Окинава в 1972 году - Sputnik 日本, 1920
沖縄の本土復帰50年
2022年5月15日、沖縄県は日本の支配下に戻ってちょうど50年になる。沖縄は長い歴史の中で、国際政治の流れに伴い、何度も急激な変化を経験してきた。1945年4月から6月まで続いた沖縄戦では、日本軍9万5000人、米軍1万2510人が犠牲となった。その後、沖縄は米軍に占領された。第二次世界大戦の結果、沖縄は米国の支配下となり、1972年まで米政権下に置かれていた。沖縄は1972年に日本に返還されたが、その後も沖縄は東アジアにおける米軍の重要な拠点となっている。現在、日本の米軍施設の74%が沖縄に集中し、沖縄の5分の1を占めている。

沖縄返還から50年 敗けて大盤振る舞い

© AP Photo / Eric Talmadge米軍普天間飛行場(アーカイブ写真)
米軍普天間飛行場(アーカイブ写真) - Sputnik 日本, 1920, 15.05.2022
2022年5月15日は沖縄返還から50年目にあたる。1972年のこの日、琉球列島米国民政府(USCAR)による統治が終わった。最後の琉球列島高等弁務官はジェームズ・ランパート中将が、最後の琉球列島民生官はロバート・A・フェアレイが務めた。
1945年4月から6月にかけての流血の沖縄戦以来、27年間、沖縄と琉球列島の諸島は米軍の直接統治下に置かれてきた。沖縄には米軍最大の主要基地があり、これが朝鮮戦争やベトナム戦争で非常に重要な役割を果たした。
なのになぜ、米国は沖縄返還に踏み切ったのかという疑問が湧いてくる。今日まで琉球列島を軍事支配下に置くことも原則的には可能だったはずだからだ。返還したとはいえ、沖縄にはまだ主要な米軍基地があり、駐日米軍関係者の70%にあたる約2万5800人はここに留まっている。

敗けて大盤振る舞い

沖縄返還は米国、そして日本の一部の出版物では、米国の自発的な意思の表れとして紹介されがちである。だが1968年から1971年にかけての沖縄返還交渉がベトナム戦争を背景にしていたことは忘れてはならない。ベトナム戦争は米国には不成功な戦いだった。
1968年初頭までに米軍は大規模爆撃をもってしても北ベトナムを壊滅できず、南ベトナムの共産主義者が物資や援助を受け取る「ホーチミン・ルート」を切断できなかった。敗戦の前触れとなったのは、1968年1月の北ベトナム軍による突然の「テト攻勢」だった。この戦いが終結し、1968年5月から米国と北ベトナムの交渉が開始。3万人の兵士を失った米国は、勝利は手にできなかったのだ。
岸田首相 - Sputnik 日本, 1920, 15.05.2022
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沖縄本土復帰50年 岸田首相「基地負担軽減に全力」
1968年1月、北朝鮮沿岸で無線偵察を行っていた米国の偵察船USSプエブロ(AGER-2)が北朝鮮に拿捕された。米国にとって、これは平手打ちをくらったも同然だった。この船の事件と、ベトナム共産党が不意打ちの攻撃をかけたことが米国の軍事力に対する信頼を失墜させた。
当時の愛知揆一外相は交渉開始に絶好の機会を逃さなかった。

沖縄人は米軍に反対

この頃までに、沖縄は徐々にホットスポットになりつつあった。理由は2つある。ここに米軍が駐留していること、それと米軍が沖縄に核兵器を配備していたからだった。
沖縄戦の直後、島民は米国人を歓迎した。それは日本からの独立を念頭においていたからだった。だが、米兵の行為を間近に見たことで、沖縄の人はすぐに米国の支配に反対し、日本への復帰を望むようになった。こうした意識の変化が、日本兵9万5000人、民間人14万9000人(人口の25%)が犠牲となった凄惨な戦いのわずか数年後に起きたことは特筆すべきことだと思う。それは米軍が沖縄の人を阻害し、銃剣とブルドーザーで土地から追い出して軍事基地の拡張を図り、本質的には占領を行ったからだった。
沖縄には米国の核兵器、主に核爆弾が配備されていた。これはソ連、中国などアジアの共産主義国を標的にしたものだった。県民は自分たちの土地に核があるために、自分たちが敵の核攻撃の標的になるとして、核配備に反対していた。
島では地元住民と米軍の衝突が絶えなかった。中でも1970年12月に起きた「ゴザ暴動」では約5000人の島民と700人の米兵がぶつかり合った最大の衝突で、この時は嘉手納基地も攻撃の対象になった。
状況は深刻さを増していった。1970年11月の選挙では、沖縄県民の83%が社会主義者らを支持。島は共産党の影響に占拠され、党が支援して武力闘争が勃発する恐れもあった。
このような状況の中、米国政府は沖縄返還の交渉に乗り出した。米国はもはや軍事力だけに頼ることはできず、ベトナムで威信を大きく失っていた。沖縄と日本の利害に譲歩することなく、戦略的に重要な沖縄に留まることはもはや米国には不可能だった。

沖縄は事実上、日本に買い戻された

交渉は難航した。米国は、日本が1967年に非核三原則を宣言すると、常時、沖縄に核兵器を配備する可能性を温存したがった。両国は米国が有事の際は沖縄に核兵器を配備できる権利を有すことで合意し、常設の核保管庫は解体が決まった。
米国は自腹を切っての撤退は望まず、まずは6億5000万ドル(2340億円)を請求した。その後、この額は3億2000万ドル(1152億円)にまで縮小し、そのうち1億7500万ドルが那覇空港など、日本側へ引き渡す財産、7500万ドルが従業員へ支払う補償金、核兵器保管庫の解体費に7000万ドルが支払われた。
空手家ワレリー・マイストロヴォイさん - Sputnik 日本, 1920, 15.05.2022
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このほか、日本は米国向けの繊維製品の輸出制限に同意し、日本向けの米国製品の自由な輸出を促すことに同意した。日本政府は沖縄の経済支援のための支出も余儀なくされた。失業対策(沖縄の労働人口の約22%が米軍基地関連分野で働いていた)の他にも社会、経済問題の解決も迫られていた。こうして日本政府は沖縄復帰後の数年間は30億ドル(1兆800億円)を島の支援に拠出した。
これでは島は返還されたのではなく、買い取られたも同然だった。高い買い物にはなったが、日本政府にはそうすべき大きな理由があった。沖縄返還で日本の政治的権威は著しく強化されたからだ。
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