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1940年代初めの真珠湾攻撃は米国政府と米国社会の心理に極めて大きな影響を及ぼし、同国のフランクリン・ルーズベルト大統領は9066号の番号を持つ、かの哀しくも有名な大統領令に署名することとなった。日本人の血をひく者は全員、たとえ16分の1でも日本人の血が流れていれば、収容所に収監すると決めた文書である。こうして、1942年、米国政府はほぼ全ての在米日系人、11万人を収容所に収監した。彼らの存在は「安全保障上、適当でない」と考えられたのである。中には、大西洋沿岸州に暮らす3万人の子どもたちも含まれていた。
これほどの過激な行為が行われた理由について、軍事史と日本の専門家、アナトリー・コシキン氏がスプートニクに詳細を語ってくれた:
しかし、だれかれ構わず連行されて、荷物も手に持てる量しか携行することを許されなかったのである。辺境の州に連れて行かれ人々は、ひどい設備のバラックに住まわされ、食事もろくに与えられなかった。
アナトリー・コシキン氏は言う:
「人権擁護団体にとってまず重要なのは、当然ながら、収容所に収監された日系人のうち、3分の2が、当時は取得が極めて困難だった米国籍を持つ人たちだったということです。つまり、すでに米国に住んで長い年月が経っている人たちだったのです。そのため、後年になって、この行為の違法性を訴えるキャンペーンが展開されました。しかし、精神的・物質的な補償を得るまでには、さらに40年の歳月を待たなければなりませんでした。1988年になってやっと、レーガン大統領が日系人強制収容を謝罪する文書に署名し、諜報活動とは関係なく強制収容され、生存できた人々に補償金が支払われました。」
また、不幸にもヒトラーとムッソリーニと同じ民族だった人々が、ルーズベルト大統領令の対象となったことはあまり知られていない:ドイツ人1万1000人とイタリア人5000人が強制収容所に収監されたのである。さらに15万人が「要注意人物」に指定され、戦時中を通して諜報機関の監視下に置かれ、米国内の全ての移動を通知させられた。