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    『ロシア革命一〇〇年の教訓』(10)

    『ロシア革命一〇〇年の教訓』(10)

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    塩原俊彦
    筆者 塩原 俊彦
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    今回は「第1章 デザイン思考への疑問という教訓」の第四節をご紹介しよう。

    第1章 デザイン思考への疑問という教訓

    4 無人支配としての官僚制

    計画化を支えているのは官僚であり、そのためにソ連は官僚制を高度に発達させた。それが全体主義国家を支えたのである。ロシア革命の教訓としなければならないのは、それが結局、官僚制をもたらしてし、国家優先の全体主義の強化につながってしまった点にある。近代官僚制は部署ごとに「目的」ないし「目標」を設定し、局地的に命令を発し、服従を迫るという上意下達の情報伝達システムを前提としている。このシステムが可能なのは、その命令が合理性をもつように装うことができるからである。「社会」や「国家」といったわけのわからない全体概念による要請を理由に、その命令が客観性をもち目的合理性があるかのように認識されてしまうのだ(山本, 2015, p. 154)。しかも、その命令は匿名で出される政令によって正当化されている。

    目的合理性という罠

    この目的合理性は近代的な思考様式に支えられている。すでに紹介したように、ウェーバーが官僚制を「最も純粋な形で存立しうるための最も合理的な経済的基礎」をなすと評したのは、官僚制がどんな目的であれ、その目的の実現において合理的であると判断したためだ。ここでの目的合理性はマックス・ホルクハイマーのいう「道具的理性」(instrumentelle Vernunft)と同じ意味で使用している。彼は、啓蒙における理性とは目的の純粋な道具であろうとする古くからの野心をもち、本質的に手段と目的に多かれ少なかれ自明のものと考えられている目的に対する手続きの妥当性に関心をもち、目的自体が合理的であるか否かという問題にはほとんど重きをおかないとみなした。彼は、啓蒙の理性は所与の目的達成の道具にすぎないという意味で「道具的理性」にすぎないとしたのである。

    にもかかわらず、この目的合理性や道具的理性は、「命令はそれが"物化"されることによって、リアリティを得、いかにもその命令に根拠があるように見える」という思考に支えられている(山本, 2015, pp. 99-100)。ここでいう「物化」(materialization, Verdinglichung)とは、ハンナ・アーレントの言葉で、「活動と言語と思考」という「触知できないもの」を「触知できるもの」に変形することによって、それらにリアリティをもたせ、持続する存在とすることである。建築空間が「物」となることで、逆に物化されたものによって「活動と言語と思考」が影響されるというのが近代以前の「世界」にあったというのである。

    観察から実験へ

    この思想は感覚に基づく一切の直接的経験への信頼をもとにしている。ところが、地球が太陽を廻っている事実が発見されたことで、デカルトの「すべてを疑うべし」(de omnibus dubitandum est)という懐疑論が優勢になる。アーレントは『過去と未来の間』のなかで、「いいかえれば、人間が自らの感覚が宇宙に適合していないことを学び、そして日常生活の経験は真理の受容や知識の獲得の範型とならないばかりか、むしろ誤謬や幻想の源泉であることを知ったとき、近代は始まったのである」と的確に表現している(Arendt, 1958, 1968=2002, pp. 70-71)。観察から実験へと人間は歩を進め、自然科学の進歩をもたらすことになったのだ。

    近代になると、まず「活動と言語と思考」といった思想があって、それが物化されるとみなす。しかも、「思考する人」と「物化する人」が分離される。つまり、「思考する人」=「知を命ずる人」=「支配者」、「物化する人」=「執行する人」=「服従者」という区別を受けいれ、その命令は「物化」によって客観的な根拠があるかのようにみえてしまうのだ。これは、結果という目に見える「触知できるもの」を圧倒的に重視する思考を生み、結果から原因を説明することですませてしまうのである。こうして、プラトンのもたらした知を、命令=支配と、活動を服従=執行と同一視する見方の権威化が進む。結果からみれば、原因があるかのように説明するのは実に簡単なのだが、この因果関係の論理に騙されて、知の権威化がどんどん広がってしまったのである。しかし、本当は「知」と「物化」は一体なものであり、「物化」に先立って根拠のある「知」があるわけではない。加えて、すでに記したように、事後的に起こったことを必然的結果のように記述するだけでは、責任の問題が忘れられてしまう。勝者の歴史になってしまうからだ。

    官僚の「標準化」と「無人支配」

    官僚による命令が局所的に可能となるのは、その命令を執行する末端において、「標準化」による基準が有無を言わせぬ執行を可能にするからである。これは、なにも考えないでただ執行するというかたちで官僚が権力を行使することを可能にし、同時に、その権力行使を受ける側もその標準化を受けいれることで、なにも考える必要がなくなる。「命令する側とその命令に服従する側との間に「無思想性」という相互関係が成立するのである」ということになる。それだけでなく、官僚制はだれも責任をとらないという恐るべき形態だ(Arendt, 1970→1972, p. 137)。この「無人支配」の行きつく先に「全体主義国家」がある。それは多かれ少なかれ、すでにすべての近代国家の病弊として存在しているのだ。

    留意すべきことは、アーレントという「物化」がいわゆる「物象化」と呼ばれる近代の特徴と類似している点である。「物象化」とは、目に見えない関係をあたかも物のような客体であるかのようにみせかけて人間を拘束することを意味している。個別の自立した人間が相互依存の関係によってつながっている近代市民社会はばらばらになってしまった諸個人を再び関係づける再・共同化を必要とする。わかりやすいたとえをすれば、懐中時計で個々の資本家が時間を計れるようになっても、そのばらばらな時間を再・共同化しなければ市民社会は成り立たないから、各国に「標準時」が設定され、時差が制度化される。これと同じような出来事が事物(モノ)・他者(ヒト)・記号(コトバ)を媒介にした物象化のメカニズムが働くことになる。それぞれの様相は、貨幣(商品、資本)、国家(公権力、官僚制)、理念・科学・芸術等が「神」であるかのような特別な「社会的」性格を宿したものとして市民に映るようになる。それらは、それぞれ、価値、役割、意味の体現者に位置づけられ、貨幣という媒介物を得ることが人生の目的のように感じられたり、役割の上昇が欲求されたり、合理化された観念の体系としての科学のようなものが知らしめる「意味」がありがたがられたりするようになる(真木/大澤, 2014, pp. 273-276)。

    こうしたがんじがらめの関係性の束のなかで、官僚制は守られているとも言える。そこでは官僚が国家という隠れ蓑に隠れて国民を統治する「無人支配」が継続されている。

    官僚の思考停止

    つぎに、「なにも考えないでただ執行する」ことを旨とする官僚について考えたい。この問題の深刻さを理解するには、六〇〇万人とも言われるユダヤ人虐殺に手を染めたのが凡庸な官僚であったことを想起するところからはじめるのがよい。具体的には、アルゼンチンに逃亡中、イスラエルの諜報機関によって逮捕された後、人道(人類)への罪などで有罪となり一九六二年に絞首刑となったアドルフ・アイヒマンを取り上げてみよう。彼は親衛隊の情報部ユダヤ人担当課に属していた「官僚」であり、ドイツの法に従ってユダヤ人の収容所送りという「命令」を執行しただけであったと主張した。いわば、事務処理をこなす官僚が数百万人を死に至らしめたことになる。ゆえに、アーレントはこのアイヒマンの悪を「悪の陳腐さ(凡庸さ)」(vanality of evil)と呼んでいる。法の遵守のもとで思考停止してしまう凡庸な官僚であれば、だれしもが同じ罠にかかり、他人の生命をまったく平然と奪うことに加担できるのだ。

    問題は、法を遵守するだけでその執行を思考停止状態で行う官僚がいまでもあちこちにいるという現実である。アイヒマンと同じ論理で平然と権力をふるう官僚が存在する。しかも、官僚がもつエリート意識が断固とした権力行使を行わせることになる。

    凡庸な官僚が同じ過ちを繰り返さないようにするにはどうしたらよいのか。その答えは簡単ではない。アーレント自身は、「法を守るということは、単に法に従うということだけでなく、自分自身が自分の従う法の立法者であるかのように行動することを意味するという」、ドイツでごく一般的に見られる観念に同調しているようにみえる。これは、法の背後にある原則や法が生じてくる源泉へと自分の意志を同化させなければならないというアーレントの主張とどう関係するのか(伊藤, 2003, p. 19)。官僚が遵法精神をもとに行動するのであれば、いかなる法であっても思考を停止して執行するだけでいいのか。

    この問題は究極的にはカントの主張に帰着する。合法も違法も、「義務を果たす/果たさない」という同一の領域に属するだけであり、倫理は、この領域には収まりきれないのだ。「倫理は、法やその違反といった枠組みには収まらない」ことから出発しなければならないのである(Zupančič, 2000=2003, p. 27)。それは、「義務が課されていた以上、それに従って行動しただけだ」という官僚的言い訳にどう立ち向かうかを問うものとみなせる。しかも、こうした言い訳は官僚という職業をもつ者だけでなく、現代を生きる大多数の者にとっての言い訳になっている。

    マルクス思想の不適切 (割愛)

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    歴史, ロシア
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