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    閑話休題:早大スキャンダルと「法の支配」

    閑話休題:早大スキャンダルと「法の支配」

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    塩原俊彦
    筆者 塩原 俊彦
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    安倍晋三首相は「法の支配」(rule of law)を最近、さかんに強調する。だが、今回の早稲田大学と文部科学省のスキャンダルは自分の国のなかでさえ「法の支配」を徹底できていないお粗末な実態を披歴するものだ。官僚支配の国、日本では、法をつくるのは官僚であり、法の上に官僚がいる。

    こんな真実をなぜマスメディアは放置しているのか。筆者はもう何年も前から、そこら中の大学にまったく無能な「天下り学者」がいることを知っている。文科省だけでなく、財務省や経済産業省などの省庁も、元キャリアというだけの理由で、博士号もないような輩を大学に押し込んでいる。

    学生もいい迷惑だが、それにしても早稲田大学というのはひどい。小保方に博士号を出し、天下り官僚を教授にするといった行為はもう「レッドカード」だろう。にもかかわらず、早大は「贈賄」側であるにもかかわらず謝罪すらしない。大学全体が麻痺しているという印象を受ける。「バカだ大学」という懐かしい言葉を思い出す。

    だが、問題の核心はこんなくだらぬ大学の問題ではない。より問題なのは、国家公務員幹部らが国家公務員法に違反する行為を組織的に行っていた事実だ。官僚は「法の支配」をまったく無視している。日本国民は、これが厳然たる現実であることを肝に銘じるべきだろう。

    最近のテレビや新聞の報道をみると、この問題の核心をつくような鋭い批判を見出せない。とくに、テレビは明らかにこの問題を避けている。たとえ取り上げても、天下り問題に問題が矮小化されている。こんなことでは、マスメディアへの嫌悪や反発が溜まるだけだろう。ここで筆者が指摘するような問題の核心への鋭い批判ができないでいる。本当に困った現実がある。

     

    日本の官僚支配の恐ろしさ

    拙著『官僚の世界史:腐敗の構造』や『民意と政治の断絶はなぜ起きた』(官僚支配の民主主義)において、筆者は日本の官僚支配について考察した。1300年以上もつづく日本の官僚支配を批判的に分析したのである。

    『官僚の世界史』では、つぎのように書いておいた。

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    日本の近代化後の官僚制の特徴は、「機構としての官僚制」にあると言えるかもしれない(石丸, 1994, p. 201)。身分制のもとで、家業・家産・家名が一体化した「家」(イエ)に慣れ親しんできた日本人は、明治維新後、各省に、いわばイエを見出し、その省という機構のなかで、職位ごとに職務・権限を明記した法令のないなかで「和」を重んじながら、また、個人の利害を相互に抑制し、稟議制により、個人の責任をも回避しながら、組織単位の利害を優先する官僚制を形成してきたと考えられる。それは、各省の人事、予算、法規を担う官房部門が省全体の規律性・連帯性を調整する役割の重要性を増し、官房部門の肥大化という現象につながっている。私的利害の抑制については、課長職以下の行政職員が大部屋で執務にあたる「大部屋主義」を生み、「個室執務主義」をとる欧米や中国と大きく異なっている。

    こうした理解は、「公私融合」という原理を日本の官僚制の特徴とみなす見方とも整合する(王, 1998, p. 118)。各省内部では、官房が中心となって、官僚の私的利害に配慮したルール・秩序が構築され、それは天下りという形で退官後も続く。対社会という面でも、国家利益の唯一の護持者としてふるまうことで、「私」の部分を隠蔽することに成功してきた。
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    なお、今回問題になっている人事課は官房に属している。

     

    「社会」のない国、日本

    さらに、もっと本質的な問題として、日本国民の決定的な問題点についても指摘しておいた。それがつぎに紹介する拙著の第3章第4節「「社会」のない国、日本の官僚支配」である。

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    近代化のために日本は西洋からさまざまの制度を導入した。だが本書の第4章と第5章で解説するような欧州大陸と英国や米国との違いなどについて熟知していたとは思えない。その意味では、富国強兵といった切迫した課題に対して短期的な近代化が急がれたにすぎない。その歪みが現在の日本に色濃く残存している。主権国家への疑問が無視され、主権国家を運営する者への批判が打ち消されるなかで、官僚主導の主権国家運営がともかくも日本の近代化を成功させたようにみえる。だが官僚に頼り切った官僚支配の国、日本はいま、グローバリゼーションにうまく適用できていない官僚によって、その主権国家としての政策が後手後手に回っている。

    日本の官僚支配が成功してきた背後には、日本に「社会」がないという事実がある。菊谷和宏著『「社会(コンヴィヴィアリテ)」のない国、日本』に指摘されているように、人間として「共に生きる」(con-vivialité)場としての「社会」は日本にはない。つまり、「人間と社会」が存在せず、「国民と国家」だけがある(菊谷, 2015, p. 224)。これが意味しているのは、組織・制度としての国家はたしかにあるが、その国家は人格をもたない匿名の部品たる国民から構成されているにすぎないということだ。あるいは、せいぜい「社会=国家」でしかないのである。菊谷はつぎのように指摘している(同, p. 223)。

    「現代日本人が概して礼儀正しいとすれば、それは(人間ではなく)国民としての自分しか知らないからではないのか? 国民としていわば「躾けられ」それに馴化してしまっているから、つまり社会を知らないから、だから他者に同調し整然としていられるのではないか? ……(中略)……自らが人間性を持ち自発性を持つ「個人」でありうることに気付かず、不自由な生を生きているのではないか?」

    国民を部品とみなすのは、制度と化した国家に隠れて命令を下す官僚であり、その「無人支配」が徹底できるのも「共に生きる」意志をもった人間が圧倒的に少ないからなのだ。国民は国家という道具が「知」を上から命ずるだけのことを唯々諾々と受けいれる。その道具の示す方向が合理的とみなされてしまうからだ。ゆえに、いまでも国家を隠れ蓑にして官僚主導で国民を戦争に駆り立てることが簡単にできるだろう。「道具的理性」をかさに着た官僚支配がいまもつづいているからだ。

    カントは自らに例外を設ける者を悪人と呼び、自分自身を「秘密裡に免除する傾向がある」と喝破した(Arendt, 1982→1992, p. 17)。だからこそ、官僚による無人支配という秘密裡な行為を防止するための公開性(publicity)が求められているのだ。
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    「法の上にたつ官僚」による支配はもともと、日本国民の問題である。「国の民」として躾けられ、人間性や自発性をもった「個人」があまりにも少ないことを利用して、官僚は「法の支配」をまったく無視してきたし、いまもそうなのだ。例外規定を自らに適用し、法の埒外に位置することで、事実上、法の上にたつのである。

    それを許してきた国民も反省すべきだが、政治家もマスメディアも猛省すべきだろう。官僚支配に立ち向かうだけの識見と勇気をもった人物がそもそも極端に少ない。なんの実績もない輩が大学に天下っている事実など調べればすぐにわかるではないか。勉強しないから、官僚に騙される。OECDでバカにされるばかりの無能な日本人官僚に騙されるようではまったくダメなのだ。

    古巣の朝日新聞に頑張ってほしいのだが、筆者の印象では、その朝日新聞こそもっとも「官僚化」が進んでおり、「社会の木鐸」とはほど遠い存在になってしまっている。

    筆者は官僚の無定見や無知を糾弾する『「あっ、太陽が落っこてる」:「日本沈没」の真相
    』という拙稿を手元にもっている。日本の出版社数社に出版を打診したことがあるが、みな断られた。本当のことを伝えないのである。理由は簡単だ。官僚が怖いからである。

    そのうち、この閑話休題で、この原稿を紹介する機会があるかもしれない。官僚支配からの脱却に向けて声をあげなければ、安倍のめざす「法の支配」など、できっこないのだ。

    因みに、安倍は「法の支配」を訴えることで、中国を暗に批判している。たしかに、中国には「法の支配」はなかったし、いまも弱い「法の支配」しかない。中国の場合には、皇帝の支配があり、皇帝が法の上にたっている。いまは、皇帝の代わりに中国共産党が存在し、具体的な人物として習近平が皇帝の代わりを務めているという構図になる。

    『官僚の世界史』の第2章第2節では、つぎのように書いておいた。

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    ここで、「人間-人間」関係の例として、中国の官僚制を取り上げたい。中国の場合、「易姓革命」という伝統のもとに、事実上、人間による統治が基本となっているからである。中国では王朝の正統性(legitimacy)を意味づける天命が重視され、天命を受けた天子に値する君主こそ正当な王朝と言える。この思想こそ王朝交替の革命を正当化する観念であり、易姓革命と呼ばれている。漢は秦を破って新たに王朝をはじめるに際し、その正当性を易姓革命に求めたのである。この観念には、皇帝は徳の高い人物として徳のない人々を教化するという原理がある。天子としての皇帝は「聖なる権威」と「俗なる権力」を一元的に結びつける存在となる。だが、中国の皇帝はいわば政治家にすぎず、宇宙の原理をつかさどる究極の原因とはなりえない。なぜなら皇帝は天命に従って統治する者にすぎず、あくまで人間として統治を行うからである。

    中国の「天命」というときの「天」は、超越的神、すなわち一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラーム教でいうような神を想定しているわけではない。むしろ「天」は「自然」、「ものごとの摂理」や「全体の秩序」のようなものをイメージしている。だが、このとき神は不在であり、事実上、天命を担った皇帝が統治するだけのことだ。そのとき皇帝は自らが「法の支配」を実践することになる。ゆえに中国には「法の支配」がない。法の上に皇帝がたっているからだ。現在でも中華人民共和国には憲法があるものの、それは中国共産党の支配下におかれており、皇帝はいなくても、その役割を中国共産党が担うという形で、「法の支配」が存在しない状況がつづいている。皇帝の統治が天命に従っていれば、そこには悪は存在しない。だが、社会が乱れたり、天変地異が起きたりすると、それは皇帝が天命に従って統治していない証となり、極端な逸脱は天命が変わったことの証拠とみなされることになる。中国共産党も同じ運命をたどる可能性が大いにある。

    こうした中国こそ、「人間-人間」間の関係を考察するうえで興味深い事例を提供してくれている。中国では、早くから近代的な国家に近い国家が成立した。後述するように、あらゆる人間を平等とみなし、そのうえで公開の試験(科挙)を通じて選抜し、超越的立場にある職として統治にあたらせるという制度を完成させていたからだ。
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    というわけで、「法の支配」を本当に主張したいのであれば、中国を暗に批判するだけなく、自らの官僚支配の実態を打ち砕かなければならない。日本はまず官僚支配からの脱却をまじめにはからなければならないのだ。だが、そのためには国民そのものの意識のあり方から国民教育まで、ありとあらゆる形での大変革を行わなければならない。そんな覚悟が安倍にあるとは思えないが、それほど根深い問題であることを知らなければならないとだけ指摘しておきたい。

    念のために、指摘しておきたいことがある。それは、「法の支配」を確立すればそれで十分というわけではない点である。「法の支配」は「皇帝による支配」や「官僚による支配」よりはましだが、それだけではダメだ。法を超えた倫理観がしっかりと根づかなければ、主権国家による暴走を止めることなどできないからである。

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