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    『ロシア革命一〇〇年の教訓』(9)

    『ロシア革命一〇〇年の教訓』(9)

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    塩原俊彦
    筆者 塩原 俊彦
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    今回は「第1章 デザイン思考への疑問という教訓」の第三節をご紹介しよう。

    第1章 デザイン思考への疑問という教訓

    3 デザインの虚妄:計画化の虚妄

    ロシア革命後、ソ連なる国家が誕生し、「社会主義」を実践すると標榜した。そこで、「現存した社会主義」を分析した塩川伸明によれば、「どの国も、社会主義政権発足から数年後に、国有化の基本的完成とともに、指令型経済システム--「行政的指令的システム」ともいう--を成立させた」(塩川, 1999, p. 109)。これは、「上」において経済をデザインし、そのデザインに基づいて経済を計画的に運営する試みを意味している。そのために、五カ年計画や年次計画がつくられ、「上」からの指令によって経済を機能させようとしたのである。

    別言すれば、ロシア革命後、デザインに基づく「上」からの計画の執行という、中央集権的アプローチ、まさに「上からのデザイン」を肯定するアプローチが全面化したのである。その結果、「上」が決めた目的に向かって手段を問わぬ全体主義国家が出現したことになる。

    ソ連の与えた強烈な影響

    ソ連の実践した「上からのデザイン」を肯定するアプローチはさまざまな形をとってその後の世界全体に影響をおよぼしている。すでに紹介したように、英国は第二次世界大戦後、石炭、鉄鋼、電力、ガス、鉄道などの輸送部門、民間航空などを相次いで国営化した。さらに、医療を国家が直接、税金で賄うというソ連と同じ方式を採用するに至る。最初に産業革命を経験した英国では、国家が主導して産業育成をはかるというアプローチをとらなくとも、各産業が独自に発展することが可能であった。これに対して、ドイツや日本などの後進資本主義諸国が国家主導で産業発展をはかったこと、さらに、ソ連が指令型経済システムという計画経済による国家主導の経済運営をとったことなどに影響されて、英国も長く国家と直接的な関係をもたなかった産業を国家の傘下におき、「上からのデザイン」によって再建しようとしたのである。

    あるいは、英国も米国も第二次世界大戦後、科学に対して公的資金を支出するようになる。とくに、初の人工衛星であるスプートニクがソ連によって打ち上げられたことで、科学技術に対して国家が直接、資金供与することが当然のこととして受けいれられるようになったのだ。

    いま現在、中国政府は「上からのデザイン」による国家主導の経済政策を推進している。実は、この政策がある程度、成功してきたために、中国政府に対抗するためにも、他の国々は国家主導の経済運営に傾斜せざるをえない状況に陥っている。これは、ソ連が一時期、急速に工業化を進め、それに対抗するためにも政府主導の経済運営に傾かざるをえなかった過去の歴史とよく似ている。

    ただ、ソ連の時代には、第二次世界戦争があり、その後の軍拡競争があったことから、国家主導で軍事化をはかるという色彩がきわめて濃かった。現在の「上からのデザイン」を肯定するアプローチは決して軍事重視一辺倒とは言えない。だが、多くの国が政府主導の経済運営を強化するにつれて、再び軍事重視になりかねない状況が生じているのはたしかであろう。米国政府の政治・経済面の世界全体におよぼす影響力が衰微しているために、政治的対立が随所に起きており、それがさらなる戦争へと拡大しかねない状況にある。

    国家による研究開発の無駄

    日本では、二〇〇九年に民主党政権下で実施された事業仕分け作業において、蓮舫議員が次世代コンピュータ開発の予算削減に関連して、「世界一になる理由はなにがあるんでしょうか?二位じゃダメなんでしょうか?」と発言したことがバッシングにあった。しかし、この質問は決して批判にさらされるようなものではない。なぜなら、歴史的にみると、国家が科学技術を支援する正当な理由などないからだ。

    軍事技術に関連した技術開発に国家がカネを出すのは当然かもしれないが、科学技術全般に財政資金を投入することとは同じではない。米国政府が科学技術を積極的に支援するようになったのは人工衛星開発でソ連に遅れをとったからにほかならない。つまり、まったく政治的理由によるものなのだ。

    加えて、政府の研究開発支援が民間の研究開発費に比べてきわめて非効率であることが知られている。筆者が蓮舫の立場にあれば、二〇〇三年に経済協力開発機構(OECD)のまとめた報告書(Governance of Public Research. Towards Better Practices)を使って、政府の研究開発支援が無駄ではないかと迫っただろう。同報告によると、一九七一~一九九八年のOECD加盟国の成長源泉を調査したところでは、民間の研究開発は経済成長にたしかに寄与したことがわかったが、公的な研究開発支援が経済成長にプラスに働いたという証拠は見出せなかった。あるいは、米労働省の報告書によると、「公的に資金供与された研究開発の多くの形態のリターンはほぼゼロである」と指摘されている。

    もちろん、政府の財政支援が基礎研究中心であるために、そのリターンがきわめて低いというのは必ずしも非難されるべきことではない。だが、国民の税金を使う以上、その使用に合理的な説明を求めるのは当然であろう。それができないのであれば、「そんなものは自分のカネでやれ」ということになってもやむをえない。

    制作から生成を考える

    物質が自ら運動するとみなした自然哲学はタレスといったイオニアに住む人々によってつくられた。神々に依拠せずに世界を説明しようとしたのである。タレスは「水」が自ら運動すると考え、しかもその運動の原因から神々を排除した(柄谷, 2012, p. 97)。つまり、「デザイン」する上位者を否定したのであった。

    しかし、すでにのべたように、プラトンやアリストテレスなどのギリシャ哲学はこうした見方をとらなかった。むしろ、神を復活させたり(プラトン)、目的因を想定したりして(アリストテレス)、「上」からのデザインを積極的に肯定する立場にたったのである。なぜなら、アリストテレスは自然のなかに目的因を見ることで、人間自身が神=制作者の観点から自然を見る視線に立っていることになるからだ。彼は自然の生成と人間による制作(ポイエーシス)を区別したのだが、目的因を設定することで生成に制作を紛れ込ませることに成功したというわけだ。

    この操作が実にみごとであったために、ヨーロッパの人々は長く目的論に基づく視線を当然のように受けいれるようになったのである。『哲学の起源』のなかで、柄谷行人は「アリストテレス派による呪縛は、ダーウィンの『種の起源』にいたるまで根本的に否定されることはなかったのである」と書いている(柄谷, 2012, p. 108)。ダーウィンが考え抜いたのは品種改良(人間による選択)と「自然選択」とはどう違うのか、ということであった。この問いは、「制作」という人間の働きかけと自然による「生成」との違いを問うものということになる。「つまり、ダーウィンは、制作から生成を考えようとしたイオニアの自然哲学者、あるいはその流れを汲む者と同じ問題に出会ったのである」(同, p. 109)。

    設計というデザイン思考

    ギリシャの都市国家は公的領域と私的領域をその設計思想によって区別してきたことが知られている。家屋のなかに両者の「閾(しきい)」が内在することで、両者の分断を避けてきたのである。具体的には、紀元前五世紀に活躍したミレトスのヒッポダモスこそ歴史上はじめての都市計画者の一人であり、アリストテレスの「政治学」に従って都市計画に従事したとされている。考えてみれば、デザイン思考は都市計画だけでなく、教育という子どもの将来を見据えた行為にも人間をデザインするという発想がみてとれる。その意味で、プラトンの『国家』のなかでも、教育論がかなりの部分を使って展開されている(軍事教練を含む体育と音楽・詩歌の重視)。それはまさに計画の萌芽と言える。そして、この教育を通じて、原因と結果という因果関係でものごとを理解するという視角が育つのである。

    古代バビロニアで始まった天体観測からはじまった占星術は紀元前三世紀ころにギリシャに伝わり、人間の運勢を占う占星術になった。人間の運勢と星との因果関係に注目するのである。これは、「計画」とは異なるが、将来を展望する視点を「上からのデザイン」として受けいれる視角を育てたのではないかと思われる。こう考えると、目的を設定してそれに沿うかたちでデザインするとか、そうした「上からのデザイン」を容認する視線はずいぶん以前から存在したことになる。もちろん、その前の段階として、供犠による将来への備えという視線が育っていた。人間は自然からの脅威(アニマ)の延長線上に神という超越的存在を想定するようになり、それを贈与によって抑え、対象と関係できるように物化させることで超越的存在である神を抑え安寧を得ようとしたのである。神によってなされた過去への贈与を継続するなかで、人間は将来に神を利用することを考える。人間が祭祀や祈願で神を人間の意志に従わせるようと、神に贈与するようになるのだ。

    『あらゆるもののエヴォリューション』

    マット・リドレイはその著書『あらゆるもののエヴォリューション』(The Evolution of Everything)のなかで、宇宙も道徳心も生命も、経済も技術も政府も、すべてが内的展開(エヴォリューション)を特徴としていると論じている。これが意味しているのは、神のような超越者によるデザインがあって世界がつくられたわけでは決してなく、世界は内部からの自発的な変化としての試行錯誤を繰り返して今日に至っているということだ。

    ここでの論旨である、政府による計画化に関連して、リドレイはつぎのようにのべている。

    「自由な商業が政府の計画よりもより大きな繁栄をもたらすと論じることは、もちろん、すべての政府を廃止すべきであると論じることではない。政府には、平和を守り、ルールを執行し、助けを必要とする人々を支援するという重大な役割がある。しかし、それは政府が経済活動を計画し監督すべきであるということと同じではない」(Ridley, 2015, p. 101)。

    政府による経済政策は当然のように思われているのかもしれない。それでも、その実際の効果を調査してみると、まったく無意味なことをやっているのではないかと記すこともできる。たとえば、ハーバード大学のハウスマンらが書いた「成長の加速化」という論文によると、彼らが見出したのは、成長の加速化は高度に予測不能である傾向が強いということだ(Hausmann, et al., 2004, p. 2)。具体的には、成長の加速化の大部分は政治的変化や経済改革のような標準的決定要因と無関係であり、経済改革のほとんどの例は成長の加速化を生み出さないという。要するに、政府がなにをしようと、少なくとも経済成長率におよぼす影響は限定的であるということだ。

    それにもかかわらず、歴史的にみると、国家予算が毎年の経済規模を示す国内総生産(GDP)に占める割合がきわめて高くなっている。リドレイによれば、政府支出は一九一三年のGDPの七・五%から一九六〇年の二七%、さらに二〇〇〇年の三〇%、二〇一一年の四一%まで上昇したという(同, p. 254)。政府の巨大化は全体主義化への第一歩ではないかとさえ思えてくる。しかも、その根拠が不明確なのだ。

    計画化の陥穽

    エヴォリューションがもっとも大きく歪められたのは、計画化を全面に打ち出して経済運営しようとした社会主義が登場したころである。国家が工場などの生産手段を所有し、国家主導で生産量やその価格を計画化して、経済そのものをその計画に沿って運営することで、国全体の発展をはかろうとしたものであった。だが、こうした「上」からのデザインという思想は根本的に間違っているのではないか、という疑念がわいてくる。「上」に任せるだけでは、さまざまな問題に対するよりまともな解決ができないからである。あるいは、原因と結果という因果関係だけでは説明できないこともあるからだ。

    この点を「知識」(情報)という観点からのべたのがハイエクである。彼は一九四五年の論文「社会における知識の利用」のなかで、興味深い指摘をしている。

    政府という「中央当局」が利用する知識は「統計」という形をとることが多い。ハイエクは、この統計が、ものごとの間の些細な相違点を取り除くことで、あるいは、ある決定のためにきわめて重要かもしれない場所、品質、その他の特性に関する相違項目をひとまとめにすることで得られることに注意を向けた。国は些細な違いに目を瞑り、だいたいこれくらいだろうという数字を紡ぎ出してよせ集め、それを根拠に上から政策決定をするのである。ただ、これでは時間や場所によって異なる特定の状況変化には対応できない。むしろ、それぞれの場所の近くにいる人々に多くを任せたほうが迅速で臨機応変は対応が可能となる。

    だからこそハイエクは、「われわれは非中央集権化を必要としている。なぜならわれわれは、こうした状況においてはじめて時間と場所の特定状況についての知識が迅速に利用されると請け合うことができるからだ」と記述している(Hayek, 1945, p. 524)。彼のいうように、政府といった中央が情報を処理して「上」からなにかを決めること自体に本来的な限界があると指摘しなければならない。

    他方で、国家が主導して「上」から強制したことが短期間の発展につながったという事例があることを否定することはできない。しかし、「上」からデザインするという思想は、遅れた国家がめざすべき特定の国家モデルを設定し、それを模倣するケースでしか成功しない。そして、成功した事例(日本の近代化はその典型かもしれない)もあるが、失敗例も当然多い。モデルのない先進国と呼ばれるような発展段階では、「上」からのデザインで問題解決をはかろうとする発想そのものが間違えていることになる。

    国家予算の歴史

    国家による経済の計画化のためには、国家の財政基盤をしっかりと築き上げることが大前提となる。その意味で、国家予算なるものの登場について考察する必要がある。もちろん、いきなり国家予算がはじめからあったわけではない。西ヨーロッパの場合、領主の親玉が国王にすぎず、国王を含めて、各領主が領地ごとに税を徴収していた。いわゆる封建制のもとで、国王は忠誠と引き換えに封土を封臣に与え、戦争時に彼らから兵力の提供を受けたほか、平時には税を徴収した。他方で、国王は基本的に自分の領地から税を取り立てて、自分の家計を賄っていたのである。したがって、国内のあらゆる領民から直接、国王が税を徴収するようなケースは稀であったと考えられる。王国の政府は国王の家産と一致しており、国庫はいわば国王の家産を管理するにすぎなかったのである。

    英国の国庫は一〇六六年のノルマンディー公ウィリアムによるイングランド征服後、イングランド・ハンプシャーの州都、ウィンチェスターに場所を提供された。やがて、国庫は国王個人の従者が王の個人的財務担当者として奉仕しつづけることになる部署と分離されるようになる。フランスでも同じような過程が一三世紀に起こり、多くの事務職員を伴った二人の家産の財務担当者がおかれるようになる。

    国庫は税の種類が多様化したり関税を課したりするようになると、専門化する。徴税人を組織化したり会計検査をしたりするためにも、国庫にかかわる専門的な人材が数多く必要とされるようになる。さらに、王から任命される地方行政官であるシェリフやその補佐人は国庫に対して税などの徴収状況を定期的に報告しなければならなくなる。二年に一度、国庫の事務官が会計勘定を検査するようにもなる。

    つぎの段階では、各国間の競争圧力がますます強まるなかで、行政上の予算機関を発展させる必要性が高まる。とくに、戦費の捻出のためにより多くの税が必要となり、徴税のためのしっかりした機関が求められるようになる。

    興味深いのは、カネで雇われた傭兵が戦争で重要は役割を果たしたことである。その一部が常時雇われることで、常備兵へと転化する動きもあった。この傭兵の利用は一六世紀までにヨーロッパ中に広がった。しかし同時にこれは多額の資金を必要とした。だからこそ、国王の家計支出と戦費とを区別することがより必要になったとも言える。多くの国は武器購入などに多額の資金も入用であったから、国庫は借金によって賄われるようになる。

    一七世紀前には、各国は戦争のたびに軍隊を維持してきたが、三十年戦争(一六一八~一六四八年)を契機に主要国は数十年にわたって軍隊を維持する必要に迫られ、それが常備軍に創設につながった。一八世紀には常備軍設置が欧州各国の共通の現象となる。それが軍に資金を供給できるようにする必要性を高め、歳出を管理する機関の設立を促すことになる。イングランドの場合、一六六七年に国庫は政府内の財政を管理する機関を設立した。一六五〇年代に常備軍を創設したプロシアは公的歳出を中央集権的に管理するようになる。国王の家産管理部門(Hofrentei)と公的財政部門(Amtskammer)が分離する。フレデリック・ウィリアム一世の治世時の一七二三年には、政府はすべての異なる資金源泉(歳入)と歳出とを統合した国庫機関(Generaldirektorat)を設立した。これによって、行政にかかわる各部署は前もって予算をたてGeneraldirektoratに提出するようになる。同機関は歳出と歳入を管理し全体としての予算を立案し、国王の承認を得る。予算をチェックするために別の会計検査機関(Rechenkammer)も設立された。

    こうしてプロシアで初めて近代的な予算作成が行なわれるようになった。とくに、一七九四年に制定されたプロシア国家一般法(Allgemeines Landrecht für die preußischen Staaten, ALR法)によって道路、公園などの公的空間と私的空間との区分が持ち込まれ、一八七〇年代になって公的土地利用のための土地収用やその補償といった考え方が法制化されたことで、道路建設などの計画化と予算作成が密接に関連するようになる。

    こうして近代国家の運営が年間ごとに計画化を前提に行われるようになったことになる。興味深いのは、公的空間と私的空間の峻別が道路整備などのかたちで計画化を必要とし、それが予算作成上の計画性の重要性につながり、国家や自治体の予算がますます計画重視に傾いていったことである。さらに、ヒトラー独裁下の全体主義国家では、この計画化が全面化されるようになる。そうであるならば、予算を通じた計画化に乗り出したすべての近代国家は全体主義への道に一歩踏み出したと言えなくもない。要は程度の差なのである。

    現代のように、国家による大規模な予算編成は多岐にわたる行政サービスの計画化を必要とし、その分、全体主義的傾向が強まっているのではないか。加えて、年度予算が中長期の国家計画と連動しているケースもあるから、計画化の適用範囲も広がっている。とすれば、ここでも全体主義に傾いていると考えられるのだ。

    現代における日本の例をあげてみよう。それは、一九八二年に当時の通商産業省が立ち上げた「第五世代コンピュータ」(FGCS)開発のための国家プロジェクトである。一九八二年から一九九四年に五六八億八一〇〇万円を投じた。しかし、思ったような成果は得られず、当初の目論見通りにはいかなかった(松尾, 2015, p. 108)。「ビジョン」から出発して「コンセプト」をまとめ、それに基づいた「モデリング」を行ったとされるが、ビジョンが間違っていれば、その結果として成果はあがらない。推論を強化するためには並列化の仕組みづくりにこそ活路が見出せると判断して、その開発に邁進したのだが、六〇〇億円近い国民の税金が消え去った。まさに、FGCSは官僚が専門家と結託して税金をドブに捨てた事業であった。だが、官僚や専門家が責任をとったという話は聞こえてこない。全体主義的傾向が強まっているからこそ、こんな出鱈目をしても批判されることさえ少なくなっている。

    バース・コントロールと計画化

    「計画化」の問題は人間自身の計画的出産ないし堕胎に深く関係している。トマス・ロバート・マルサスが匿名で『人口論』を発表したのは一七九八年であったが、貧困と多産の問題を関連づけて論じたところに、社会主義や共産主義の理想と呼応する部分があると言えよう。近代以降の生殖パターンは、「望ましい子供の数の目標値が設定され、それが達成されれば女は閉経よりもずっと以前に産むのをやめてしまうこと」であった(荻野, 1994, p. 15)。

    コンドームは一六世紀に梅毒感染防止用に考案されたといわれるが、ゴム加硫法による安価な生産が可能になった一八四〇年代になるまでは一般の人々には入手困難な高価な商品であったという(同, p. 35)。

    興味深いのは、マルサスの人口論の保守性に一部の社会主義者が反発し、避妊を拒否する態度がみられたことである(たとえばローザ・ルクセンブルクのようなドイツの社会民主主義の指導層)。他方で、英国のフェビアン協会のウェッブ夫妻のように、国家が人口管理に介入すべきだと考えていた社会主義者もいた。もちろん、こうした動きは優生学という「人種」間の偏見を助長する悪しき方向にも向かう。

    一九一〇年代から二〇年代にかけて、ロシア革命の前後に「バース・コントロール」運動が欧米で広がりをみせたことも忘れてはならない。まさに、人間自らが計画化に乗り出す運動が本格化する。米国では、マーガレット・ヒギンズ、のちのサンガーが避妊法によるバース・コントロールの普及に乗り出すのである。彼女は世界産業労働者同盟(IWW)の労働運動家と親しく、その運動はいわば階級闘争のなかで育まれたのだ。やがて階級闘争と一線を画した性の自由と女性のセクシャリティの解放のための運動に転化していく。

    キリスト教の世界では、受胎をコントロールすることは神の法に背くとして教会が反対の立場をとってきた。したがって、避妊は人間による神への冒涜であり、ましてや堕胎は禁止されていた。だが、一九二〇年十一月、ロシア革命後のソ連は堕胎、すなわち人工中絶を自由化したのである。保健人民委員会と司法人民委員会が人工中絶に関する共同決定を出したものだ(Денисов & Сакевич, 2014, p. 188)。人工中絶はバース・コントロールの最終的な手段であり、ここに至って、人間がその生命現象をコントロールすることが明確に認められたのである。

    これによって、ロシア革命で誕生したソ連という国家が人間のデザイン思考、「上からのデザイン」を肯定するアプローチないし目的論的アプローチを全面的に取り入れていたことがわかる。ただし、中絶に対する見方はソ連の状況によって変化し、一九三〇年代には出生率の低下や中絶の増加から、反中絶キャンペーンを引き起こしたほか、一九三六年六月には、ソ連中央執行委員会と人民コミッサールソヴィエトの決定として、中絶が一時禁止された時期もある(同, pp. 191-193)。一九五四年八月になって、中絶への罰則を廃止するソ連最高会議幹部会令が出された(同, p. 196)。

    余談ながら、この「バース・コントロール」という「上からのデザイン」を肯定するアプローチないし目的論的アプローチは第二次世界大戦後になっても世界規模で猛威をふるっていたことを忘却してはならない。世界銀行は国家による不妊手術の実施という人口抑制を融資条件にしていた事実がある。一九六八年から一九八一年まで世界銀行総裁を務めたロバート・マクナマラ元米国防長官は人権を無視したかたちで「上からのデザイン」を押しつける全体主義を、世界銀行を使って文字通り世界規模で行ったのである。

    「上からのデザイン」を肯定するアプローチの現実

    実際にどのように計画化が行なわれたのかを考えるとき、А・カガン著『若者は給料をどのように費やしているか、また、どのように費やすべきか』が参考になる(Каган, 1928)。簡単に無料でダウンロードできる一〇〇頁強の小冊子だ。共産主義青年同盟(コムソモール)の一〇〇人強の会員に対するアンケート調査をもとに、彼らの給与やその支出が明らかにされている。そこで、目の敵として問題視されていたのは飲酒や喫煙に対する出費に加えて化粧への支出であった(同, p. 79)。だが、「上」から禁酒や禁煙を推進しようにも、これがまったくうまくゆかなかったことはソ連やロシアのいまの歴史が物語っている。女性が美しくなりたいという欲求を認めず、化粧品そのものの生産を厳しく制限するという、「上」から目線の発想はどうにも理解に苦しむと指摘しなければならない。人間の欲望を抑え込むことは困難であり、アルコールの取引が闇に潜ったり、ストッキングの闇取引がはびこったりする結果をもたらしただけのことだ。

    筆者が最初にソ連を訪問したのは、一九八〇年であり、一九八一年には地球の自転と反対周りに地球を一周した。いずれの旅行も真冬であったが、そこで際立っていたのはだれもがよく似た服装をしており、華やかさの欠如であった。ただ、女性のマフラーだけがカラフルであったことを記憶している。「女性の唯一のおしゃれポイントよ」と、筆者の仲人、宮沢俊一・道子夫妻の奥さんが教えてくれた。「上からのデザイン」という発想は現実にはなかなか適用できないのが実情なのだ。

    全体主義、計画化、官僚化 (割愛)

    ハイエクのいう「自生的秩序」 (割愛)

    マンデヴィル、ヒューム、スミスの思想 (割愛)

    バランスの問題 (割愛)

    関連:

    『ロシア革命一〇〇年の教訓』(4)
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    『ロシア革命一〇〇年の教訓』(6)
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