サムライと慕われた元シベリア抑留者

中川義照さんのお墓が待望の完成


カルムキヤ共和国の小さな村を日本人が訪問


文・写真:徳山あすか 
表紙写真:山田直芳(特別提供)

生前の中川義照さん
ロシア・カルムキヤ共和国で今から4年前、96歳(本人と家族談。公式記録は90歳)で亡くなった中川義照さん(ロシア側記録では義輝)は、壮絶な人生を送った。山形県出身で北海道で育ったが、戦後サハリンで捕虜となり、強制労働をさせられた。日本に戻ることなくソ連国籍を取得し、ウズベキスタンやダゲスタンなど、仕事も住む場所も転々とした。そんな中川さんが、最後に見つけたのがカルムキヤ共和国のユージヌイ村だった。移住したのは1972年。2000年代に入って厚労省の調査により日本人だと明らかになってからは、「カルムキヤのサムライ」として一躍有名になり、何度もテレビで紹介された。


お墓を作って、安らかに眠ってもらいたい
中川さんは村の共同墓地に埋葬されたが、2017年から現在まで、お墓らしいお墓はなかった。聞けば、中川さん宅は生活に余裕がなく、お墓を建てる費用が工面できそうもないという。今年の春、カルムキヤ旅行中に偶然そのことを知ったモスクワ在住の日本人有志は、お金を出し合うことにした。無事に寄付金が集まり、早くも半年後、建立式を迎えることができた。我々日本人グループは、モスクワからカルムキヤ共和国の首都エリスタに飛び、それから車で2時間、大草原を走った。
生前の中川さんをよく知る村の女性
現在のユージヌイ村は人口500人にも満たない、自給自足の小さな村だ。もちろん誰でも、中川さんのことを知っている。村役場の人事課で働いていた女性は「中川さんはいつも丁寧で、みんなに会釈していた」と言う。

2006年、中川さんは初めて一時帰国し、実の妹たちと面会することができた。中川さんは村の友人にと、日本食を持って帰った。「お土産に、ウナギをごちそうしてくれたんです。日本の高級な魚だよって言ってね。あんな美味しいものは初めて食べました。」


お墓ではすでに、中川さんの妻、リュボーフィ・ナカガワさんが待っていてくれた。リュボーフィさんは現在80歳。もともとロシア南西部のクラスノダール州から、最初の夫と子ども達と一緒に、この村にやってきた。最初の夫がアルコール中毒で亡くなり、喪が明けた時、中川さんが声をかけてきて交際が始まり、結婚した。リュボーフィ(ロシア語で愛という意味)の名前の通り、何度も目頭を押さえながら、中川さんへの変わらぬ愛を話してくれた。「31年間も一緒にいたから色々ありましたよ。魚釣りが趣味で、釣った魚は何でも食べてました。本当に良い人でした。私は膝が悪くて歩くのもやっとなので、一人でやることもないし、夫が死んでから寂しくてたまりません。彼に捨てられたような気持ちで、泣いています」

最初はお墓に木製の十字架を立てていたが、風が吹くたびに倒れていた。リュボーフィさんの年金は月に9000ルーブル(約1万4500円)しかなく、お墓の費用が捻出できないことをとても気に病んでいた。「こんなにしっかりしたものを作ってもらって、これで安心です。私一人なら絶対できませんでした。日本人の皆さん、本当にありがとう。心から感謝しています」
中川さんの妻、リュボーフィ・ナカガワさん
お経が唱えられている間、日本人一同は順番に線香をあげ、日本酒とウォッカを供えた。リュボーフィさんも慣れない手つきで線香をあげた。

中川さんは、他のロシア男性と違って、お酒を飲まないところが魅力的だった。それは死の間際に至ってもそうだった。ロシアの一部の田舎の習慣では、人が死を迎えようとするとき、ウォッカをショットグラスに注ぐ。リュボーフィさんは夫が亡くなった日のことを思い出す。「伏せっていて、俺はもう死ぬよ、と。私がウォッカを注ごうとすると、それじゃなくてコンポート(果実を煮詰めたジュース)を注いでおくれ、って言うんです。夫の望む通りにしました。私はもう大泣きしてしまって、夫は「泣かないで」と私をなだめて、逝ってしまいました。」

ロシアには華美なお墓もたくさんあるが、中川さんのお墓のデザインは、名前を漢字とロシア語であしらい、一本の桜の枝を添えたごくシンプルなもの。お墓の準備は、合気道の指導者で、カルムキヤ・日本友好協会の代表でもあるオレグ・クベルリノフさんと、長年日本に関係した仕事をしている銀行家のドミトリー ・オルソフさんが中心となって進めた。特にオレグさんは生前の中川さんと親交があり、柔術の達人だった中川さんと、空手・合気道に精通したオレグさんは、武道家同士、うまが合った。オレグさんがよく覚えているのは、1990年の出来事だ。当時60代半ばだった中川さんは、村近くの貯水池で密漁していた3人の男を、ひとりで投げ飛ばしたのである。
「寡黙な人だった。男として正しく振舞っていた」
オレグさんや村人の何人かは、中川さんの腹部に残る切腹の跡を見たことがある。そのことからも、中川さんが尋常ではない苦難を乗り越えてきたことがわかるが、中川さんは寡黙で、辛い過去を含め、多くを語らなかった。「彼は喋るのではなく実行する男。それだから女性からも人気があった。男として正しく振る舞っていた。尊敬に値する」と話す。オレグさんはお墓に呼びかけた。「あなたはカルムキヤと日本、ロシアと日本をつなぐ友情の橋になってくれた。ありがとう」

嬉しいサプライズがあった。この日、お経をあげてくれたのは、カルムキヤ仏教の僧侶。彼は日本が大好きで5回も旅行へ行き、日本語も勉強している。オレグさんのはからいで、特別に日本に縁の深い人が来てくれたのだ。

妻のリュボーフィさんはロシア正教を信仰しているが、これは全く問題ではない。村の墓地では、仏教徒も正教徒も、仲良く隣同士に眠っている。

モスクワから遠路はるばるやって来て、建立式に立ち会った日本人は、それぞれに思うところがあった。お墓の建立資金寄付の呼びかけや旅の企画に尽力した高橋渉さんは「奥さんがあんなに喜んでくれたことが、何よりでした」とほっとした様子。カルムキヤ初訪問の河田寛さんは「ここに来るのが夢でした。色々な宗教が入り混じっていて、その人たち皆が協力してお墓ができたことが、とても印象に残っています」と振り返った。お墓参りの準備を整えた藤田夕子さんは「感無量で言葉が見つかりません。安らかに眠ってほしい。中川さんがここを気に入ったのは、きっと北海道の風景と似ていたからでは」と話してくれた。
戦争に運命を翻弄されながらも、激動のソ連とロシアを生き抜いた中川さん。中川さんが背負ったものはあまりにも大きかった。だからこそ彼は、愛する人のいる静かな暮らしがどんなに幸せか、その価値を知っていたに違いない。一時帰国を果たした後、日本に永住帰国することもできたが、中川さんは家族のいるカルムキヤに戻り、日本人の誇りをもちながらロシアで生涯を終えることを選んだ。故郷を遠く離れても、彼が最終的にカルムキヤで見ていたのは、懐かしい少年時代の風景だったのかもしれない。

© 徳山 あすか / スプートニク日本

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