『ロシア革命一〇〇年の教訓』(13)

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今回は「第2章 軍事国家ソ連という教訓」の第三節をご紹介しよう。

第2章 軍事国家ソ連という教訓


3 「チェーカー」の浸透

「チェーカー」の初代指導者と言えば、フェリクス・ジェルジンスキーが有名だ。彼は一九一七年十二月、VChKを指導することになった。翌年の二月には、VChKの同僚らの会議で、投機的取引や政治的敵に対してのみ秘密のエージェント(ロシア語ではсотрудники)を利用することが採択されたという(Млечин, 2006, p. 7)。一九一九年八月、ジェルジンスキーはVChKの軍を管轄する特別部の部長を兼ねるようになり、同年十月からは内務軍・軍ソヴィエトの代表者にもなる。

一九二一年には、レーニンを警護するための特別の部署を設置し、のちに警護対象を財政人民委員部や国立銀行(ゴスバンク)などに広げる。興味深いのは、入出国の許可窓口にVChKの特別部がなったことである。ロシアでは、一八〇一年四月、アレクサンドル一世がパーヴェル一世の暗殺後、海外への自由な出国を禁止したが、ボリシェヴィキが政権を握ると、国家安全保障機関の許可がある以外の国民の入出国を禁止した(Млечин, 2006, p. 25)。一九二〇年六月、外交人民委員会は外国パスポート令を承認し、VChK特別部の許可がなければ国民の入出国ができない仕組みを整えたのである。このルールは一九九一年のソ連崩壊までつづけられたというから、長く「チェーカー」は外国との往来に厳しい目を光らせることで、その権力拡大につなげてきたと言える。

ジェルジンスキーは一九二二年二月、VChKの廃止に伴ってGPUの代表に横滑りした。同年の四つの共和国(ロシア、ザカフカース、ウクライナ、白ロシア)の連邦、すなわちソヴィエト社会主義共和国連邦の誕生に伴って、翌年、GPUがソ連人民コミッサールソヴィエト付属統一国家政治総局(OGPU)への移行にしたことから、ジェルジンスキーはこのOGPUの長官に就任する。あまり知られていないが、担当を多くかかえていたジェルジンスキーに代わって、GPUやOGPUの特務任務を一手に牛耳っていたのはヴァチェスラフ・メンジンスキーであった。ジェルジンスキー後のOGPU長官に就任する。

肝心なのは、OGPUが内務人民委員部から離脱して人民コミッサールソヴィエトの帰属に戻った点である。同ソヴィエトはレーニンと政治局の支配下にあったから、OGPUを利用してレーニンらは権力の集中化をはかることができるようになったのである。これを契機に、「血のチェーカー」を終わらせ、国家に対する犯罪との闘争だけがOGPUの任務と喧伝されたが、実際には、チェーカーの広範な職務はすべて残されたのである。そこには、OGPU議長とその補佐、当該事件担当捜査検事のもつ、裁判なしに銃殺することのできる権利が含まれていた。さらに、党中央委員会は、すべての「非党的」な会話や反党的な行動をOGPUに通報することを党員の義務とする決定を出した。OGPUの幹部は党のノーメンクラトゥーラ(任命職リスト)に加えられることになり、この人事権を使って、党書記長だったスターリンは権力を強化したのである。なお、OGPUは一九三四年七月、内務人民委員部(NKVD)に管理下に移されて再編される。秘密警察は党と政治局から離れて、再び内務人民委員部の奥深くに姿を消すことになる。スターリンは党の政治局員らを抹殺しようとしていたわけだから、「チェーカー」を奥の院に隠す必要があったのだ。

一九二四年になって、ジェルジンスキーは経済最高ソヴィエトの議長に就く。冶金、金属加工、機械製作の発展に焦点をあてたことが知られている(Fitzpatrick, 1985, p. 114)。ジェルジンスキーを通じて、「チェーカー」は軍事産業にもかかわりをもつようになったのではないかと推測できる。とくに、彼は経済最高ソヴィエトの金属総局に代わって冶金・機械製作の発展を調整するための臨時委員会を同年に設立し、やがてこれはソ連冶金省になっていくことになる。

企業内で起きたこと

「チェーカー」は企業内にも存在し、企業活動を監視してきたし、ソ連崩壊後の二一世紀の現在でも省庁や大規模な企業や銀行は監視下におかれている。この点については、拙著『ネオKFB帝国』や『プーチン露大統領とその仲間たち』のなかでも指摘した通りである。ここでは、ロシア革命前後に企業内でなにが起きていたかについて分析し、ロシア革命の一断面を明らかにしたい。

ロシアの農村部には、伝統的に農民を代表する「頭目」(headman)を選ぶ習慣があり、これに倣って、企業では経営陣に対して労働者を代表するものを選んで交渉してもらうということが伝統であったという(Smith, 1985, p. 57)。一九〇三年、公式の労働組合組織を是認することを拒否したロシア帝国政府は労働階級の怒りを鎮めるために、初歩的な労働者代表形態としてロシア語で「スタロスタ」(староста)、英語で「スチュワード」(steward)という概念に近い者を選定し、経営側と交渉できるようにする法律を制定した。スチュワードは神から授けられた恵みを管理する人を意味しており、農民からの依頼を管理して経営側と交渉する役割が与えられた(拙著『官僚の世界史:腐敗の構造』に詳しい)。しかし、雇用契約の変更を求めるだけの権限が与えられず、スタロスタ自体の権利保護規定もなかったから、この制度はうまく機能しなかった。

一九〇五年の「革命」をきっかけにして、一九〇六年に印刷業者が「自主的委員会」を設立することに成功したが、一九〇七年以降になると、ほとんどの委員会が閉鎖に追い込まれた。この結果、スタロスタさえ配置できなくなり、労働組合の設立も事実上、不法とされてきた。だが、二月革命後に、工業や輸送の企業の労働者によって「工場委員会」(фабрично-заводские комитеты)が相次いで組織されるようになる。一九一七年四月二十三日付で「工業企業における労働委員会について」という法律が制定され、賃金や労働時間の交渉のために工場委員会の設立が正式に認められた。

ところが、労働者の利益を代表する組織としては労働組合もあるから、工場委員会と労組との関係が問題になる。ロシアの場合、一九〇五年の「革命」を機に、労組が多数、組織化されたが、弾圧されて地下に潜るような状況にあった。一九一七年の二月革命後、労組は急速に再組織化される。こうして、工場委員会と労組との企業内における権限争いが起きるのだ。といっても、ロシアの労組は冶金、繊維、印刷、木材加工などの産業別組合が基本であり、企業別労組ではなかったから、各企業の工場につくられた工場委員会とは若干、形態が異なっていた。

ペトログラードの治安が悪化していた時期には、工場委員会と労組の利害は治安維持で一致しており、大きな対立にはならなかった。現に、八月二十四日には、ペトログラード労働組合協議会と工場委員会中央会議との合同会議は、労働者民警の組織「反革命からペトログラードを防衛する委員会」の設置を決議している(長谷川, 1989, p. 182)。

一般的には、ボリシェヴィキはブルジョア階級に打撃を与え「労働者による支配」を企業内で確立するために、工場委員会や労組を支持したが、それは権力奪取のためであり、十月革命後、ボリシェヴォキは工場委員会と対立し、労働者支配を排除したと考えられている。しかし、この批判は的を射ていない。なぜなら、労働者支配は一方では、経済に対するボリシェヴィキのコントロールの基礎を創出するのだが、他方では、経済に打撃を与え、新しい政府の運営に支障をきたすからである。スミスが主張するように、ボリシェヴィキは本来、工場委員会の労働者支配と経済の国家による組織化との間での両立ができないことに気づいていなかったのかもしれない(Smith, 1985, p. 150)。そもそも工場委員会の幹部はボリシェヴィキの党員でもあったから、党が工場委員会を裏切ったという説明は根拠があるとは思えない。ボリシェヴィキにとって経済の支配が労働者によってなされることがなによりも重要であったのはたしかであろう。レーニンはメンシェヴィキの主張する国家による経済支配のもとでは、資本家によるサボタージュや労働者の犠牲がともないかねないと信じていたはずだ。

工場委員会と労組の違い
重要なことは、「工場委員会は労組よりも普通の労働者にずっと近かった」という事実にある(Smith, 1985, p. 203)。工場委員会は仕事の種類とは無関係に同じ工場で働くすべての者を代表していたが、労組の場合、同じ工場の労働者であっても異なる労組のメンバーであった。産業別労組であるため、職業によっては異なる労組に加入していたからである。労組は設立後、フルタイムの労働者の属する場として官僚化し、女性や若年層、さらに帰還兵や逃亡兵などの途中入社組を軽視したから、工場委員会のほうがより多くの労働者の人気を集めていたと言える。

十月二十日に創設された軍事革命委員会は、工場委員会、労組、党、軍の組織の代表者からなっていた。十月革命後になると、工場委員会の指導者は自らの手に権力を集中させようとするようになる。それは、多くの労働者から情報や意思決定を遮断することを意味した。他方、労組もまた新しい政府の「経済機関」に転じようとした。そうすることで、既得権を守ろうとしたわけだ。

一九一七年十一月十四日には、全ロ中央執行委員会令として、「労働者コントロール規程」が公布される。工業、商業、銀行、農業、輸送などのすべての企業における経済の計画的調整のために、生産物の生産・購入・販売、保管などに対する労働者支配が導入されることが定められた。労働者支配を行うのは、工場委員会や職長ソヴィエトなどの選挙で選ばれた機関とされたが、実際の労働者支配をどう実施するかの具体的な詳細は指令には書かれていなかった。このためこれを契機に、工場委員会と労組、さらに地方ソヴィエトは指令の執行指示書の作成で権謀術数をふるう。

率直に言うと、このあたりの経過は複雑でよくわからない(工場委員会と労組との攻防についてはスミスのRed Petrogradに詳しい)。ここでは、時系列的になにが起きたかをみると、一九一七年十二月二日に経済最高ソヴィエト設置令が出される。労働者支配のための機関をその傘下におこうというのだ。同ソヴィエトは個別の産業部門を管理する「グラフキ」や「センター」と呼ばれる機関に分かれた。地方経済ソヴィエト(ソヴナズホズ)は経済最高ソヴィエトに従属するかたちをとった。こうして国有化をめざす体制が整えられたのだ。経済最高ソヴィエトは「内閣」である人民コミッサールソヴィエトの付属機関と位置づけられたから、経済最高ソヴィエト自体は党やその指導者の支配下におかれることになった。

図 工場委員会中央ソヴィエトの構成 (割愛)

この経済最高ソヴィエトを最高機関として、企業をどう管理するかについては、図のような「工場委員会中央ソヴィエト」を中心とする支配構造がつくられた。一九一八年一月九日、工場委員会中央ソヴィエトは指令と事実上の支配に関する指導を発した。そのなかで、工場委員会は企業活動の単なる「観察者」であることを止め、企業のすべての問題の責任ある主体、「指導者」になることになった。工場委員会は企業のオーナーや経営陣の活動を停止させることが可能となり、既存の生産、原料、燃料、労働者を管理し、技術者と共同で作業計画を設定し、問題解決をはかる。図にあるように、工場委員会は五つの下部委員会を設置し、必要に応じて補助委員会もおく。工場委員会は地区当同社支配ソヴィエトに統合され、同ソヴィエトは、今度は県や州のソヴィエトの傘下に入り、それらは工場委員会中央ソヴィエトの指導のもとにおかれる。こうして、ソヴィエトの支配下に工場委員会がおかれることになったわけである。これは、ボリシェヴィキが工場委員会を、ソヴィエトを通じて乗っ取ったかたちにみえる。だが他方で、工場委員会は労組を従えたのであり、単純にボリシェヴィキによる労働者支配の排除とは言えない。

こうした上からの制度化は、労組に対する工場委員会の勝利という結果をもたらした。労組は賃金引き上げや待遇改善をめざす闘争には慣れていたが、生産改善をめざす問題に取り組むことにたけていなかったことが労組にとって痛手となった。革命の混乱やその後の内乱などで、都市部では、食料調達問題の重要性が増すなかで、燃料や原料の調達やその生産維持が重要性を増したから、こうした問題解決に取り組むだけの能力をもった工場委員会のほうに分があったことになる。しかも、前述したように、労組に比べて、工場委員会の人気は高かったことも工場委員会の優位につながった。

結局、燃料や原材料の調達が困難になるほどの経済危機のもとでは、両者の妥協が急務となり、一九一八年二月、ペトログラード工場委員会会議と全ロ労組大会の決定に基づいて、工場委員会と労組とが合併することになる。といっても、労組は産業別の職業ごとに形成されていたから、企業(工場)単位の工場委員会と労組との統合は簡単ではなかった。工場委員会は生産部門の被雇用者からなるすべての労組の労働者を統合しようとしたが、個別の企業の枠組みがこれを妨げたのである。そこで、労組はロシア全土のレベルで生産労組を設立し、工場委員会は地区や市のレベルでの労組との統合をはかり、ついで県・州などのレベル統合したのである。こうして一九一八年の段階で、企業レベルでのすべての労働者・職員は「生産労組」の基礎・土台を形成し、その生産労組執行機関となったのは労組メンバーのなかから企業の労働者や職員によって選ばれた委員会、すなわち工場委員会となる。

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