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死刑宣告とギャンブル依存 

日本で最も人気のあるロシアの作家

ドストエフスキーの意外な事実

1821年11月11日、貧しい人たちのための病院の医師の家庭にロシアの作家、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーが生まれた。彼は、ユネスコに海外でもっとも翻訳された作家として確認されている。スウェーデンのオーディオブックサービス「Storytel」によれば、ドストエフスキーのオーディオブックは海外でもっとも人気の高い作品であるという。しかし、ドストエフスキーの作品は予想外なストーリー展開に驚かされるだけでなく、作家の人生が、彼の作品の主人公に負けずに数奇なものといえる。通信社「スプートニク」は、この作家に関する意外な事実について紹介する。

1
死刑宣告
28歳の時、ドストエフスキーは当時禁止されていた「ゴーゴリに宛てたベリンスキーの手紙」(ヴィッサリオン・ベリンスキー:ロシアの文芸評論家、ニコライ・ゴーゴリ:ロシアの作家)を読み、普及したことから銃殺が言い渡された。幸いにも、刑は執行されず、8年間の強制労働に変更された。作家は4年間強制労働を行い、その後、兵役のためセミパラチンスク市に送られた。

ドストエフスキー、26歳


2
発作を発症
強制労働と数年間の兵役の後、ドストエフスキーはシベリアで医師にてんかんと診断された。彼は、「絶叫、意識の喪失、手足や顔の痙攣、口内の泡、弱弱しくて速く、短い脈を伴った浅い呼吸」を併発した。しかし、今日、専門家の中には、作家がてんかんの発作に苦しんでいたということに疑問を抱いている人もいる。ドストエフスキーの発作は、別の種類であったする説(たとえば、動脈の血圧上昇)が存在する。これははっきりとした症状が見えず、健康にとって危険なものとなる。いずれにせよ、同作家はこうした病気に生涯に苦しんだ。

3
ギャンブル依存




1862年、ドストエフスキーは、欧州歴訪に出かける。その際に作家はギャンブルに夢中になり、常に金欠に見舞われることになる。長年に渡り、ドストエフスキーはカジノに入りびたり、依存からなにもできなくなった。


黒々した濃い紅茶が好み

ドストエフスキーは紅茶と甘い物に目がなかった。

「フョードル・ミハイロヴィチは濃くて甘いお茶を好み、書斎で数杯は飲んだ。紅茶のために居間を通ってサモワールとティーポットのある台所まで移動し、自分のためにカップに注いだ」。
マトヴェイ・アレクサンドロフ、ドストエフスキーの友人
「父は甘い物が大好物だった。彼はいつも本棚のケースにワインベリーやドライデーツ、ナッツ類、レーズン、フルーツマシュマロを常備していた。ドストエフスキーは、それらを日中に喜んで食べ、時には夜にも口にしていた」。
ドストエフスキーの娘

2度目の結婚がドストエフスキーを劇的に変えた
作家は2度結婚している。1857年にドストエフスキーは未亡人のマリア・イサエバと結婚している。この結婚は作家の希望に応えるものとはならず、2人は「性格が合わない」として、別居することにした。

およそ10年後、彼の有名な作品の1つである『罪と罰』の執筆時の1866年に、作家は速記者である20歳のアンナ・スニートキナを助手として雇った。彼女はまもなく作家の2人目の妻となった。1871年にドストエフスキーは妻のおかげでギャンブル依存から立ち直ることができた。2人はペテルブルクに戻り、アンナが家事をすべてこなし、出版社との交渉も彼女が行った。
1881年2月8日、ドストエフスキーは結核で亡くなった。彼とのお別れにたくさんの市民らが訪れている。妻のアンナは、彼の死の瞬間、まだ35歳だった。彼女はその後再婚することはなかった。

死後有名に
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは死後になって世界的な名声を手にした。作家の人生の中でもっとも輝かしい時期は晩年の数年であった。作品『罪と罰』や『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』は、作家がすでに40歳になってから執筆している。
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