条約締結が国を救った 独ソ不可侵条約から80年

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独ソ不可侵条約 - Sputnik 日本
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1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約は、ヒトラーのドイツとの戦争に備える時間をかせぎ、1941年の大祖国戦争のもっとも厳しい時期を耐え忍び、旧ソ連が勝利する力となった。今日、西側各国では、この条約が第2次世界大戦につながる旧ソ連の罪の証明のように指摘されているが、しかし、ロシアで秘密が解除・公開された独ソ不可侵条約と秘密追加議定書により、これらの告発は覆されている。

文書が証明するように、独ソ不可侵条約締結のイニシエーターはドイツであり、ポーランド占領時に旧ソ連の中立性を必要としていた。英国とフランスの抵抗をヒトラーは恐れなかったが、それはこれら西側諸国が東部にドイツ国防軍が侵攻することを妨害しなかったため。1938年、これらの国々はすでにチェコスロバキアを犠牲にすることをミュンヘン会談で確認していた。その代わり、ヒトラーは基本的不可侵条約である宣言書を締結し、英国とフランスへ侵攻しないことを約束した。

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旧ソ連の指導部は、ドイツ軍の東部侵攻の最終目的は旧ソ連への侵略にあると理解していた。旧ソ連政府は、ヒトラーが英国とフランスとの間で秘密の会談を行ったことを知っていた。その会談では、安全保障の準備として旧ソ連を含めた東部のすべての国々をドイツ国家の犠牲にすることが確認されていた。

またこの時期は旧ソ連の東部国境の状況はエスカレートしていた。ハルハ川地区では、成功した場合に西部へ大規模な攻撃を継続させようと計画していた日本軍と赤軍が交戦していた。そのため、旧ソ連の前には2つの戦線で戦闘しなければならないという危険な見通しが存在していた。

そのため、1939年の夏、ポーランドの反ソ連の立場から旧ソ連と英国、フランスのドイツに対する軍事同盟の可能性について旧ソ連政府が開始した交渉が中断されたとき、旧ソ連の指導者は侵略国と対峙することとなり、非侵略条約を締結するドイツの提案を受け入れることを余儀なくされた。その際、旧ソ連とドイツの利害分野を区別した秘密追加議定書へサインがされた。旧ソ連の影響範囲には、バルト三国やベラルーシとウクライナの西部地方、また、過去にロシア皇帝国の一部であったベッサラビアも含まれた。

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西側ではこの秘密議定書を今日、旧ソ連はドイツの侵攻を猶予するため西側諸国の賛同を得ないまま必要な緊急対応を行ったという点を忘れて、ロシアの罪であると非難している。

英国のウィンストン・チャーチル首相は彼の回顧録で、「ソビエト連邦は、ドイツ軍の出発位置を可能な限り西側に動かすことが極めて重要だった。そのことにより、ロシアは巨大な帝国中から兵力を集める時間を得た」と書いている。

歴史の専門家によると、クレムリンで独ソ不可侵条約が署名されたことにより、旧ソ連は軍事産業を強化し、赤軍の規模を拡大するための時間を得ることができた。ドイツ軍はより離れた国境から旧ソ連を攻撃しなければならなかったため、多くの産業企業を折りよく東部に撤退させ、モスクワとレニングラードの近くで敵を阻止する新しい師団を準備することとなった。

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