03:10 2016年12月09日
東京+ 8°C
モスクワ-5°C
    『ロシア革命一〇〇年の教訓』(8)

    『ロシア革命一〇〇年の教訓』(8)

    © Sputnik/ Alexey Malgavko
    短縮 URL
    塩原俊彦
    筆者 塩原 俊彦
    0 4510

    今回は「第1章 デザイン思考への疑問という教訓」の第二節をご紹介しよう。

    第1章 デザイン思考への疑問という教訓

     

    2 全体主義国家への足音:目的論的アプローチ


    E・H・カーのような歴史観は否定しなければならない。だが現実には、彼の歴史観はいまでも国家教育に利用されている。国家も勝利者であるからだ。

    バーリンによる批判で紹介したように、彼は目的論を批判した。にもかかわらず、人々の日常は目的論であふれている。目的と手段を分け、目的を論じることなく、手段ばかりに焦点をあてる。目的を決めるためには、価値判断が必要だから、目的自体を設定することは難しい。それに対して、手段はその評価を客観化することが可能である。数々の手段を比較考量してより有効な手段を選択することができるのだ。


    具体的に考えてみよう。旭山動物園の元園長は、動物園の目的は自然の大切さを知ってもらうことだという。だが、それは彼の個人的な意見であり、動物園の目的自体は判然としない。単に、子どもに楽しんでもらうことかもしれないし、観光の目玉として地域経済を活性化することが目的になってもおかしくはない。動物園の目的をどう設定するかは価値観にかかわるものだから、明確に決めることが難しいのだ。それに対して、ある目的を設定すれば、そのための手段はいろいろと想定できる。たとえば、一時、経営難に陥った動物園の再建を目的に設定すれば、その解決策は行動展示による来園者と動物との関係性の見直しであったり、来園者と動物とのふれあいであったりする。手段は複数あり、そうした手段ばかりが脚光を浴びることになるわけだ。


    「手段」の優位
    とくに、短期的な業績評価、学業評価といったものが幅を利かせるようになっている現代においては、そうした評価そのもの目的が問われることなく、より高い評価に向けたあらゆる手段が講じられるようになる。手段を問わない傾向を強めることになる。そうした思考様式自体を国家全体で是とする傾向が強まっていると感じる。


    ここで、佐伯啓思の卓見を紹介したい。佐伯は、現代社会に支配的な思考様式を支える中心的価値観には、①自由・民主主義、人間の基本的権利や法的秩序からなる市民生活を中軸とする「政治的価値」、②市場の自由競争と物的幸福の達成、経済成長を中軸とする「経済的価値」、③実証主義、あるいは実証的な方法を伴った合理主義--があるという(佐伯, 2005)。さらに、「この三つは、すべて「目的」に対する「手段」にほかならない」と、鋭く指摘している。民主主義は何らかの重要な政治的決定に到達するための手段であり、自由も、人間が何らかの目的を達成し、人生を組み立てるための手段である。市場経済も人生を送るための手段であり条件にほかならない。実証科学も同じだ。


    とすると、「この三者に共通するものは「目的」に対する「手段」の優位」ということになる、と佐伯はのべている。さらに、つぎのように続けている。


    「目的には価値判断が入るため、目的は問われない。客観性を保障できるのは手段のみである。その意味では、相対主義の文化のもとでは、手段こそが普遍化可能なのである。いや、普遍化できるのは手段だけなのである。手段の次元において価値中立性を確保すれば、それは普遍化可能であり、「公正性」を確保できる。……中略……こうして現代社会にあって「公正性」を保つために、方法の次元、手段の次元での絶対化が生じる。諸個人の活動や生の目的の多様性を保障しようとすれば、手段のほうを絶対化する必要がある。自由・民主主義、市場経済、実証主義という、本来は、何かを達成するための手段・方法が絶対化されることになる。かくして、手段・方法の客観化、非人格化、中立化、公開化こそが現代リベラリズムの基本的な要請と言ってよいだろう」(佐伯, 2005, pp. 129-130)。


    「手段」を絶対化すれば、その陰部として、「手段」を選ばないという人が現れるのは必然とも言える。なぜなら、「目的」と「手段」は入れ替え可能で、結果として、「目的」さえ達成できればすべてが許されるからである。「市場経済」を「手段」として絶対視するようになると、今度は、利益を得ることが「目的」とされ、そのための「手段」が絶対化する。そのとき、「目的」は問題化しないまま、「手段」だけが重視される。今度は、短期間に利益をあげるためには効果的な情報操作が必要だと気づき、情報操作を「目的」として、そのための「手段」が重視されることになる。


    サイモンの見方

    佐伯啓思の卓見をヒントにするとき、「目的」と「手段」を区別して考える思考様式が問われなければならない。「目的」と「手段」はそもそも区別できるのか。意思決定論で知られるハーバート・サイモンはまず、管理(administration)は意思決定の世界であるとして、意思決定が管理論の中心課題であると主張した。意思決定の前提となる情報収集において、テストしたり証明したりできる事実と、科学的に証明できない個人・集団の選好・価値とを区別することを提唱し、検証可能な前者を前提として考えた。意思決定そのものは複数の代案からひとつを選択する過程ないし行為を意味しているが、彼の理論の基礎には、効率的管理合理性がある。この合理性は目的と手段という論理に基づいており、目的を達成するための最善の手段を選ぶことが課題とされる。ただし、彼は目的と手段の論理の限界に気づいていた。なぜなら手段と目的は全体として分離できず、目的はしばしば不完全で不明瞭であり、手段も目的も時間や状況変化によって影響されてしまうからである。そこで、彼は合理性が限定されているとした。したがって、制約された合理性、すなわち限界合理性(bounded rationality)のもとでの意思決定を問題にしたことになる。


    そのうえで、彼は、個人は限定合理性のもとにあるため、個人を取り巻く世界に対して効果的に対処するために集団や組織に加わる必要があることに気づくと論じた。組織において、われわれは人間の行動を、われわれの目標を獲得する合理的パターンにはめ込む方法を見出すのだ。ここに、古典的な効用最大化を前提とするeconomic manに代わって組織化・制度化されたadministrative manが登場する。administrative manは、組織の目標を意思決定の価値前提として受け入れ、協調的行動を習慣づけられる。この結果、合理性の意味合いがヒエラルキーに基づく上位権威者への従属という意味に変化する。administrative manは自らの効用を最大化するよりも、自分と組織の関係のなかで満足できる解決策を求めていることになる。Administrative manは限定合理性を前提にせざるをえないけれども、組織において合理的(効率的)組織行動を探求しなければならないということになる。


    組織としての「官」と「民」
    組織には、官庁もあれば、民間企業もある。人間はこうした組織に属すことで効率をめざす。このとき注意しなければならないのは、本当は、官も民も思われているほど違いはないという点にある。これは、「近代においては、官僚制が国家機構だけでなく、私企業においても存在する」という柄谷行人の卓見に対応する(柄谷, 2010, p. 267)。近代的官僚制は資本主義的な経営形態である分業と協業に基づいて形成されたのであり、企業の場合には、その目的が利益最大化であるぶんだけその目的がわかりやすい。前者のケースでは、民主代表制をとる代理制のもとで、統治自体を主権者自身が行うわけではない。主権者の負託を受けた代理人が法を制定し、その法律を官僚が執行する。この統治によって主権国家を守ろうとするのである。それは、株主が取締役に会社経営の全権を委任して、会社を守り発展させ、株主の利益に沿うことを求めるのと似た構図である。


    ここで、企業統治(corporate governance)という考え方が国家の設立した会社(東インド会社)の経営問題と深く関連していたことに留意したい。主権国家に対する脅威として、賄賂が明確な犯罪と認識されるようになるのは、インドのベンガル総督だったワォーレン・ヘースティングズ(Warren Hastings)が一七八七年に腐敗などの嫌疑で逮捕された事件がきっかけであった。一七八八年二月に上院で裁判が開始され、その後、一七九五年四月に無罪になるまでの事件を契機にしていたように思われる。一七六四年に、東インド会社の取締役らは、従業員が贈り物を受け取ることを禁じていたが、一七七三年の規制法(Regulating Act)はこの禁止に議会法の効力を与えていた。へースティングズはいかなる贈り物も受け取らないという東インド会社の禁止規定のある陳述書に署名していたから、この義務違反が問われた。告発者の1人、エドマンド・バーク(Edmund Burke)下院議員は、ヘースティングズが受け取った贈り物が昔からの貢物の延長にあるものではなく、贈り手への助力を促す腐敗した近代的ビジネスの実践であるとみなした。バークはこうした贈り物が共同体内の関係を腐敗させ、部下にも蔓延し、英国にまで波及しかねないと訴えたわけである。主権国家、英国に対する、安全保障上の脅威として、東インド会社がかかわる外国での腐敗が問題視されていたことになる。


    特徴的なのは、法人としての近代的株式会社の原型が王権からの自立を宿命としていた点である。だからこそ、その主体化・主権化には、自らの規律や選抜の強化が必要になった。そこに、会社レベルでの腐敗防止策が求められるようになるのだ。国家が近代的な主権国家として誕生する過程で、近代的株式会社化も進行したのであり、株式会社もまた国家統治と同じく企業統治という課題に直面したことになる。


    ここでの指摘は、あのマックス・ウェーバーの「あらゆる領域における「近代的」団体形式の発展(国家、教会、軍隊、政党、経済的経営、利害関係者団体、社団、財団、その他何であれ)は、官僚制的行政の発展およびその不断の成長と、端的に同一のことなのである」という記述に対応している(Weber, 1922=1970, pp. 26-27)。だからこそ「今日の発展段階に達した資本主義が官僚制を要求するように、資本主義のほうも、必要な貨幣手段を財政的に提供することによって、官僚制が最も純粋な形で存立しうるための最も合理的な経済的基礎をなしている」とのべている(同, p. 28)。


    この結果として、支配形態の一つである官僚制は、支配層に都合のいい目的のもとに合理的に行動する上意下達の制度であり、こうした制度が資本主義のもとで国家、軍、政党、会社などに広まっていることになる。これは、目的そのものの是非を問うことなく、目的実現のための手段の合理性ばかりにとらわれている現状につながっている。


    こうしてみてくると、組織の支配形態の一つである官僚制が「官」だけでなく、「民」にも広がっており、いずれもが「上からのデザイン」を肯定するアプローチである、目的論的なアプローチをとっていることに気づく。そこでは、支配する側が目的設定を主体的に行うことができ、その目的の実現に向けて上意下達のシステムを総動員することが可能となる。こうした組織の支配形態としての官僚制の蔓延こそ全体主義への一歩なのである。

     

    コメント・ガイドディスカッション
    Facebook経由でコメントスプートニク経由でコメント
    • コメント
    主要ニュース