無益な妥協:フルシチョフと河野一郎の領土交渉内容 1956年共同宣言

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ウループ島の湾 - Sputnik 日本, 1920, 20.10.2021
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露日関係で重要な文書である1956年共同宣言が今月19日に調印65周年を迎えた。今年もまた、第二次世界大戦後の両国の関係完全解決という叶わぬ期待のまま記念日を迎えた。1950年代後半、共同宣言は両国の政治的妥協の象徴となり、そして今、完全な履行の見通しは漠然としており、露日政治対話の発展を妨げる、動かせない障害となっている。なぜだろうか。
事前協議を何度か重ね、1956年10月、鳩山一郎首相(当時)を団長とする日本代表団がモスクワに到着した。鳩山氏は脳卒中を経験し、麻痺が残り、自力での移動が困難な状態だった。しかしそれでも当時のソ連指導者であるニキータ・フルシチョフソ連共産党中央委員会第一書記と最終協議を行い、その結果、戦争状態の終結や外交関係回復など両国問題に関するソ日共同宣言の内容が合意された。国境線画定という戦後の最重要問題については、将来的にこの問題に立ち戻り、平和条約に明記することで決定した。
日本側が目指したハボマイ(日本表記は歯舞)群島、クナシル(同国後)、イトゥルップ(同択捉)、シコタン(同色丹)の移管問題は宣言案では触れられていない。もっともソ連側は事前協議でも当時米国の占領下にあった沖縄の日本への返還など一連の条件のもとに上記可能性をほのめかしていた。
そこで鳩山氏に最も近い人物で、代表団のナンバー2であった河野一郎農林相(当時)は交渉を牽引し、フルシチョフ氏との1対1の会談を求めたところ、フルシチョフ氏が同意。その結果、次の運びとなった。
以下、1956年10月16日のフルシチョフ第一書記と河野農林省の会談の議事録の一部を抜粋する:

河野:我々はソ連政府に対し、他の問題と結びつけずハボマイ群島およびシコタン島を直ちに我々に返還するよう求める。

フルシチョフ:ソ連政府はハボマイとシコタンの譲渡に同意する。このことは然るべき文書に明記し、公表することができる。ソ連政府は法的にこれら島々に対する権利を放棄するが、実際の譲渡は平和条約締結後、また日本に沖縄および米国が支配する他領土が返還された後になる。当方はこの点において不公平な立場を望んでいない。なぜ米国は日本を手中に収め、対ソ連の軍事基地を建設しているのに、我々には我が国に帰属する領土を日本に渡すよう要求されるのだろう。これは不公平だ。

河野:米国が沖縄から撤退すれば、ソ連政府はクナシルとイトゥルップを我々に返還することに同意するか。

フルシチョフ:日本人がこんなに頑固だと知らなかった。あなたは粘り強い。

河野:もちろんだ。クナシルとイトゥルップは日本にとって大きな経済的意義はない。しかし日本国内の沖縄および他領土の返還運動を、クナシルとイトゥルップの返還問題と結びつけて展開することができれば、成功するかもしれない。二つの大国から日本領土が同時返還されるという論拠は非常に説得力がある。

フルシチョフ:クナシルとイトゥルップはここでは何の関係もない。この2島の問題はとっくに解決済みだ。経済的にこれら領土は何の意味ももたない。それどころかこれらは常に損失をもたらし、予算の大きな負担となっている。しかし国の権威という点で決定的な役割を果たしており、問題の戦略的側面でもある。

この抜粋には、露日の議論の本質がある。真髄であり、この歴史的出来事に関連する多くの文書、回想録、研究によって曖昧にされてはならないものだ。
第一に、フルシチョフは明確に述べている。島々の帰属問題はロシアの国家権威の問題であると。また日本にとっても同様だ。ロシアにとってこれら島々は第二次世界大戦の対日勝利の象徴であり、島々は米英の同意によりロシアのものとなった。これはヤルタ宣言に反映されている。日本にとっては現状を表している。つまり戦後の不当な解決の象徴であり、日本は自身をその犠牲者であると考えている。
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第二点。経済面を見ると、島々および周辺海域の天然資源に双方とも関心をもっていない。それどころか逆に見える。完全な貿易経済協力のほうが両国にとってもっと有益であろう。
第三点。フルシチョフが挙げたクナシルとイトゥルップの戦略的、つまり防衛上の意味はソ連にとっては極めて重要である。特に日本における米軍基地という観点において。地図を見れば、これら島々がソ連本土、オホーツク海域、独立した太平洋への出口を守るための前哨基地となっているのが一目瞭然だ。
第四点。ソ日双方ともに、全島あるいは島々の一部を日本に譲渡することは、日米関係に緊張をもたらすと理解していた。しかし沖縄返還と絡めることはモスクワの絶対条件ではなかった。このことは共同宣言の最終版を見ればわかるし、共同宣言は両国により署名され、両国議会で批准されている。米国については何も書かれていない。
第五点。フルシチョフは2島の主権を放棄する、つまり日本に領土的譲歩をする用意があった。それはソ日関係正常化のためであり、日米の衝突のためではない。後者はフルシチョフには二次的な意味でしかなかった。
フルシチョフと河野はその後さらに3回会談し、1956年10月19日にソ連と日本は、両国の関心と妥協の境界線を反映した次の内容を含む、法的効力のある宣言に署名した:「...ソビエト社会主義共和国連邦は、日本側の希望を受け入れ、また日本の関心を考慮し、日本にハボマイ群島およびシコタン島を譲渡することに同意する。ただし実際にこれら島々の譲渡はソ連邦と日本の間で平和条約が締結された後に行われる。」
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現在ロシアでは、フルシチョフが日本に不当な譲歩をしたと非難する声が多い。しかし島々の譲渡はフルシチョフ・河野会談が行われる以前の、ソ連幹部による集団的決定の結果であった。この幹部の集団決定には日本の政治家も関与している。日本もソ連も、内政上の関心と外交上の優先順位に則ったのは明らかである。日本にとってそれは対米関係であり、ソ連にとっては対中関係だった。ソ日関係の正常化は日中関係の正常化とともに米国の不満につながる可能性があった。これらベクトルが合わさり、1956年10月19日にモスクワで採択された最終決定に結びついたのだろう。
しかし共同宣言の運命が極めてドラマティックなのは、双方が履行を放棄したことである。ソ連側は1960年以降、日本の政策が明らかに米偏重であることを背景に自身の履行義務を無視し、日本側は「ダレスの恫喝」により公式には4島を要求する以外になかった。どちらも得をしない、双方に不利な袋小路が生じてしまったのだ。
その後の平和条約交渉は、威信と防衛の問題はどこにも消えていないことを証明するものだ。日本は、島々に対するロシアの管轄権の合法性を認めようとせず、ロシアは、日本における米軍のプレゼンスという観点で、極東地域の防衛問題に依然として懸念を抱いている。東京はお馴染みとなった4島一括請求を取り下げようとせず、2週間前に就任した岸田文雄新首相もやはり同じ主張を繰り返した。
露日関係は主に65年前の文書を基本としている。一方、アジア太平洋地域では、軍拡競争や緊張増大がグローバル規模の戦略的不安定の主要因となっており、当地域の情勢は新たなアプローチを必要としている。ただ、すでに検証済みの妥協という慣行を、全くゼロにする必要もないかもしれない。
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