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    『ロシア革命一〇〇年の教訓』(17)

    『ロシア革命一〇〇年の教訓』(17)

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    塩原俊彦
    筆者 塩原 俊彦
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    今回は「第3章 「ロシア無頼」という教訓」の第三節をご紹介しよう。

    第3章 「ロシア無頼」という教訓

    3 「ケノーシス」という悲哀

    ロシア無頼に着目してみると、もっと別にロシア人独特の特殊性があるのではないかという疑問がわく。そこで、ロシア人そのものについて考えることで、ロシア革命のロシアに焦点を当てた議論を展開してみたいと思う。

    すぐに思いつくのは、私淑する師、井筒俊彦著『ロシア的人間』である。同書のなかで、井筒はつぎのように記している。

    「過去数世紀にあたって、西ヨーロッパの知性的な文化人にとっては、原初的自然からの遊離は何ら自己喪失を意味しなかった。逆にそれは人間の自己確立を意味した。本源的に非合理的な自然の混沌(カオス)を一歩ずつ征服して次第に明るい光と理性の秩序(コスモス)に転じて行くこと、そこにこそ人間の本分が在るのではないか。ロシア人はそれとは違う。彼にとっては原初的自然性からの離脱は自己喪失を意味し、人間失格を意味する。ロシア人はロシアの自然、ロシアの黒土と血のつながりがある。それがなければ、もうロシア人でも何でもないのだ。西欧的文化に対するロシア人の根強い反逆はそこから来る。文化の必要をひと一倍敏感に感じ、文化を切望しながら、しかも同時にそれを憎悪しそれに反逆せずにはいられない、この態度はロシア独特のものである。こういう国では西欧的な文化やヒューマニズムは人々に幸福をもたらすことはできない」(井筒, 1978, pp. 13-14)。

    このロシア人独特の感性は、涙も凍るようなシベリアの極寒に、荒れすさぶ吹雪のただなかでも我を忘れて踊り、歌うロシア人特有の生の歓喜によってもたらされるのであり、それは「悪霊に憑かれた人の猛烈な忘我陶酔を憶わせる」と井筒はいう(同, p. 17)。ゆえに、ロシア人のこの歓喜は明るいものではなく、異様に暗い。「ロシア的人間の歓喜は大自然の生の歓喜であり、その怒りは大自然そのものの怒り、その憂鬱は大自然そのものの憂鬱なのである」ということになる。

     

    ロシアの悪習

    ロシアの悪習についても、指摘しておきたい。それは、「盗み」と「激しい嫉妬」である(Radzinsky, 1996=1996, 上, pp. 260-261)。ロシア革命後の内戦時、暴力と強奪が白軍の規律をみだし、それが赤軍勝利の遠因になったと言われている。戦利品として住人の家財道具を掠奪することは当たり前であった。それらをもって輸送せざるをえなくなるため、結果的につぎの戦闘に差し支えることにもなる。加えて、嫉妬心から、同じ立場や同じ地位にある者同士の協力が困難という事情がロシアにはあるようだ。戦時においてさえ、将軍同士が協力するためには、上からの強力な命令を必要とした。徹底した上意下達システムが構築されなければ、嫉妬心によって命令の実現が中間層の対立で難しくなってしまうのである。

     

    「ロシアでは、革命は黙示録的事件である」

    ここで「黙示録」について考えてみよう。ヨハネの黙示録は、一世紀末にローマの迫害に苦しむキリスト教徒を慰藉し励ますために書かれたものである。キリストの再臨、神の国の到来などを象徴的表現で予言している。キリスト教徒は終末に「神の国の到来」を熱望することになる。ロシア人の場合には、十字架を忘れ、神やキリストを必要としなくなっても、なにかを信じずにはいられないというかたちで別の「終末」への情熱となって発現する。だから、「ロシアでは、革命は一種の黙示録的事件である」と井筒は書く(井筒, 1978, p. 41)。どういうことかというと、「偉大な「終末」に対する燃える情熱と、不気味になまなましい幻影を抱いた黙示録的人間が、もはや神の国の到来を願わず、人間王国の到来を希求しはじめるとき、そこにロシアの革命精神が生起する」ということだ(同, p. 42)。

    ロシア革命はロシア的人間にとってすでに無意識的な宗教であり、「コミュニズムは宗教を否定するところの一つの新しい宗教である」のだ。ロシア的人間にとって大切なのは、旧い秩序の終りであると同時に新しい秩序の誕生を意味する終末への情熱、つまり黙示録的精神であり、新しい永遠の至福がキリストの再臨とともにやってくるかや、階級的差別が消滅してプロレタリア独裁がその任務を果たし終えるかではないのだ。

    ロシア的人間のいだく黙示録的精神の背後には、「ロシアこそ来るべきキリスト再臨の場所であり、ロシアは世界を救う」との、皇帝に全面協力したロシア正教会の伝統がある。ロシア革命に際しては、その世界全人類の救い(メシ)主(ア)たらんとしたメシア的使命感が共産主義への「信仰」によって、ロシアを中心軸とする人類救済のメシア主義として現れたのである。

     

    「服従による救済」=「ケノーシス」

    ここできわめて重要なのは、「服従」(隷従)によって「救済」されるという「ケノーシス」という観念である。もっとわかりやすく解説しよう。正教(Orthodoxy)では、父なる神と子なるキリストと聖霊(三位)が神をなす。聖霊は神と人間を繋ぐ媒体で、聖霊によってイエスは処女マリアの身中に宿ったとされている。その聖霊は正教では「父」から生じるとされているから、三位のうち、父、子、聖霊の位階が明確なのだが、ロシア人は人間のかたちをしたキリストに強い親近感をもつ。人間キリストへの尋常ではない服従は、皇帝や絶対的指導者たるスターリンへの隷従精神に通じるものがある(亀山・佐藤, 2008, p. 169)。これこそ、ロシア的人間のもつケノーシス気質と言えるかもしれない。

    このとき注目されるのは、ケノーシスの意味する救済が贖罪や悔い改めを媒介せずに可能だということだ(宗近, 2010, p. 206)。そう考えると、神からやってくるはずの救済が人間によって簒奪される可能性があることになる。それは、神への服従ではなく、レーニンやスターリンに隷属することで救済につながる可能性を排除しないことにもなる。

    これが意味するのは、ロシア人独特の「服従」をテコに地上に踏みとどまろうとする生き方なのである。宗近真一郎はつぎのように記述している。

    「理不尽な現実をひたすら受動することによって、突き抜けてゆく向こう側には、またもや、苛酷な現実が立ち現れる他はない。しかし、徹底的に受動的であることによって定立された世界は、日常的なアネクドート(ロシアの小話)を可能にする。革命の「法」がキリスト教を仮装したように、イロニーがジョークを仮装するのである」(宗近, 2010, p. 209)。

    このジョークがジョークたりえるのは、そのロシア革命を神とは縁遠いロシア無頼が成し遂げたことに由来している。ロシア無頼というロシアの特殊性がケノーシスというロシア的人間のもつ独特の精神によって「神」の位置にまで到達してしまったことがその後のロシアにも影響をおよぼしつづけているのだ。これは決して大袈裟な話ではない。一九二四年一月のレーニン死亡の前に、スターリンはレーニン崇拝のため、その亡骸を不朽体として保存することを党中央委員会の決定として決める。「不朽のマルクス主義者たちの神をつくり出したのである」と言えるだろう(Radzinsky, 1996=1996, 上, p. 332)。この思想を支えたのは、共産党を教会と同じようにみなす視線である。ゆえに、ラジンスキーは下記のような興味深い指摘をしている。

    「彼らの党は、教会のように、その奉仕者が誤りを犯しても、やはり神聖さは失われないのだ。なぜなら党の基礎には、教会の場合にように、党に全体として過誤を犯させない、そして罪深い一部党員たちにその神聖な本質を変えることを許さない、マルクス主義の聖典が据えられているからである」(Radzinsky, 1996=1996, 上, p. 372)。

    さらに、スターリンも「神」の地位に到達した。一九五三年三月に死んだスターリンは一九六一年までの八年間、人形のようなレーニンと並んで、レーニン廟に安置されていたのである。スターリン批判で知られるフルシチョフはスターリンをこの廟から別の墓に埋葬することに成功したが、ソ連を崩壊させたボリス・エリツィンはついにレーニン廟を取り壊すまでには至らなかった。一九九一年に、レーニンの母などが眠るサンクトペテルブルクにレーニンを埋葬する提案を同市長のアナトリー・サプチャークが提案した。だが、レーニンを神であるかのように崇める共産党の残党などの過激な反対もあり、エリツィンはこれを実現できずにいた。大統領二期目の一九九九年には、レーニンをサンクトペテルブルク埋葬の明確な計画が準備されるようになる(Zygar, 2016, p. 4)。しかし、この計画も結局のところ、頓挫してしまうのである。

    イワンの馬鹿 (割愛)

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