『ロシア革命一〇〇年の教訓』(11)

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今回は「第2章 軍事国家ソ連という教訓」の第一節をご紹介しよう。

第2章 軍事国家ソ連という教訓


1 ロシア革命と軍事化

ロシア革命というと、これまではイデオロギー的側面から、「初の社会主義革命」に力点がおかれてきた。だが実際には、ロシア革命はあくまで暴力革命であって、「軍事国家ソ連」ないし「秘密警察国家ソ連」という面を色濃くもっている。ここでは、ロシア革命を安全保障面から考察し、ロシア革命一〇〇年のなかであまり強調されてこなかった部分に光を当ててみたい。

ロシアにかぎらず、軍事力と国家との強い結びつきを主張する見解は以前からみられる。たとえば、国家形成における推進力として軍事競争の重要性を主張する見方がある。チャールズ・ティリーは経済の発展水準が軍事動員戦略に影響をおよぼし、軍事的競争と経済発展との間の相互作用が国家構造を決定づけると論じている(Tilly, 1990)。ほかにも、ブリアン・ダウニングのように、一六世紀の「軍事革命」と呼ばれる、常備軍や傭兵制度を創出した変化を重視し、軍人と官僚に基づく絶対主義の登場に力点をおく主張もある(Downing, 1992)。

ロシア革命の場合、反革命勢力との内戦以外に一九一八年三月のブレスト・リトフスク講和条約までの対独戦などもあったから、革命勢力が軍事優先の指向をもっていたことは明らかだ。講和条約後、第一世界大戦からの離脱後も、革命政府は世界各国で共産党革命を引き起こすことで、一国だけの共産主義革命を潰そうとする包囲網に打撃を与える必要性が認識されていた。その革命がドイツで起きることがもっとも期待されていた。一九一八年十月から翌年の一月にかけて、労働者・兵士評議会(レーテ)による革命が起きるが、結局、共産主義革命は失敗する。だが、レーニンらは一九一九年三月、「コミンテルン」という世界共産主義革命のための運動体を組織する。コミンテルンを通じた共産主義革命の実現には、軍事支援が重要であったから、ロシア国内で革命勢力が支配を固めるようになって以降も、ロシアの革命政権は軍事優先の態勢を堅持する必要に迫られていたことになる。

同じころ、党中央執行委員会のメンバーから政治局員が選出されるようになり、毎週木曜日に開催される政治局会議で政治も経済も含めた国の全活動にかかわる重大な決定がくだされることになる。当初、政治局メンバーとなったのは、レーニン、カーメネフ、トロツキー、スターリンだが、政治局とともに組織局なる党務運営機関がつくられ、そのトップにもスターリンが選ばれた。党政治局が軍事を含むすべてを代表する体制が構築されたことになる。なお、コミンテルンは世界革命のための組織であり、その実現のために諜報活動をひつようとしたから、「チェーカー」とも密接につながっていた。チェーカーを事実上、支配下においていたスターリンはコミンテルンをも牛耳ることが可能となったのである。そして、スターリンはコミンテルンを通じて、ドイツの共産主義者の社会民主党との連携を認めず、それがドイツにおけるヒトラーの台頭を許すことになる。

こうした事情を背景に、一九二〇年代や一九三〇年代における工業化計画に赤軍の戦争計画がどのようにリンクしていたかを探るレナート・サミュエルソンのような試みがある(Samuelson, 2000)。ここでは、彼の分析を手掛かりにしながら、ロシア革命によって「軍事国家ソ連」が誕生した経緯について考えたい。なお、筆者はかつて拙著『ロシアの軍需産業』のなかでこの問題を論じたことがあるので、それも参考にしてほしい(塩原, 2003)。

ここで本題に入る前に、ソ連には軍事に絡む特別の計画化のルートがあったことをあらかじめ説明しておきたい。それは、①期間一年、五年などの経済計画、②戦争計画、③動員発注である。「戦争計画→動員発注→経済計画」の順序に伝達された。あくまで戦争計画が経済計画よりも上位に位置づけられていた点が決定的に重要である。ソ連はまさに「軍事国家」として想定されなければならないのである。この点を明確に論じたのが筆者の書いた岩波新書『ロシアの軍需産業』であり、岩波書店刊行の単行本『「軍事大国」ロシアの虚実』である。

戦争計画には、想定敵国の軍事力の評価、予想される戦争脅威の条件、戦闘時のさまざまの段階での軍事力のニーズなどが含まれる。それに基づいて、動員発注が決められ、それが経済計画の投資部分の核となるのだ。さらに、経済計画から戦争計画へのフィードバックが実施され、戦争計画の見直しにつなげられる。なお、軍事関連として、軍事力建設計画、動員配備計画、戦時経済計画もあった。

模範はドイツ
国家による常備軍の創設後、国家が軍事に深く関与するのは当たり前のこととなった。一般に、銃に代表される火力の新しい利用、要塞の新タイプ、軍隊の規模の増大という三つの発展が近代ヨーロッパの戦争を変革したといわれている(Parker, 2012, p. 43)。軍の規模については、ルイ一四世の治世期の一七〇一~一三年に約六五万人が入隊したことが知られているが、自分の意志に反して徴兵された者はわずかで、大部分はフランス人であるか外国人であるかを問わず、志願兵であったという(同, p. 46)。強制的軍役の永続的な形態は一六~一七世紀にかけてフィンランドやスウェーデンを統治したカール九世やグスタフ・アドルフの治世に導入されたらしい(同, p. 52)。

一七世紀の三十年戦争ころになると、傭兵が全盛となり、兵員を集める個人が一五〇〇人程度、ヨーロッパに存在し、四〇〇ほどの軍事企業のようなものがあったという(同, p. 64)。プロシアのフレデリック二世(一七四〇~八六年)のころには、プロシアの軍隊の規模はヨーロッパで第四位ないし第五位にまで巨大化した。人口はヨーロッパ第一三位にすぎなかったから、人口一人あたりでみると、もっとも多数の軍隊をかかえる国になったことになる(同, p. 148)。興味深いのは若い男性のほぼ四分の一が軍に徴兵されていたことである。プロシアでは、徴兵制を活用した常備軍の整備が進み、その過程で国家による軍事への関与がより深まった。兵員向けの武器の提供はもちろん、食料や衣料品の提供など、国家は軍事関連のさまざまの分野にかかわるようになる。

ドイツは国家主導の資本主義化を成し遂げることで、国家による計画化のモデルをつくり出し、それがロシア革命に伝播したのである。

国家主導による国防産業の育成
一七〇三年に「聖ペテロの街」を意味するドイツ語のサンクトペテルブルクの建設を開始したピョートル大帝の時代から、国家主導による産業育成が積極的に推進され、同地は「政府がスポンサーとなった大規模な工業センター」となった(Smith, 1985, p. 7)。一九一七年までに、陸海軍が必要とする弾薬筒、回転式拳銃、機関銃などを供給するための三一の国有ないし国営の企業が同地中心に立地していた。このうち、一〇企業は砲兵局によって経営されていた。砲を製造する工場の従業員数は一九一七年一月で一万八九四二人にのぼった。弾薬筒製造工場の従業員数は約一万人だ。国営企業には、六〇〇〇人以上を雇用したネフスキー造船会社のような組織もあった。一九一六年にペトログラードの工場は一五〇万ルーブル規模の軍事発注を遂行し、冶金産業では、企業の八一%、従業員の九八%が戦争関連の注文のもとに仕事をしていたという(同, p. 9)。ドイツのベルリンにあったロシア商社は染色工場を自前でロシアに建てたし、兵士の被服用布地製造工場の建設もロシアの資本主義を促した(Sombart, 1913=2014, p. 231)。

国家が関与する企業は取締役会によって運営されたが、国家の企業は海軍や陸軍の将校から構成され、その配下にマネジャーやその補佐役、その下に監督者(ロシア語でмастер、英語でforeman)やその補佐役がいた(同, p. 39)。一九一〇年、冶金労働者の組合は監督者の入会を拒絶したというから、監督者とその補佐役以上が管理者とみなされていたらしい。二月革命を契機にして将校は逃げ出したから、彼らに労働者が取って代わることになる(同, p. 61)。「エグゼキュティブ委員会」なるものが設置され、こうした労働者の代表などからなる委員会が砲兵局や海軍省と交渉し、いったんは多くの国防企業で委員会が経営上の重要な役割を果たすことはなくなる。他方で、民間企業の場合、企業に生まれた同種の委員会が一種の労働組合の機能を果たすようになるのである(同, p. 64)。こうした委員会は臨時政府によって一九一七年四月二十三日に公布された法律で、賃金や労働時間に関する労使交渉で労働者の利害を代表する「工場委員会」としてその設置が制度化される(同, p. 79)。

第一次世界大戦がはじまり、ロシアも参戦すると、陸海軍の兵士の一部が国防産業の関連企業に送られ、厳しい軍事規律のもとで不人気な作業を強いられたことはあまり知られていない(同, p. 49)。こうした企業では、あまりストライキが起きなかったという特徴がある。

もう一つ注意喚起しておきたいのは、ロシアがその近代化の開始から、ドイツを範とし、国防産業を政府が育成する体制が整えられてきたことである。こうした国家主導の軍事優先体制はヨーロッパの近代化の過程では決して珍しいことではない。ロシアに特徴的なのは、こうした国家主導の軍事優先体制がロシア革命によってさらに全面化し、全体主義的傾向を強めた点にある。

他方で、もちろん、レーニンはヘーゲルやマルクスのドイツ・イデオロギーに大きな影響を受けていた。関曠野のわかりやすい解説を紹介すると、「当時ヨーロッパの左翼の総本山だったドイツ社会民主党が建前で掲げている革命論を鵜呑みにして、マルクス主義の教義を金科玉条のように受け取る。ドイツでは建前という面もあった歴史のロゴスを本気で信じ込んでいたのがロシアのマルクス主義者です」ということになる(関, 2016, p. 54)。

ついでに、ぜひ紹介しておきたいのはオイゲン・リヒターが一八九三年に書いた『社会主義的未来の図』についである。ドイツの政治家でジャーナリストでもあったリヒターは、将来の社会主義がどのように運営されるのかを近未来小説風に描いた。まだロシア革命が起きる二〇年以上も前のことだ。すでに指摘したように、マルクスは共産主義や社会主義の具体像を示したわけではないから、このディストピア(悪しき場所)小説は社会主義の正体を暴くという意味で大きな影響をおよぼした。そこでは、一八九一年のエアフルト大会で決まった旧党の綱領が人民の基本的権利の概要として公布され、すべての資本、財産、鉱山や採石所、機械、コミュニケーション手段、およびすべてのあらゆる個人所有物は唯一、国家あるいはもっと適切に言うのであれば共同体の財産となった宣言している(Richter, 1893, p. 5)。新住居のくじ引きや共同食堂の話など、興味深い物語が展開されている。もちろん、このディストピアがロシア革命後のロシアに直接影響を与えたわけではないが、ドイツに比較的早くから社会主義の具体像が存在したことはロシア革命後の社会主義の実践になんらかの作用をおよぼしたのではないかと思われる。日本では、リヒターに対する関心がほとんどない、社会主義に負のイメージを提供した人物は研究の対象から外されてしまったのかもしれない。これが日本の学会のお粗末な実態だ。

戦時共産主義下の軍事産業
このようにみてくると、「戦時共産主義体制(一九一八~二一)が一九一五~一八年のドイツの戦争経済に基づいていたことはほぼ自明の理となった」とサミュエルソンが記述していることは実に興味深い(Samuelson, 2000, p. 17)。より興味深いのは、第一次世界大戦で敗れたドイツの思惑と、ロシアの利害が一致し、それが両国の軍事産業協力に直結した点である。ラジンスキーのつぎの記述はきわめて重要だ。

「ヴェルサイユ条約によってドイツ側は戦車と空軍の学校を国内に持つことを禁じられたので、彼らはそれらをロシアに創設した。こうしてロシア内にドイツの軍需工場の秘密支社群が出現し、極秘の実験が行なわれ、ドイツの化学兵器が製造された」(Radzinsky, 1996=1996, 下, p. 20)。

なお、当時の状況について、サイモン・ピラニはつぎのように指摘している(Pirani, 2008, p. 44)。

「一九二〇年十月当時、モスクワの共産党員数三万五二二六人の調査結果によると、その三二%は十月革命から一九一九年八月の間に党員に参加した者であり、五一%は主に一九一九年十月の党員拡大のためのリクルートで入党した者であった。一九一七年より前に入党していたのは一七六三人、五%にすぎなかった。もう一〇%は十月革命前の一九一七年に参加していた。興味深いのは、党員の八九%が男性で、七〇%が軍事訓練を完了していたことである」。つまり、党と軍事が深く関係していたことがよくわかる。

この戦時共産主義は国内戦を言い訳にして、産業の国営化や私営商業の禁止を断行するもので、すべての軍事を優先する体制を正当化した。実は、その内戦が終結しても、一時的にネップという市場容認策があったにしても、軍事優先を貫くためのボリシェヴィキ党による支配は変更されず、それが軍やチェーカーによる治安維持を最優先する体制の堅持をもたらしたのである。

一九一八年一月、人民コミッサールソヴィエトは労働者・農民赤軍を創設する命令を出した。赤軍の組織化・補充・武装・補給といった問題解決を図らなければならなかったのである(Тюрина, 2005, p. 29)。同年四月には、経済最高ソヴィエトの決定によって、革命まで活動していた軍産委員会に代わって人民産業委員会が設立されることになる。同月には、工業国有化に関する指令が出され、多くの大規模な軍事企業の国有化が加速化され、その経営は経済最高ソヴィエトやその地方機関に移される。

同年、革命軍事ソヴィエトが創設され、そこに次第に軍事管理機能がすべて集中されるようになる。議長職にはトロツキーが就く(一九二四年まで)。一九一九年七月には、同ソヴィエトに付属するかたちで、赤軍およびその構成員の補給に関する特命全権制度がつくられ、九月には、労働者・農民国防ソヴィエトに軍事産業ソヴィエトが設けられる。こうして、軍事産業ソヴィエトが五九の軍事工場を管轄するようになる。新たな権力を握りつつあった政権が国防産業を直接、管轄する体制が漸進的に整備されたのだ。

戦時共産主義のもとでは、赤軍への参加や燃料供給の減少などから国内生産が大幅に減少したが、軍事生産についてはそのかぎりではなかったことが知られている。全般的にみると、モスクワの人口は一九一七~一九二〇年の間にほぼ一〇〇万人に半減した(なお、一九一七年のペトログラードの人口は約二四〇万人で、ロシア帝国全体では一億八二〇〇万人)。労働部門の統計によると、その工業労働者数は一九一七年の四一万一〇七〇人から一九二〇年の二〇万八一五八人に、人口統計によると、一九一七年の四六万八〇〇人から一九二〇年の二〇万二七〇〇人に減少した(Pirani, 2008, p. 21)。繊維業の場合、一九一三年の二五万人規模の従業員数が一九二〇年には一二万人規模にまで減った。ドイッチャーは一九五〇年代に、内戦終結時、労働者階級は「粉砕された」状況にあったと論じた。赤軍側が勝利したものの、労働者数が減り、その「プロレタリアート」と呼ばれる階級がほぼ「消失していた」というのである。しかし、軍事企業を中心に生産は継続されていたのであり、ドイッチャーの主張の誤りが知られるようになっている。ピラニによれば、大部分の繊維工場は一九二〇年に閉鎖されたが、冶金工業の多くは稼働しており、しばしば軍に供給していたという(同, p. 23)。

ドイツとの協力を模索
一九二〇年代の半ばになっても、軍部は一九二六年八月の赤軍・革命軍事委員会の覚書「経済軍事化のドイツの経験の利用について」のなかでドイツの経験が言及されるといったかたちでドイツが手本になっていた。このため、サミュエルソンは、「その後、スターリン主義者の「工業化モデル」は戦時共産主義への回帰とみなされてきたし、また、ドイツの戦争経済をさらに精緻化したものとみられていた」と記している(同, p. 18)。

この際、第一世界大戦における戦争経済よりもむしろ、フランス、英国、米国の一九二〇年代の進歩に追いつこうとする意図がソヴィエト政府にはあった。ドイツの場合、一九二〇年代にはすでに、動員準備の枠組みを発展させており、即時・中間・長期の計画を入念に仕上げていた。一九二一~二二年、レーニンとトロツキーはドイツ産業およびワイマール共和国軍(Reichswehr)との秘密裡の協力を開始したことが知られている。レーニンらはロシアの老朽化した軍事工場の一部をコンセッション形態で引き受けてくれることを期待した。一九二二年には、ドイツの会社ユンカーズがモスクワ郊外で航空機製造を開始するまでになる。一九二六年には独ソの国防産業間の協力関係強化のための代表団がドイツに出向くことが決められた。結局、この国防産業協力はソヴィエト側に望ましい結果をもたらしたわけではないが、ロシア革命後のソヴィエト政権がドイツと突出した友好関係を結ぼうとしていたことは確実である。しかも、それは軍事力強化と国防産業の育成のためであったと考えられる。

諜報機関の関与
トロツキーが一九二五年に軍のコミッサールを解職されるまで、彼は計画化に基づく軍事化の必要性を力説していた。軍再構築の計画、戦時の動員改革と配備計画は国防産業の発展計画と一致しなければならないというのが彼の基本的な立場であった。一九二一年十月には、一九一七年から一九三二年一月まで産業を管轄した経済最高ソヴィエト議長、ピョートル・ボグダノフによって新型航空機などにかかわる十年プログラムが提案されるまでに至る。一九二五年はじめに、トロツキーの後任となったミハイル・フルンゼ新コミッサールのもとで軍改革が開始され、国防関連問題に常設委員会が設置される。そのトップには、人民コミッサールソヴィエト議長のアレクセイ・ルィコフが就く。

一九一四~一八年の農業、工業、輸送、貿易のドイツにおける動員経験を体系的に研究するよう、党員が一九二七年五月、スターリンに提案する書簡を送るといったことも起きた。だが、軍の諜報担当者、ヤン・ベルジンはこの提案を拒絶し、将来の外国との戦争に備えて秘密裡に研究するよう主張した。その結果、経済関連の諜報のための基金がつくられ、労働者・農民赤軍内に第四部として軍事経済部が設置されるに至る。ここで、「軍事経済通報」なる資料が作成されることになる。

一九二五年十二月、全ロ共産党の会議において、主要な戦略目標として国の工業化を宣言した。近代的軍備を製造できる産業を育成しなければならないとの明確な認識があったのである。赤軍参謀長、ミハイル・トハチェフスキー主導で、軍事・経済の計画化を推進した。しかし、彼は一九三七年に粛清されてしまう。この間、トハチェフスキーは一九二六年に最初の戦争計画のための草案を書き、一九二七年一月、採択されたとみられる(Samuelson, 2000, p. 21)。一九二六年一月、彼は将来の軍事衝突の予想される特徴を調査するよう委託し、一九二八年五月、「将来の戦争」という七三五ページにおよぶ報告書が作成された。

経済システムの戦争への従属
一九二七年までの段階では、国防政策の議論は国防組織と政治局、省庁間動員委員会、政府内の労働・国防評議会で行われていた。同年二月、ルィコフがトップを務めていた政治局内の国防委員会が廃止され、政治局は新たに国防委員会(その後、労働・国防評議会に従属)を創設し、原則として毎月、会議を行い、最初の五カ年計画策定時の主要な軍事上の意思決定を主導した。一九二八年からスタートさせようとしていた五カ年計画のための準備を意味している。この国防委員会の仕事は、戦時における経済全体の計画作成、国防上の必要の五カ年計画へのリンク、労働・国防評議会向けの経済動員・戦闘に関する疑問の分析、動員上の必要を請け合うための個別の部門計画の調整である。

同月、国防産業を来る戦争にどう対応させるかが議論となり、国防産業に関する最終決定の立案が同月に設立された政治局の特別の委員会に委託された。サミュエルソンによれば、「スターリンはすでにこのとき、経済システムは「不可避の」戦争に従属させなければならないとの軍の見解を採用していた」という(Samuelson, 2000, p. 39)。

政治局は一九二七年五月、軍事力と国防計画に関するトップシークレットの決定を採択した。その内容は不明だが、ソヴィエトの工業が国防向けに十分な資源を供給できずにいることを認め、それが軍事予算の増加につながったとみられている。さらに、経済最高ソヴィエト内に動員計画部が、また国家計画委員会(ゴスプラン)内に国防部門が設置された。前者は国防産業の再組織化や発展のための長期計画に従事する。後者の決定は一九二七年六月に労働・国防評議会の運営会議決定として決められたもので、トハチェフスキーが主導したものである。彼は参謀長として、参謀部が戦争計画や軍動員を準備するだけでなく、軍の動員と国の経済動員との間の連携にもかかわることを提案しており、このためにゴスプラン内に国防部門を設置、軍の要望を反映させやすくしようとしたのだ。

戦争計画の存在 (割愛)

大粛清と軍 (割愛)

 

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