私の友人、パーシャについて:ツポレフ154墜落事故

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私の友人、パーシャについて:ツポレフ154墜落事故 - Sputnik 日本
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今日はとても個人的な話を書きたい。私は昨日の朝起きてすぐ、ロシア軍の航空機ツポレフ154が黒海に墜落したと知った。シリア反体制派のテロかと思い、私はニュースを読み始めた。その段階では、まだ詳しいことはほとんど分かっていなかった。軍用機がモスクワを出発し、アドレル空港に給油に寄り、ソチに近いところで墜落したことだけは確かなようだった。

私は、あるニュースサイトで、搭乗者リストの中に友人の名前を見つけた。彼の名前はパーヴェル・オブホフ、ロシア国防省のテレビメディア「ズべズダー」の記者で、25歳だった。ここではいつものように、親しみをこめてパーシャと呼ぶことにしたい。そのニュースサイトが間違いであってほしいというわずかな期待もむなしく、「ズべズダー」は、パーシャが確かにツポレフ154に乗り、シリアに出張に向かっていたと報じた。

しかし墜落したからと言って亡くなったとは限らない。あの御巣鷹の日航機墜落事故でさえ、4人生存者がいた。パーシャは若くて体力があるので、海に浮いて助けを待っているかもしれない。なんといっても墜落場所はソチにものすごく近いし、ロシア領だ。救助隊も必死で捜索しているだろう。しかし、一日中、ニュースにかじりついて過ごす中、テレビでパーシャの白黒写真に黒いリボンがかけられ、人々が赤い花を供えているのを見た。「ズべズダー」は、パーシャを含む、ツポレフ154に搭乗していた3人の社員の功績をたたえる映像を流し始めた。当局は「生存者はいない模様」と話していた。しかし、それでも、ばかばかしい話かもしれないが、万が一ということがあるのではないかと思っていた。ロシアでは何が起こってもおかしくない。

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ツポレフ154墜落事故   - Sputnik 日本
ツポレフ154墜落事故

パーシャとはモスクワ教育大学の大学院で同じ専攻だった。政治ジャーナリズム学科はわずか13名しかいなかったので、私たちは自然と仲良くなった。ロシア人というのは概して人見知りだ。普通は仲良くなるのにある程度の時間がかかるものだが、パーシャは非常に明るいキャラクターの持ち主で、他人に対してバリアをもたず、華があった。2014年、ロシアではウクライナ危機が最大の関心事だった。私たちは授業でよくそれについて討論した。ロシアチームとウクライナチームに分かれ、それぞれの国の言い分を主張し、議論する。その後あえて役を交代して、逆の立場に立ってみるのだ。私はパーシャと同じチームになった。そのとき、彼の頭の良さにびっくりしたことをよく覚えている。パーシャの方も、私の日本人的な考え方は新鮮だったようだ。それがきっかけで私たちはよく話すようになった。

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「生きて戻れるか全く確信が持てない」と語ったロシアの人権活動家ドクター・リーザ ツポレフ154墜落事故で死す
パーシャは国防省のメディアで働いているだけあって、軍事的なことについてとても詳しかった。私がチェチェン紛争についてのレポートに四苦八苦しているときにアドバイスをくれたし、彼自身、戦地でのジャーナリストのあるべき姿について、研究課題にしていた。パーシャは好奇心旺盛で元気があり、話すのが本当に上手かった。現場でレポートするために生まれてきたような人だ。しかしパーシャはパフォーマンス好きの軽い人間というわけではない。あるときパーシャが作った番組を見せてもらった。それはロシアの障害者の物語で、家族と離されて寮に暮らし、そこで教育を受け、仕事をし、生きていくというドキュメンタリーだった。その寮にずっと暮らしているおじいさんのインタビューは涙なくして聞くことはできなかった。ソ連時代には障害をもつ人々が一般社会の中で生きるのは難しいという考え方があり、パーシャの番組は、ロシア社会の知られざる部分を描き出していた。

ジャーナリズムを学んでいるからといって、全員がジャーナリストになれるわけではない。ロシアでも日本と同じように、マスメディアへの就職は狭き門である。クラスメートの間でも、夢を体現しているパーシャは皆の憧れだった。今回の事故を受け、パーシャが25歳だと聞いて、あらためて驚いた。もちろん彼の年齢は知っていたはずなのだが、パーシャの仕事や言動から考えれば、もっと年上でもおかしくないような気がしたのだ。パーシャは、エボラ出血熱が流行るギニアにも、シリアにも、北極にも、どこへでも行き、ほとんど休みがなかった。それだけの仕事を25歳でこなせる日本人を私は知らない。

私たちは今年の7月に修士課程を修了し、成績優秀者に授与される「赤いディプロム」をもらうことができた。パーシャがあれだけのハードスケジュールの中、修士論文を書き上げたことに私はびっくりした。パーシャはディプロム授与式に両親を呼び、嬉しそうに写真を撮っていた。それは本当につい昨日のことのようだ。

ディプロム授与式。パーシャと筆者
ディプロム授与式。パーシャと筆者 - Sputnik 日本
ディプロム授与式。パーシャと筆者

事故から一夜明けた今日26日、ロシアは喪に服している。これを書いているのはモスクワ時間の夕方だ。昼間には、パーシャのお別れ会の日程が決まったという知らせが飛び込んできた。結局、ここまで書いて、これは何のための文章なのか自分でもよくわからないし、もしかしたら読者の皆さんを困惑させてしまったかもしれない。しかし私はとにかく、友人であり、若くて将来有望なジャーナリストであるパーシャの人生のごく一部でも、誰かに知らせたかったのだと思う。

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露軍機ツポレフ154の破片とみられるものが黒海で発見
ロシアに暮らして3年と少ししか経たない私にとって、彼は数少ない友人だった。数日前、私たちはメールのやり取りをしていた。パーシャは私に何か頼みたいことがあったのだ。それはもしかしたら日本に関することだったのかもしれない。しかしパーシャは出張に、そして別の世界へと旅立ってしまい、結局それが何だったのかわからないままだ。小さい頃から合気道をし、身体を鍛えていたパーシャ。彼と、ロシアと日本を結びつけるような仕事を一緒にしたかった。

ツポレフ154の墜落事故は結局、乗員乗客92名が全員犠牲になるという大惨事となった。生存者の見込みどころか、犠牲者の遺体もなかなか見つけることができず、潮の流れが速くて捜索が難航していると聞く。事故原因について考え出すときりがなく、堂々巡りの思考が止められないが、今わかるのは、何も明らかになっていないということだけだ。

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