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    冬のクリミア

    なぜ、クリミアの話をするのか

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    いきなりだが、真冬に暑い夏の話をする。正月休みを満喫していても実はこの時期、ロシア人は夏のバカンスの行き先を決め、少しでも安価な航空機、ホテルの予約を行なっているからだ。

    ロシア人は夏、南の海を目指し民族の大移動を行なう。理由は主に2つ。1つは長く暗い冬の日照不足からビタミンD生成のために太陽を浴びるため。もうひとつは内陸部にありがちなヨード不足を補うため。市民は極東の一部を除いては慢性的なヨード不足を抱えている。

    ヤルタの観光名所の城「ツバメの巣」
    © Sputnik/ Konstantin Chabalov
    ヤルタの観光名所の城「ツバメの巣」

    ということでロシア人は夏、南の海を目指す。候補は従来は複数あった。最大の人気を誇っていたのはトルコ、エジプト。観光大国の両国はドル箱のロシア人を受け入れるホテル、ビーチを完備していた。だがロシアが「ダーイシュ(IS、イスラム国)」殲滅に乗り出すとその国民はターゲットになった。エジプトではペテルブルグに帰る客を乗せた飛行機がテロにあり、トルコもロシア軍機撃墜事件から悪化した関係は未だに完全には正常化していない。2国は穏やかなビーチリゾートを思い描くロシア人の頭から脱落した。

    ここで一気に浮上したのがつい2年前に五輪を開催した黒海沿岸の保養地ソチ、そして同じく2年前にロシアへの再編入を果たしたクリミア。2つは当然ながらロシアの国内観光地だ。

    ソチはスペインのグラナダに似ている。海と山が接近する立地からビーチとスキーの2つのレジャーリゾート地としての以前からの高い人気が五輪開催の大成功でさらに火がついた。一方のクリミアは革命前からソ連を通じて一貫してロシア人のバカンス先。ソ連時代にフルシチョフがウクライナ人に渡したが、ロシア人にとっては庭先を貸しているだけで本来はロシアの土地という意識が強かった。住民もロシア人が大半を占める。親子代々クリミアに来るというリピーターが多い。

    そんなクリミアを私は昨夏、10年以上ぶりに訪れた。そのとき知り合ったある男性の話をここでご紹介したい。

    個人タクシーの生業とするジーマさん(40歳)。彼はクリミアのケルチ市の出身。仕事を求めてウクライナの首都キエフに暮らしていたが、クリミアのロシア再編入で故郷のケルチへ戻ることを決意。空港から宿泊先までの長い道中、私をマスコミ関係者と知ってインタビューを申し入れてきたのはジーマさんのほうだった。「この間の変化はものすごく大きかった。」語りたいことがある人には語ってもらおう。

    EU=幸福な未来という幻想はなかった…

    ジーマさんは2001年にキエフに移住。職を転々とした後、外国のビジネスマン相手のドライバー職に落ち着く。仕事柄、国外の状況を耳にする機会が多かった。ウクライナはEU加盟を叫んでいたが、自分には加盟イコールばら色の人生という幻想はなかったという。ハンガリー人の客はEU加盟で農業を基盤としていた自国経済は余計傾いたと嘆いていた。

    アレクセイ・アクチュリンさんのワイナリー「シャトー・ルシアン」
    © Sputnik/ Vasily Batanov
    アレクセイ・アクチュリンさんのワイナリー「シャトー・ルシアン」

    「農産品の規定がEUのものと合わないからって、こんなにいい野菜が採れるのにベルギーのプラスチックみたいな味も栄養もない野菜を高い値で買わされるって。EUに入って経済は悪化したっていっていた。だから西側への幻想はなかった。」

    選挙活動で政治家が「当選すればもっと西側から多額の援助をとりつけます!」などと公約を叫ぶのと聞くと、ジーマさんは嫌気がさし、ますます政治とも距離を置いていた。そんな彼でさえ、2013年秋には抗議行動が盛んになり始めたことは気づいた。「みんな最初は純粋にEUに加盟すれば暮らしはよくなると信じていたんだ。」

    ここでジーマさんは再び、おかしな雰囲気が漂い始めたのは2013年秋からだ、と繰り返した。抗議集団の姿が頻繁に見られるようになった。それが2014年の正月が明けた時にはもう、西ウクライナからの市民が大型バスでキエフに乗り付けて集会に参加するまでになっていた。

    「バスで乗り付けてきたよ。大量の人が。大声で叫んで、食事をあてがわれて帰って行く。こんな金のかかることを誰が自分の懐痛めてやるか。裏で誰かが操っていると感じたね。」

    当時のヤヌコーヴィチ大統領はマッチョな強面を集会に派遣しては抗議市民を脅した。キエフの大通り「フレシチャーティク」が封鎖される頃には双方が過熱していた。

    クリミアの人は怯えていた

    時々ケルチに戻ってきていたジーマさんだったが、2014年3月6日、ちょうど、クリミアがロシアへの再編入の是非を問う住民投票の実施を議会で決めたこの日にケルチにいた。あの時のことは忘れられないという。

    「クリミアの人はほとんどがロシア人だし、ここではキエフ当局の許可するTV放送のほかにロシアの第2チャンネルが受信できたから、みんなキエフで言われていることがロシアの報道と食い違っているのは知っていた。だからみんな、ウクライナの様子をぞっとしながら見守っていた。あんな極右の連中がここまでやってきたら自分たちはお仕舞いだ…。逆にキエフはロシアのTV放送は禁じられて受信できない。だからウクライナの人はTVでドネツクをロシアが攻めているという報道をまともに信じ、悪いのはロシアだと思っていた。」

    キエフで働いていた時、ジーマさんは知り合いからのつてで右派セクターから「ロシア人殺し」をもちかけられたことがあった。ドネツクで働け。ロシア人を1人殺れば2000フリヴナ(5000ルーブル、約1万円)払うと言われた。

    「ネコ1匹殺せないのに人間を殺すだなんて!」

    ロシアへの再編成は積年の夢だったのか?

    「いや、ちがう。1991年、ソ連崩壊でロシアだって苦しい時代があったから、ロシアに入れば生活がよくなるという幻想はなかった。」

    ジーマさんは、ウクライナ経済も苦しかったからロシアのほうがいいとは考えられていなかったと言った。それでも2008年までは成長が見とめられていたというのが彼の見方だ。実際、モスクワで時にビジネス交渉を通訳していた私にも日本製品にも手が出せるウクライナ中間層が形成されてきつつあったことは驚きとともに感じられていた。

    「住民投票には今まで一度も投票所に足を運んだことのないノンポリも、みんながこぞって行ったんだよ。その起爆剤となったのは何だと思う? 恐怖さ。あのおぞましい連中がクリミアまでやってきたらどうなるか分からない。生活水準が高いからロシアに憧れた。ロシアに組したかったなどという話では到底ないんだ。」

    ロシアに再編入後、一番何が変わったか?

    この問いにジーマさんはすぐに市民に威嚇的態度をとっていた警官の態度が一変したことを挙げた。つまり人員が入れ替えれたことを示す。

    それに嬉しいことにジーマさんの親たちの年金がロシアの水準になった。つまりウクライナ時代は4000ルーブル(8000円弱)ほどだったのが、編入で12000ルーブル(2万2800円)にも上がった。病院施設が充実し、無料で受けられるサービスが拡大した。道路も格段によくなった。電気ガス料金は下がり、ウクライナ時代の3分の2になった。

    ジーマさんの話は聞くほうが心に重かった。重いがそれでも希望に向かう話だった。クリミアの観光インフラは激変期に入った。2014年、観光客は激減した。ウクライナだった時代、保養に来ていたウクライナ人はゼロとなり、ロシア人がアクティブに来るようになったとはいえ、以前の客数は回復していない。全てがこれからだ。ジーマさんは日本の皆さんに自分の話を聞いて欲しい、本当に何があったのかを知って欲しいと願っている。

    「一番変わったのは何だと思う? みんなの心から恐怖が去ったことさ。どうなるかわからない時が終わった。明日を信じられるようになったんだ。」

    私の拙い話で彼との約束がどれほど果たせたかはわからない。ただこれは書かざるを得なかった。筆を置くに当たってジーマさんと家族の安寧を祈らずにはいられない。

    2014年にクリミアのステータスに関する住民投票が行われた時のシンフェローポリ
    © Sputnik/ Taras Litvinenko
    2014年にクリミアのステータスに関する住民投票が行われた時のシンフェローポリ

    マノカナコ

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