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    『ロシア革命一〇〇年の教訓』

    『ロシア革命一〇〇年の教訓』(4)

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    塩原俊彦
    筆者 塩原 俊彦
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    今回は「序章 ロシア革命の虚妄」の第三節をご紹介しよう。

    序章 ロシア革命の虚妄

    3 『ドクトル・ジヴァゴ』が教えてくれること

    ロシア革命の本質に近づくためには、ロシア革命の本質を隠そうとしたソ連政府のやり口に迫ればいい。その際、歴史として紡ぎ出される事実を知るという方法もあるが、ここではソ連が発行禁止にした小説を取り上げて、いったい、なにを隠そうとしたのかを考えたい。

    なぜ発禁された藝術作品に目を向けるのかというと、「感情は、「伝達可能」であるかぎりにおいて、公的であるかぎりにおいて感情として受け止めることが可能」となるからである(清水, 2014, p. 242)。発禁処分となった藝術作品は伝達可能性を奪われて、人々の感情を刺激する道を奪ってしまう。それほどまでに公的権力が怖れる感情とはなにか。そこに、ロシア革命の本質をみることができるのではないか。

    フィクションである小説を取り上げてみても、それはトロツキーの有名な言葉、「歴史の屑の山」のひとかけらにリアリティをもたせただけのものかもしれない。だが、そこにこそ勝者の歴史ではない、本当の過去の姿が垣間見えるのではないか。たとえフィクションであっても、そこにはその時代を生きた人々の苦悩や罰の悩みがはっきりと感じられるはずだ。だからこそ、ソ連政府が発禁にした藝術作品を読み解く価値があるのである。

    ここで取り上げるのは、ボリス・パステルナーク著『ドクトル・ジヴァゴ』である。一九七〇年にノーベル文学賞を受賞したアレクサンドル・ソルジェニーツィンは、ソ連の暗部を描いた『イワン・デニーソヴィチの一日』や『収容所群島』で知られており、後者の公表がソ連国内ではできなかったのは頷ける。ソ連の恥部を描いた作品はソ連国内の人々に読まれてはならなかった。彼らの感情を揺さぶるからである。

    ここで取り上げたいのは、叙情詩などが評価されて一九五八年のノーベル文学賞の受賞決定者となりながら、ソ連政府の圧力で辞退に追い込まれたパステルナークのほうである。ソ連当局は彼の書いた『ドクトル・ジヴァゴ』を発禁処分とし、同書は結局、イタリアで刊行されるに至る。この作品はロシア革命前後を生きた人々の苦悩を描いた小説であるため、ソ連当局としてはロシア革命後の暗部を描いたとして発禁としたのであろう。しかし、一読したかぎりでは、恋愛小説と言えなくもない。ロシア革命そのものに直接かかわるような記述があるわけではないのだ。

    「マルクス主義ほど自閉的で事実より程遠い思潮を知りません」

    だからこそ、この小説の内部に立ち入って検討することで、ソ連当局がなにを怖れていたかを明らかにしてみたい。それがロシア革命の本質をいぶりだす一助になるのではないかと思われる。ここでは、工藤正廣訳『ドクトル・ジヴァゴ』(Pasternak, 1955=2013)をもとに考察してみたい。

    まず、医者である主人公、ドクトル・ジヴァゴのつぎに発言は、おそらくソ連当局を怒らせたであろう。ただし、その内容は本書そのものの主張とぴったりと一致している。

    「マルクス主義と科学? 未知らない人間とこの議論をするのは少なくとも軽率です。しかし、まあいいでしょう。科学はもっと均整のとれたものです。マルクス主義と客観性ですか? わたしは、マルクス主義ほど自閉的で事実より程遠い思潮を知りません。誰もが自分の経験を点検することに憂慮しますが、権力の人々は自分の無謬性の神話のために全力を傾けて真実からそっぽを向いています。政治はわたしにも何も語ってくれません。わたしは真理に無関心な人々は嫌いです」(Pasternak, 1955=2013, pp. 345-346)。

    この引用は明らかにマルクス主義への批判であり、同主義に基づく権力者への非難を含んでいる。とくに、「権力の人々は自分の無謬性の神話のために全力を傾けて真実からそっぽを向いています」という表現は厳しい批判であり、的を射ているだけに看過できない部分であろう。

    さらに、ドクトルは別のところで、つぎのように吐露する。

    「先ず第一に、十月革命以来持ちあがったような、全体の完全化という理念はわたしを奮い立たせないのです。第二に、それはすべてまだ実現からほど遠く、ところがこのことについてのまだ相変わらず同じ見解のために、かくも厖大な血が流されたのですよ、とても目的が手段を正当化するとは言われないでしょう。第三に、これが肝心なことですが、生活の改造、と聞いただけで、わたしは自制心を失い、絶望的な気持ちになるのです」(Pasternak, 1955=2013, p. 446)。

    このように、主人公であるドクトル・ジヴァゴが反マルクス主義者であることは自明だ。それがソ連当局の苛立ちにつながっている。

    こんなジヴァゴだが、一九一七年夏には、まだ社会主義に希望をもっていた。彼はヒロインであるラーラ、すなわちラリーサ・フョードロヴナにつぎのように語っている。

    「その半分は戦争がやって、残りの半分は革命がなしとげたのです。戦争は生の人工的な中断だったのです、あたかもしばらくのあいだ寿命が延ばせるとでもいうように(まったくばかげたことだ!)。革命は、余りにも長いあいだ抑えていたため息のように、意志に反してほとばしり出たのです。一人一人が生き返り、生まれ変わり、みんなが変化し、変革があったのです。こう言ってもいいでしょう。一人一人が二つの革命をこうむった。一つは自分の個人的な革命、もう一つはみんなの革命です。ぼくは思うのですが、社会主義--それは、こうした自分たちの個々の革命が小川になって注ぐべき海、生の海、自立の海なのです。生の海、とぼくは言いましたが、そう、その生というのは、天才的な生の光景に見ることができるような生、創造的に豊かにされた生なのです。しかしいま人々はそれを書物ではなく自分の身で、抽象的ではなく実践で体験する決心をしたのです」(Pasternak, 1955=2013, pp. 193-194)。

    「マルクス主義は世紀の強大な勢力になった」

    他方で、パステルナークは小説のなかで、ヒロイン、ラーラの夫(アンチーポフ・パーヴェル)でありながら、赤軍の将軍となったストレーリニコフにつぎのように語らせている。

    「街、夜の街、世紀の夜の街、駿馬や鹿毛馬たちはどこにでもあった。時代を一つにしたのは何だったでしょうか。何が十九世紀を一つの歴史的仕切りにしたのでしょうか? 社会主義思想の出現なのです。革命が起き、献身的な若者たちがバリケードに上った。社会政治評論家たちは、金銭の動物的な恥知らずをいかにして抑え、そして貧民の人間的価値を高め、守り抜くか、頭を悩ませた。マルクス主義者が現われた。マルクス主義は、悪の根が何にあるか、どこにその治療の方法があるか、喝破した。マルクス主義は世紀の強大な勢力になった。これはみな世紀のトヴェルスキエ・ヤムスキーエ御者街だったのです。不潔も、聖なるものの輝きも、放蕩も、労働者地区も、政治ビラ、そしてバリケードも」(Pasternak, 1955=2013, p. 606)。

    饒舌なストレーリニコフはつぎのようにも語る。

    「ところで、お分かりですか、この十九世紀全体とそのすべてのパリの革命家たち、ゲルツェンから始まるロシアの亡命者の幾世代、不発に終わりまた成就されたすべての考え抜かれたツァーリ暗殺、世界のすべての労働運動、議会やヨーロッパの諸大学におけるすべてのマルクス主義、思想体系のすべての新しさ、諸々(もろもろ)の結論の革新とスピード、憐みの名において仕上げられた呵責なき方法、こうしたすべてを、自分の中に吸収して総合的に表現したのが他ならぬレーニンであり、それはすべてそれまでなされたものに対する復讐の権化となって旧世界に襲いかかるためだったのです。

    彼のそばには、巨大なロシア像が打ち消しがたいくらいに立ち上がり、全世界の眼前に突如としてその像が人類のすべての不幸と災難を救済する蝋燭となって燃えあがったのです」(Pasternak, 1955=2013, p. 607)。

    もちろん、こうしたソ連当局の喜びそうな記述は赤軍の将軍によって発せられたのであり、小説全体にリアリティをもたせるための手法にすぎない。

    欺瞞的なネップ期

    おそらく「彼(ジヴァゴ)がモスクワに着いたのは、ソヴィエト体制の時期でもっとも二重的で欺瞞的なネップ期[一九二一年、ロシア共産党第一〇回大会で採択された新経済政策]の初めのことだった」(Pasternak, 1955=2013, p. 612)という記述もソ連当局を怒らせたに違いない。筆者は長くネップ期について、一時的な市場容認策と理解してきたが、その実情を必ずしも知らなかった。だが、つぎの記述を読んで、そのひどさに驚愕した。

    「個人の商いが解禁され、厳しい枠内ではあったが自由な商売が許されていた。市場で古物に限って取引が行なわれていた。こうした取引がなされていた非常に小さい規模がかえって投機的な闇商売を助長させ、それが不法行為をもたらしていた。闇屋たちの微々たる活動は市中の荒廃にたいして何ら新しいものも、実質的なものももたらさなかった。無益な転売がくりかえされて十倍もの利益が手に入っていた」(Pasternak, 1955=2013, p. 622)。

    実際にこの時代を生きたパステルナークの指摘は実に重い。筆者としては、ロシアの経済政策を大学院で専攻したとはいえ、その現実を知る努力を怠っていたことに忸怩たる思いを禁じ得ない。加えてネップ時代にあっても、ボリシェヴィキ政権は大企業、外国貿易、銀行、輸送などを手元に残していたことを忘れてはならない(Radzinsky, 1996=1996, 上, p. 275)。蛇足ながら、この第十回党大会で、党内の一切の分派活動や会派を禁止する決議が採択されたことを注意喚起しておきたい。この決議は非民主主義そのものであったから、秘密とされたのだが、のちにスターリンによって粛清の理由に使われることになる。なにしろ、スターリンは一九二二年に共産党書記長という新設ポストに推挙され、このポストを利用して地歩を固めたのだ。党大会の実務的な運営を担うための「技術的ポスト」にすぎなかった書記長ポストを絶大な権力にまで強大化させたのである。

    「コミッサール」の正体
    もう一カ所、筆者にとって重大な関心事となったのはつぎの部分である。

    「いたるところ、所有家屋、役所、職場、住人のサーヴィス機関で、幹部の改選が行なわれていた。そのメンバーは入れ替わった。すべての機関に無制限の権限をもったコミッサールが任命され始めた。彼らは威嚇の諸手段とナガン銃で武装し、めったに髭を剃るひまもない不眠不休の、黒いコートを着た鉄の意志の持ち主だった」(Pasternak, 1955=2013, p. 258)。

    これは十月革命後、「企業も団体もつぎつぎにボリシェヴィキ化していった」過程で実際に起こったことを示している。ここでのコミッサール(委員)は治安維持のための「民警長」のような人物であったとみられる。

    「人民コミッサール」と言えば、「大臣」のような高位の責任者で、「人民コミッサールソヴィエト」と言えば、十月革命で誕生した「内閣」のような存在にあたる。フランス革命かぶれのトロツキーが大臣をコミッサール(人民委員と訳されることが多い)と呼ぶことを提案し、レーニンがこれを気に入ったのだという(Radzinsky, 1996=1996, 上, p. 188)。なお、初の人民コミッサールソヴィエトの議長はレーニンであり、スターリンは当時、民族問題担当の人民コミッサールになる。レーニンはトロツキーを議長に推挙したのだが、トロツキーが辞退したため、自ら議長に就いたのである。トロツキーは外交問題担当や軍のコミッサールになる。

    ほかにも、コミッサールと言えば、ありとあらゆる旧組織に送り込まれて、既存の組織内秩序を共産党のもとに一元的に再構築しようとした人物という意味もある。ロシア共産党(ロシアで社会民主労働党を主導していたレーニンが選んだのが「社会」や「労働」と看板を異にする「共産」であった)がそれまでのロシア帝国軍をソ連の国防軍に再編する過程で、軍を監視するために送り込んだ「政治将校」や「政治委員」を意味することが多い。これは軍を担当していたトロツキーが発明した制度である。

    人民コミッサールと「チェーカー」の関係 (割愛)

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