒澤監督がくれたサイン入りの絵が飾ってあります。彼が自分で描いた、目が輝いている虎の頭の絵です。これは『デルス・ウザーラ』の思い出の品なのです。この絵は、私の誕生日に、ロシア語で書いたお祝いのメッセージと一緒にプレゼントしてもらいました。これは私にとってとても大切なものです。その後、彼はロシアに来ることはありませんでしたが、毎年の正月と、誕生日には、『黒澤画家』は新しい絵葉書を送ってくれました。そのたくさんの絵葉書は、私たちの友情の記憶として、書斎に大切にしまってあります。」

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