『ロシア革命一〇〇年の教訓』(6)

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『ロシア革命一〇〇年の教訓』(6) - Sputnik 日本
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今回は「序章 ロシア革命の虚妄」の第五節をご紹介しよう。

ロシア革命 - Sputnik 日本
つぎの拙著へ向けて:『ロシア革命100年の教訓』(仮題)
序章 ロシア革命の虚妄

5 ロシア革命と日本

ロシア革命一〇〇周年と日本との関係を顧みるとき、翻訳の難しさを強く感じる。単刀直入に言えば、誤訳の問題が複数あり、それが日本人の無理解につながっている。それは、日本語訳を介して社会主義思想を取り入れた中国などにもおよんでいる。事態はきわめて深刻だ。そこで、ここで誤訳問題を取り上げたい。それは同時に、知識人と呼ばれる人々への厳しい糾弾につながるものになるだろう。

この問題を考えるには、木村直恵の論文 「「社会」以前と「社会」以後:明治日本における「社会」概念と社会的想像の編成」が参考になる。木村によれば、"society"という概念が蘭仏辞書の和訳事業のなかでオランダ語から日本語に翻訳されたのは一七七〇年代で、その後、「社会」が定訳となる一八七〇年代に至る約一〇〇年間に長い試行錯誤があったという。さらに、興味深いのは、「その間、後世の研究でしばしば対応させられる「世間」という言葉を〈society〉概念と結びつける発想が存在しなかったことである」とのべている点だ。ゆえに、「社会」と「世間」を安直に結びつけている宮永孝著「社会学伝来考」といった論文は根本的に間違っていることになる。

辞書の一項目としての翻訳では、当初、訳語群は、「交る、集る、朋友、会衆、侶伴、ソウバン(相伴)、交り、一致、寄合、集会、仲間、つき合、組合、懇……」といったものであった。直接的な人間関係を想起させる言葉であることがわかる。その後、単語としての意味ではなく、"society"という概念を生み出した言語的・文化的表象の構造上の差異を理解したうえでこの概念を翻訳しようとする努力がなされる。たとえば、西周は「相生養之道」(互いに異なりあう人々が、それぞれかけがえのない存在価値をもち、相互に支え合う理想社会のイメージを示している)、福沢諭吉は「人間(じんかん)交際(の道)」(家族や血縁の間柄を超えて、広く他人と交わること)と訳出した。

他方で、"society"という概念が人的結合という面をもっていることにも福沢も西も気づいていた。「アソシエーション」に近い意味を感じていたのである。そこで注目されるのが「明六社」である。一八七三年に森有礼によって結成が呼びかけられ、翌年に正式に発足したもので、「「ソサイチー(society)」というものを日本でも実践してみようという自覚的な意識のもとで結成された最初の団体であった」という(木村, 2013, p. 276)。福沢も西もこれに参加した。このため、「明六社は、ちょうど幕末維新期の日本人が西洋において驚嘆した「会社団結・社中」というもの、すなわち西洋近代的な自発的結社(voluntary association)を日本において再現しようとする試みであった」と、木村は叙述している。ここに至って、「ソサイチー(society)」=「アソシエーション」という共通の理解が得られたかにみえる。

「社会」と新聞

ところが、別の動きによってこうした理解はあっという間に席捲されてしまう。それは、当時、急速に広がりつつあった新聞の影響力の大きさによるものであった。通説では、「社会」という翻訳の初出は新聞記者である福地桜痴が執筆した一八七五年一月の新聞(「東京日日新聞」一月一四日付)の論説記事中にある。「高上なる社会(ソサイチー)」という言い方で登場するのだが、これは、自分の書いた論説に対する個人攻撃を伴う批判をした投書家に対して、彼が「社会(ソサイチー)」に属する資格をもっていないと批判したものであり、その「社会(ソサイチー)」は十分な教養をもち、議論のルールをわきまえた、ともに議論するに値する人間だけが所属することのできる公共圏という意味をもつものであった。

新聞で使用された「社会」という訳語は大きな影響力をもつようになる。それを決定づけたのが一八七五年六月の新聞紙条例と讒謗(ざんぼう)律という二つの言論規制法の成立であったという。「ソサイチー」=「アソシエーション」の立場に立つと、それに属する者らで自主的に議論しルールをなすことが肝要なのだが、この言論統制によってこうした理念はまったく無視されることになる。それどころか、取り締まりの対象となったことで、明六社は福沢の動議に応じて、公的な議論の場ではなくなり、私的な交際の場へと閉塞したのである。

他方で、政府権力との対立というかたちで公共圏の自意識が強化され、「政府が規制しようとしているのは、直接的には新聞メディア公共圏の言説なのだが、ひいては広く人民全体から成る「社会」を抑圧しようとしている」といった観点から、民の領域として「社会」を広く捉えようとする姿勢が顕著になる。さらに、「上等社会」、「芸妓社会」といった用法を通じて「社会」が階級と近似するようにもなる。

廣西元信の功績

ここで、廣西元信著『資本論の誤訳』の話をしたい。彼はつぎのような興味深い指摘をしているからである。

「日本では会社と社会とは相対的に別のものとして受けいれられ、反対概念として考えられています。これは明治の官僚政府が、会社と社会とが同一では都合が悪かったということから由来した造語です」(廣西, 2002, p. 23)。

なぜ都合が悪かったのかというと、それは、明治政府が「ソーシャリゼーション」(socialization)という言葉の真意を意図的に隠蔽しようとしたからである。「ソーシャリゼーション」とは、民間会社が病院、教会、学校などに寄付を行い、民間会社の存続を間接的に拡充するために外部に向けた広がりをもとうとする運動を意味している。この英語のもつイメージをそっくりそのまま、明治時代に輸入していれば、こうした「ソーシャル」な活動は寄付行為としてみなされ、個人の場合には、所得控除、法人の場合には、費用として損金算入扱いされ、税金の対象にならずにすむことができたはずだ、英米のように。だが、富国強兵を急ぐ明治政府は、それが歳入の減少につながることをよく理解していた。ゆえに、明治政府は「ソーシャリゼーション」という社会的慣行を抹殺すべく血道をあげた。そのためには、"society"という概念から会社を切り離すことが是非とも必要であったわけである。

廣西の理解では、"society"は「会社」に近いものを意味する。彼はつぎのように解説する。

ロシア革命 - Sputnik 日本
『ロシア革命一〇〇年の教訓』(2)
「西欧諸国民の間に、どうして社会=会社などという「歴史的慣習」が生まれたのか。それは、ルネッサンンス以降、市民たちの、権力者との激しい、苦難の闘争過程で形成されたものです。会社、それは権力者に対する市民の防衛、城塞(じょうさい)であった。会社をつくる、会社化するということが、権力者に対する対抗手段であり、市民の結集であった。そこで会社とは即ち社会であり、社会とは権力政府に対する城塞的概念であった。社会化とは、政府のものを奪いとって、会社化する。民間会社化することであった」(廣西, 2002, p. 190)。

日本の場合、ロシア革命後、「初の社会主義」と喧伝された「社会」主義への警戒感から、「社会」という言葉が警戒されるようになる。これは、治安維持法に基づく内務省による「社会」活動への取り締まり強化につながったのである。その一方で、一九一七年に内務省地方局内に設置された「救護課」は一九一九年に「社会課」と改称され、一九二〇年には「社会局」に発展するのだが、一九二二年には内務省の外局となる(市野川, 2006, p. 195)。内務省の外局となった「社会局」を「衛生局」と統合して新しい省を設立することが決まった際には、近衛文麿首相の「社会保健省」案と陸軍省の「保健社会省」案が出され、一時、「保健社会省」設置が仮称として決まった。だが結局、一九三八年一月に誕生した省の名称は「厚生省」となる。

もう一カ所、きわめて興味深い廣西の記述を紹介したい。本書ですでに何度か紹介したアーレントと同じく、言葉の原義にまで遡って思考することがいかに重要かを教えてくれる。

「もともとは、日本でもシナでも、社会という字の社は、鎮守の森のことであって、この守護神のある鎮守の森に会合することです。それは村役場や国家のように、常設の事務局、機関を持っているものではありません。時どきの必要によって、社に会合する。通例としては、村役場や国家機関とべつな行事のために会合するものです。権力者の意志に反対の意向を取りまとめるためにも、この鎮守の森で会合するのです。村の若衆や長老組が具象的に実存するから、社会が成立するのです」(廣西, 2002, p. 121)。

このように、"society"という概念を私的な空間から公共圏へと意図的に取り違えてしまった日本では、当然の結果として「社会主義」(socialism)という概念に対しても大きな誤解が生じてしまう。その結果、「「誤訳」が育てたマルクス経済学」(廣西, 1993)のようなものを生み出してしまったのである。

ヨーロッパにおける"society"の系譜

「社会主義」なる翻訳の誤謬について検討する前に、ヨーロッパにおいる"society"の系譜について考えてみたい。この前形はラテン語socius(仲間)を語源とするフランス語の"société"およびラテン語"societas(ソキエタス)"であり、一四世紀に英語に入ってきたものである。拙著『官僚の世界史』で指摘したように、個人を前提とする"society"について深く考えたのはイギリスの政治哲学者ジョン・ロックである。彼の"society"の議論には、王権神授説に基づく君主主権論をめぐる議論がある。治安維持、立法、軍事、執行、司法、貨幣鋳造、金銭賦課といった権限すべてを、完全なかたちでは保有する絶対王政が誕生する背後には、すべての生物と大地を支配する支配権を神がアダムにのみ与えたことを根拠に、この父と子の関係のアナロジーとして、神がアダムのみを創造し、アダムに専制権力を与え、彼の長子系にその権力を属するように定め、その家父長制の系統に属する国王こそ絶対権力を有するという見方がある(関谷, 2003, p. 177)。このロバート・フィルマーの「家父長論」に代表される父権優先の見方に対して、ロックは「両親権」を説き、両親の対等の権利を認め、一人の人間による支配の成立根拠に疑問を呈している。このためロックは、贈与によるアダムのすべての生物に対する支配権が父たる身分に由来する権限に帰結するものではなく、イブがアダムに服従したことも夫婦間の権力関係にすぎないとする。

最初の"society"(「社会」)として、ロックが男と女との間の自然的契約に基づく夫婦をあげたのは父権ではなく両親権を重視するという見方があったためなのだ。そのうえで、"political society"(「政治社会」)が想定され、その構成員の各自が自らの生命・自由・財産を他人の侵害から守る権利および自然法に反した犯罪者を裁いて処罰する権利を放棄して、「共同社会」に委ね、すべての構成員が「政治社会」によってつくられた法に保護を求めることを排除されないことが必要とされる。この「政治社会」はあくまである領域を前提とする共同体として語られている。だからこそ、ロックは、「どれほどの数であれ、一つの共同社会、具体的には政府を作ることに同意したならば、それに基づいて、彼らはすぐに結合して一つの政治体を作ることになる」とか、「自然状態から脱出して一つの共同体に結合する者は誰でも、過半の人々に明示的に同意しない限り、社会へと結合する目的遂行に必要な権力のすべてをその共同体の多数派に放棄すると理解されなければならない」と考えたのだ(関谷, 2003, pp. 179-180)。

ただし、ここで想定されている「社会」は、せいぜい国家でしかない。共同体を越えた「社会」は考えられておらず、社会契約といっても、それは国家との契約の問題が議論されているにすぎない。ロックは一七世紀後半に書いた『統治二論』の第二部において、"The first Society was between Man and Wife"と書いている(Locke, 1680-1690, 77-5)。ここで、"Man"と"Wife"が、"individual"(個人)として前提されている点が重要である。まさに、個人を前提にして、夫婦の関係から出発し、家族へと広がり、会社へと広がる「仲間」として、"society"がイメージされていたことになるこのとき、母親と赤ちゃんとの間に"society"が生まれたとしなかった点に深い含意が込められている。夫婦の関係は、いわば「大人」の関係であり、「個人」と「個人」の関係から成り立っているとみるのが当然であろう。だからこそ、ロックは、「夫婦の"society"は男と女の間の自発的な盟約によってなされている」と書いている(Locke, 1680-1690, 78-1-2)。自発的ないし自由意志の盟約(voluntary compact)があって、初めて"society"というものが成り立つのである。"society"という概念が広まったのと同じころ、あるいは、その少し前に生まれた「本当の自分」をさらけ出す、「分けられない」存在としての個人という概念がこの"society"の前提にあると言える。

ここで注意喚起しておきたいのは、この「仲間意識」の醸成がそれに対立するものとしてあった権力組織を国家(state)と意識させるようになった点である。廣松は、一八世紀を迎えると、資本主義的経済の自律的な論理が明確になってくるのと相即的に、旧来不可分の一体をなしてきた政治と経済の混淆(アマルガム)から経済の自律性が目立つようになり、政治的秩序と経済的秩序の区別(いわゆる市民社会と国家との区別)が意識されるようになるとのべている(廣松, 1989, p. 193)。その結果、ホッブズ・ロック的な国家=社会理論においてCommon-Wealth(キヴィタス)という形で一体的にとらえられていたところの「生活共同体」=「政治的共同体」が、今や社会と国家とに区別してとらえられるようになるという。この分離ののちに、「国家は、市民政府を形成するにいたった高度社会として理解される」ように位置づけられるのだ(同, p. 194)。アーレントによれば、この過程は「家族(オイキア)」あるいは経済活動の公的領域への侵入であり、それは私的領域に閉じ込められていた「労働」の公的領域への拡大を意味していた。それが「社会」の勃興につながり、その結果、私的領域と公的領域の相違はやがて完全に消滅し、両者はともに「社会的」なるものの領域に侵されてしまう(Arendt, 1958=1994, p. 98)。「社会」においては、もはや公的なるものは私的なるものの一機能になり、私的所有を保護するために政府が任命されるようになる。私的利益が公的関心にもなったのである。

「社会主義」という誤訳

すでに指摘したように、マルクスは『ゴータ綱領批判』のなかで、共産主義社会の第一段階と共産主義のより高度の段階を区別した。「資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会」と「それ自身の土台の上に発展した共産主義社会」で、前者が社会主義社会と呼ばれているものだ。だが、この理解には決定的におかしなことがある。

この移行を英語で言えば、"socialism"から" communism"へということになる。ここですぐにわかるのは、"socialism"を日本語で「社会主義」と訳してしまうと、"society"を前提とした"socialism"であるはずなのに、社会が公共圏を意味しているとみる日本語理解からみると、いきなり個人、家族、会社を超えて社会だけが関心の対象になってしまうことになる。その発展した段階である"communism"は"community"といった共同体の空間をイメージしたものだから、これでは発展した段階のほうが狭い範囲にしか適用されないことになってしまう。これでは、適用範囲からみると「逆戻り」の印象をあたえてしまう。"socialism"を「社会主義」と訳したこと自体が誤りなのである。

どう考えてみても、ここでいう狭義の"socialism"が問題関心としているのは、日本語でいう「社会」ではなく、「会社」であったのだ。したがって、"socialism"を日本語に翻訳するとすれば、「社会主義」ではなく、むしろ、もっと個人に近い範囲の「社交主義」ないし、仲間の集いを意味する「社中」を使った「社中主義」と訳したほうが本来の意味にずっと近い。あの坂本龍馬のつくった「亀山社中」を想起してもらえばわかりやすいだろう。それが、発展すると、仲間の集いである会社を超えて、共同の領域にまで拡大するというわけだ。ゆえに、"communism"は「共同体主義」と翻訳するのが正しい。

だが、社中主義にしても共同体主義にしても、あるいは社会主義にしても共産主義にしても、その中身は労働からの解放を夢見るユートピア思想の一種にしかすぎない。むしろ、言葉が多すぎて混乱するだけであり、研究対象とするにも二の足を踏みたくなるほどだ。

「アソシエーション」への誤解 (割愛)

ロシア革命と日本 (割愛)

シベリア出兵と尼港(にこう)事件 (割愛)

 

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