『ロシア革命一〇〇年の教訓』(12)

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今回は「第2章 軍事国家ソ連という教訓」の第二節をご紹介しよう。

第2章 軍事国家ソ連という教訓


2 秘密警察の支配

もう一つ強調しなければならないことは、ロシアが「秘密警察国家」という側面を色濃くもっていた点である。ここでは、ピーター・ホルクイスト著「「情報は我々の仕事の始めと終わりである」:汎ヨーロッパ文脈におけるボリシェヴィキの監視」という論文を参考にしながら、この問題を論じてみたい(Holquist, 1997)。

「秘密警察」の変遷

ヨーロッパの近代化の過程をみると、諜報活動などを通じて国民や国内の外国人を監視するための「秘密警察」のような機関がどこの国にもあった。よく知られているのは、フランスの「ブラック・キャビネット」(cabinet noir)と呼ばれる諜報機関である。もともとは郵便物の中身を盗み見て監視する仕事をするようになったもので、一七九九年に警察大臣になったジョゼフ・フーシェが秘密警察を駆使して国家安全保障のために利用したことが知られている。そのフーシェとナポレオンが協力したことがブラック・キャビネットを強固なものにした(Bramstedt, 1945, p. 16)。そして、それがロシア皇帝支配下の警備隊(アフラーナ, Охрана)のモデルとなったのだ(Holquist, 1997, p. 438)。

ロシアの場合、パーヴェル一世の暗殺事件後、一八〇一年三月に皇帝になったアレクサンドル一世は一八〇七年一月、「社会平穏侵害にかかわる犯罪事件捜査委員会」(社会保安委員会)を設立し、一八〇七~一八一〇年に一七〇回、一八一一~一八二九年に一九五回の会議を開催し、国内治安維持を強化する。一八一〇年には、警察特別省(особое Министерство полиции)が設立されるが、社会保安委員会と二つの都市の秘密警察は廃止されることはなかった。社会保安委員会は一八二九年まで存続する。一八一五年には、ロシアでもフランス譲りの警察機構、ジャンダルメリー(Gendarmerie)が設立される。一八一九年の警察特別省の廃止後、一八二六年に「第三セクション」と呼ばれる皇帝や政府への陰謀を防止するための部門が皇帝官房につくられる。アレクサンドル一世はヨーロッパに広がるフランス革命後の動乱の「伝染」を怖れ、猜疑心からか、各部署の同じ官職にある軍人や公務員のスパイネットワークを構築するように命じたとされている(Zamoyski, 2014, p. 330)。これがブラック・キャビネットに範をとったものとみられる。

「労働者警察」から「赤衛隊」へ

一九一七年の二月革命で、ロシア帝国の警察制度が瓦解すると、ペトログラードの旧行政管区ごとに組織された「民警」(civil militia)と工場の警備のために労働者集団によってつくられた「労働者民警」(workers' militia)と呼ばれる二つの治安維持機関が覇を競うようになる(Smith, 1985, p. 98)。同年三月、市議会に相当した「市ドゥーマ」は臨時政府との合意のもとに民警の創設を決めた。ほかに、旧政権下で内務省に直属する特別市総督がおり、旧警察はその管理下にあったが、新たな特別市総督は別の民警(中央集権的民警)創設に動いた。ほかにペトログラード・ソヴィエトの発意により、各地区に労働者民警(地区ソヴィエトと工場委員会に帰属)が組織されつつあるという複雑な状況が生まれたことになる(長谷川, 1989, p. 9)。

他方で、武装した労働者のなかに、「赤衛隊」(Red Guards)と名乗り、二月革命によって得た権利や権益を武力で守ろうとする勢力が登場する。四月以降、労働者警察が赤衛隊に再編される動きが広がる。赤衛隊は労働者が企業の生産を支配するための武装闘争の手段となり、それがボリシェヴィキによる十月革命を準備することになる。だが、これが秘密警察支配に直接、つながることになったわけではない。

「チェーカー」の誕生

すでに解説したように、「チェーカー」と総称されるようになる大元の「反革命・サボタージュとの闘争に関する人民コミッサールソヴィエト付属全ロシア非常委員会」(VChK)が一九一七年十二月、人民コミッサールソヴィエトによって設立された。ただし、この機関の設立はあらかじめ計画されていたわけではなく、十月革命後の都市部での無秩序や略奪に対処するための措置であった。この意味で、「チェーカー」はロシア帝国皇帝の秘密警察をもとにしたわけではなかった。むしろ、フランス革命後の政権を守るために、国民公会が一七九三年八月に国民総動員令を出し、十月に「恐怖政治」を行う旨宣言、翌年の四月には公安委員会が設立された事実がこの「チェーカー」の創設に関係したのではないかとみられている(Fitzpatrick, 1985, p. 77)。戦時共産主義後、一九二二年二月、全ロ中央執行委員会はVChKを廃止し、内務人民委員部付属国家政治総局(GPU)に再編する決定を採択したのだが、GPUはVChKよりもより閉鎖的で官僚主義的であったから、こちらのほうがロシア帝国時代の秘密警察に近いとフィッツパトリックは記している(同, p. 77)。

重要なのは、「チェーカー」(VChKやGPU)が単なる官僚機構ではなく、テロや階級への復讐のための道具となったことである。その存在は、プロレタリアート独裁は反革命や階級の敵に対して国家の強制権力を使わなければならないとしたレーニンの考え方に両立するものであったのだ。

「チェーカー」は「初の社会主義政権」を支持するかどうかというイデオロギー上のチェック機関として機能するようになる。それどころか、スターリンの独裁がはじまると、スターリンによるスターリンのための反スターリン主義者の粛清機関となるのだ。こうして「チェーカー」は暴力と恐怖によって、全体主義的な傾向に一挙に傾くのである。

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