あらゆる困難にもめげず 大祖国戦争の中、ソ連はいかにして名作映画を生み出したか

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1941年から1945年の大祖国戦争は、ソ連映画業界が発展を遂げる中で特別な時期だ。飢餓に資源や人手不足などの苦難にもかかわらず、この恐ろしい戦争時にソ連の映画製作者たちは100本以上の劇映画を制作した。これらの作品はソ連人の精神を高揚させ、のちに愛される名作となった。スプートニクは、ソ連映画がいかにして戦争の時代を生き抜いたのか、また、どのようにして世界の文化遺産に貢献したのかを詳しくお伝えする。

ソ連の有名な映画スタジオ「モスフィルム」

ロシアの有名な映画スタジオ「モスフィルム」の歴史が始まったのは、1924年1月とされている。この映画スタジオがモスフィルムと命名されたのは1936年。30年代初頭、モスクワの雀ヶ丘(モスクワ国立大学の向かい)に新しいモスフィルムのスタジオが建設された。

戦前のこのモスフィルムでは、若き巨匠セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の白黒映画『戦艦ポチョムキン』などの傑作が生まれた。この作品では白黒映画なのにも関わらず、旗だけを赤く着色するという革新的な手法が使用された。

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『戦艦ポチョムキン』

さらに、この映画の撮影と編集にかかった時間はわずか3ヶ月だった。米国の映画芸術科学アカデミーでは『戦艦ポチョムキン』が1926年のベストフィルムと認定され、パリ万国博覧会では最高賞の「スーパーグランプリ」を受賞した。


飢餓と手近な素材で作られた撮影装置 後方での映画製作者たちの苦労

大祖国戦争最初の年の1941年、「モスフィルム」と、包囲されたレニングラード(現サンクトペテルブルク)のライバル社「レンフィルム」の全部門は、カザフスタンのアルマトイに疎開し、一部のスタッフは志願兵として前線に赴いた。雀ヶ丘の「モスフィルム」の建物では小型軍艦や砲弾の部品の生産が始まった。

国の指導部は、戦時中の映画製作者の仕事の思想的価値が極めて大きいことを理解していた。そのため、映画はモスクワから遠く離れた場所でも制作され続けた。そして両スタジオの制作チームは、まるで今までずっと一緒に映画を作っていたかのように作業に取りかかった。アルマトイでは中央合同劇映画製作所が組織された。戦時中にソ連で制作された映画の80%がこのスタジオの作品だ。

映画スタジオは疎開先に機材をほとんど持ち込めなかった。常設の撮影スタジオを構築するのには問題があり、舞台装置は手近な素材で作られた。当時の人々によると、飢えでふらつく俳優たちに食べさせる十分な食料すらなかった。

そんな状況にも関わらず、疎開前から制作が始まっていたイワン・プィリエフ監督のカルト的人気を誇るコメディー映画『豚飼い娘と牧童』が戦時中に完成した。また、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の超大作『イワン雷帝』の第一部が完了した。


ソ連を代表する戦争映画『イワン雷帝』

古代ロシアの恐ろしい支配者(イワン雷帝)の強力な手で国を統一するというアイデアは、戦時中に非常に重要であり、スターリンの好みに合った。そして高額な製作費がかかった第一部の作業は完了し、さらに第二部の撮影を開始することができた。

しかし、イワン雷帝が怪しくて残酷な人間として描かれている第二部をスターリンが快く思わず、上映は禁止され、エイゼンシュテイン監督は第3部を制作することができなかった。

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『イワン雷帝』を撮影するセルゲイ・エイゼンシュテイン監督

1946年には戦後の困難な状況にも関わらず映画『石の花』も公開された。この作品はカンヌ国際映画祭で色彩賞を受賞している。

ソ連の映画産業は発展しただけでなく、制作ジャンルも変化した。終戦に向けてロマンティック・コメディやミュージカル・コメディが登場した。1944年にはイヴァン・プィリエフ監督の『戦後の晩六時』、1945年にはセミョン・ティモシェンコ監督の『空ののろま』が公開された。

また、人々にはおとぎ話も必要だった。1942年には映画『王子と乞食』が撮影され、戦後直後の1946年にはナジェージダ・コシェヴェロワ監督の『シンデレラ』が公開された。『シンデレラ』は、史上最も残忍で最も多くの血が流された戦争を生き抜き、そのあらゆる苦難を背負った世代の象徴となった。


戦火のなかで

大祖国戦争が始まった当初、映画制作者らには軍と国民の士気を高め、勝利への自信を植え付けるというイデオロギー的な任務が与えられた。映画制作者らの第一の任務は戦争の経過、後方の仕事、戦時中の国の生活などを伝えるニュース映画の撮影だった。最前線で活動する映画撮影班が結成され、戦いや兵士の生活を記録した。

前線でカメラマンを務めたセミョーン・シコリニコフ氏は「最前線で活動する映画カメラマンは252人おり、バレンツ海から黒海まで大祖国戦争の大規模な全ての前線で撮影した。戦場では5人に1人が戦死した。生存者のほぼ全員が、負傷あるいは打撲傷を負い、時に1度だけでは済まなかった。前線で撮影したフィルムの長さは、350万メートル」と当時を振り返っている。

1942年、大スケールのドキュメンタリー映画『モスクワ近郊におけるドイツ軍部隊の壊滅』が公開された。この作品の監督はイリヤ・コパリンとレオニード・ヴァルラモフ。両氏は15人の前線カメラマンが撮影した映像を一つの作品にまとめた。この作品は1943年、米国で『モスクワの反攻』というタイトルで公開された。米国の映画芸術科学アカデミーはこの作品に関心を示し、ソ連のドキュメンタリー映画が初めて『アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞』を受賞した。


戦後の平穏なモスフィルム

戦後数年間、映画はあまり制作されなかったが、50〜60年代には本格的な映画ブームが訪れた。このブームは「モスフィルム」に若い映画監督が入ってきたことに関係している。

この時代には全てのソ連人とロシア人が子どもの頃から大好きな映画が制作された。

戦争と貞操

人間の運命

車にご注意

僕の村は戦場だった

砂漠の白い太陽

コーカサスの女虜

これ以外にもソ連の映画スタジオによる多くの名作が残されている。

第二次世界大戦をテーマにした映画は今でも人気があり、ロシアで制作された作品に加えて(世界で最も人気のあるロシア映画の1つとなった『T-34 レジェンド・オブ・ウォー』など)、ハリウッドの監督も第二次世界大戦をテーマにした映画を撮影しており、最近の作品では『ダンケルク』や『プライベート・ライアン』、その他にも壮大な作品が数多く存在する。なお、これらの映画の役目は現在変化した。これまでのように英雄的行為に駆り立てるのではなく、戦争とはいかに恐ろしいものであるかを現代の人々に伝えようとしている。

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