俳優ソローミン氏:露日間に理解できないことがあっても対話さえあれば

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俳優ソローミン氏 - Sputnik 日本
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日本でも有名なロシア人俳優のユーリー・ソローミン氏。ソローミン氏は黒澤明監督とも一緒に映画撮影に協力し、親交を温めたが、実はご自身の幼年時代にすでに戦争、そして日本というイメージが存在していた。

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そして幼い頃に国境やイデオロギーの違いがあろうと、言葉がわからなくとも人は互いに分かり合えるのだという理解に至っていたという。ソローミン氏がどうしてそうした考えを持つに至ったか、あるエピソードを明かしてくれた。

「私は生まれはザバイカリエ(バイカル湖東岸地域)でそこからはわずか400キロで中国です。そこに暮らしていた幼年時代、戦争が行なわれていました。日本の関東軍も私たちの町に近い場所に駐屯していたのです。

関東軍といえばあの頃はドイツの同盟国の軍でした。ですから私たちの町では空襲を恐れ、中の様子がわからないように窓ガラスを黒く覆っていました。

でも関東軍はすぐ近くに駐屯していたのですが、そこからの砲撃は一切ありませんでした。400キロといったらそうたいした距離ではありません。これは今、ロシアと隣のウクライナとの間で起きていることを見ると、これは今、ロシアと隣のウクライナとの間で起きていることを見ると、私にはよくわかるんです。そこではどれだけの犠牲がでていることでしょうか。ですから関東軍が私たちのいる場所に撃ってこなかったというのは、これは驚くべきことだと思うんです。だってですよ。子どもの頃、街にはソ連軍の将軍や元帥が結構いましたからね。そこには何らかの軍事課題を処理するために来ていたのだと思います。それでもこれだけ近いところに関東軍がいたにもかからず、空襲の怖い思いを味合わずに済みました。今でも日本人は非常に好戦的だったという話は今でも聞きますからね。

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その代わり、私は日本兵の捕虜を翼覚えています。チタ市には戦後、こうした日本人捕虜がたくさんいたのです。彼らは中に毛皮が裏打ちされた防水コートを着ていました。3人で声を合わせて歌いながら歩いている姿をよく見ましたよ。その後ろについている兵士はたった一人でね。まあ、武器は持っていましたけど。それでもこの警備は単なる形式的なものだということはわかりました。鉄条網もなんにもありません。

母は音楽家でチタで子どもたちに音楽を教えていました。うちにはグランドピアノ、スタンドピアノ、ヴァイオリンがありましてね。父もあらゆる弦楽器を弾きましたよ。合唱の指揮者をしてましてね。うちは木造建築でした。

その隣に日本人捕虜たちが新しい家を建てていたんです。それで日本人たちは表の通りに出るのによくうちの中庭を通過していたんです。うちの窓はいつも開けっぱなしでしたから、ある日本人はいつも通りがけに母に挨拶をしていました。母も子どもを相手にしながら、いつもその方に挨拶を返していましたね。母はいつもみんなに親切にしていました。

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しばらくたったころ、ある日この人はうちの前に立ち止まって母と話し始めました。二人は本当に話を交わしていたんですよ。帰宅した父がそこのことを知って、母に尋ねました。『それで君は彼の話が分かったのかい?』 すると母は『もちろんよ! あの人の奥さんも音楽家なんですって。奥さんとお子さんの写真見せてくださってね。ヴァイオリンの写真も。』これを聞いた私は言葉などわからなくとも民族はみんな互いに話ができるのだと確信したんです。」

日本と戦争というイメージはその後のソローミン氏の人生にも顔をのぞかせた。

ソローミン氏:「1990年代、マールィ劇場が日本に公演にいったときのことです。電話がかかってきて、芝居にあるプロデューサーがお見えになるから、といわれました。ものすごく裕福な方だと。

やがて年配の方が見えて、私たちはどうぞ、こちらへと恭しく招き入れました。その方は通訳を連れておられました。テーブルには数種の果物がおいてありまして、その中にリンゴがあったんです。

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話が終わりますとその方は長いことリンゴを手にとって、どれにしようか選んでおられました。その方が選ばれたのは私たちから見ると一番いいリンゴではありませんでした。他のリンゴに比べるとピカピカとしているわけでも、真っ赤でもなかったのです。

すると突然、その方はロシア語でしゃべりはじめました。そしてどうしてこれを選んだのか、ぴかぴかとしたものより、なぜこのリンゴが良いのかについて、語り始めたのです。ピカピカしたものは人工的なものに近い。このりんごには斑点がある。ということは本物なのだと。私たちはもちろん彼の言う事がもっともだと同意しましたが、それよりも驚いて、いったいどこでこんな見事なロシア語を身につけたのですかと尋ねました。

なんとこのかたはサハリンで、捕虜に捕られた時代にロシア語を習得されていたのです。それ以来、ロシア語を忘れることなく、機会があるごとにロシア語で人と交わろうとされてこられたのでした。
こんなことから思うのです。あのときのリンゴのように人生の様々な時期に我々の国どおしの関係には互いの理解が及ばない斑点のようなものが生じるときがあると。大事なのは対話があるということなんです。これを私たちに教えてくれているのが歴史であるし、私たち自身の人生ではないでしょうか。」

 

 

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