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    『ロシアの最新国防分析 (2016年版)』(2)

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    塩原俊彦
    筆者 塩原 俊彦
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    拙著『ロシアの最新国防分析 (2016年版)』(Kindle版)の第2回目、序章「権力の内幕」の第1節を紹介してみたい。

    序章 権力の内実

    1. プーチンの孤独

    本書は本来、国防面からロシアの現状を分析することを目的にしている。だが、そのためには、ロシアにおける権力構造について一定の知見を有していることが必要になる。そこでここでは、2016年になって孤高を深めつつあるプーチンをめぐる権力構造について解説しておきたい。

    2016年8月、盟友セルゲイ・イワノフ大統領府長官が辞意をプーチンに伝え、プーチンはこれを認めざるをえなかった。2014年11月、息子アレクサンドルがアラブ首相国連邦で溺死して以来、すっかり精神的にまいったイワノフはついに大統領府長官の要職を手放すことにしたわけである(1)。イワノフは安全保障会議のメンバーとしてとどまり、自然保護などの大統領特別代表にも任命されたが、もう毎日のようにプーチンの話し相手になり、ロシアの内政・外交に多少とも影響をおよぼすことはなくなる。これが意味しているのは、プーチンがソ連国家保安局(KGB)時代からの盟友を失ったことであり、それはプーチンの孤独に拍車をかけたことになる。

    大統領府の重要性は日本では十分に理解されていない。ロシアの「ホワイト・ハウス」と言えば、ロシア連邦政府ビルを指す。だが、政府は執行権をもつだけで、プーチン政権の実際の意思決定機関は元ソ連共産党中央委員会ビルにある大統領府なのである。ソ連時代、党中央委は最高意思決定機関であったのと同じ構図がいまのロシアでは大統領府に担われている。しかも、プーチンが2012年に大統領に再び就任して以降、大統領府の権限はますます強まっている。実は、大統領府の法的位置づけはきわめて曖昧で、それが大統領府による集権化を可能にしているのだ。憲法上、第83条の(i)項で、大統領の権限として、「大統領府を形成する」ことが規定されているだけであり、大統領府はやりたい放題なのである。

    この重要機関のトップに、44歳のアントン・ヴァイノ大統領府副長官を昇格させる人事が公表された。ヴァイノはいわば、儀典関係の仕事から這い上がった官僚であり、プーチンの話し相手になれるような人物ではない。

    興味深かったのは、この時点でヴァイノより高位にあったヴャチェスラフ・ヴォロディン第一副長官の処遇である。実は、彼はプーチンの懐刀として急成長しつつある人物であり、彼が長官ポストに就いても不思議ではなかった(2)。

    その答えは、9月18日の下院選後になって行われた人事で明かされた。これまで下院議長として一定の成果を果たしてきたセルゲイ・ナルィシュキンを対外諜報局の長官に転じさせ、ヴォロディンを議長に据えようというのだ。対外諜報局長官だったミハイル・フラトコフは国営のロシア鉄道会長(取締役会議長)に就任する。こうした人事の意味合いを正確に知るだけの資料はないが、前述のイワノフの大統領府長官辞任でプーチン周辺が大きく変化したのは間違いない(3)。それはプーチンの孤独をいっそう深めるものとなったはずである。

    実は、イワノフはかつて、ドミトリー・メドヴェージェフ現首相との間で、プーチン2期後の大統領のポストを争った。プーチンの推挙で大統領になったのはメドヴェージェフのほうだった。憲法上、3選は認められていないから、プーチン自身は首相に就任し、事実上、「院政」を敷いたと解釈されることが多い。だが、実際には、メドヴェージェフがプーチンに相談することなく、重要決定を行っていた。しかも、その結果、二人の間にはいまでも決定的な溝があり、それはいまでも癒えていない。つまり、プーチンはメドヴェージェフとも一線を画しており、孤高な状態にあると断言できる。

    二人のぎくしゃくした関係はまず、メドヴェージェフ大統領就任間もない2008年8月の「五日間戦争」と呼ばれる南オセチアの領有権をめぐるロシアとジョージア(当時、グルジア)との戦闘において、彼がプーチンに相談することなく8日、「作戦開始」を命じたところからはじまった。ジョージアのサーカシヴィリ大統領(当時)が7日夜、南オセチアの都ツヒンヴァリ侵攻を命じたことへの応戦であった。8日は北京オリンピックの開催日であったから、プーチンは北京に滞在していた。そんなことも二人の相談を難しくしたのかもしれないが、ともかくもメドヴェージェフは決してプーチンの操り人形ではなかったのである。それを決定的に示したのが、リビア空爆を認める国連決議にメドヴェージェフ大統領(当時)が賛成したことだった。首相だったプーチンは自分に外交権限がないことを承知のうえで、この政策が誤りであることをあえてテレビ画面を通じて厳しく非難した。プーチンが懸念したとおり、カダフィ大佐は空爆を機に追い詰められ、ついには2011年10月、殺害されるに至る。

    プーチンがメドヴェージェフに不信感をもったのは明らかだ。それでも、メドヴェージェフはプーチンの操り人形ではなかったから、自らの再選をめざして新党創設を画策するなど、さまざまの動きを行ったことが知られている。彼は「ロシアの近代化」をキーワードにして、欧米との協調路線をとろうとしたのだが、国家最優先の国粋主義者の露骨な反発に遭い、もはや国民からも見放されてしまう。その証拠に、彼の肩入れでつくられた新党はミハイル・プロホロフという政商(オネクシムグループを率いる)の資金をテコにつくられた「プラーヴォエ・ジェーラ」(ライト運動)にすぎない。プロホロフは大金持ちだが、2007年1月、売春婦斡旋の罪でフランス警察に逮捕された経歴をもつ人物だ。こんな人物を代表とする政党を支援してみても、国民から支持を得られないのは当然だろう。

    これに対して、プーチンは与党、「統一ロシア」があるにもかかわらず、「全ロ人民戦線」の創設を支援した。2011年の下院選の前のことだ。これは、反政府運動のリーダー的な存在であるアレクセイ・ナヴァーリヌイが統一ロシアを「詐欺師と強盗の党」と呼び、統一ロシアの人気が揺らぐなかで、労働組合員などを組織化することに成功した。これは、新党をつくって2期目をめざしたメドヴェージェフへの当てつけという面を色濃くもっていたのである。

    こうした経緯からみて、プーチンがメドヴェージェフを見限るのは時間の問題とみられている。幸か不幸か、後任はアレクセイ・クドリンが有力視されている。彼は、プーチンがモスクワで職探しをした際、自宅の食堂に折り畳みベッドを用意して親身になって就職の世話をしたことで知られている。その彼は、2011年9月、メドヴェージェフ首相誕生後の内閣では働けないとの発言をし、副首相兼財務相を辞めた。メドヴェージェフと対峙する姿勢を鮮明に示し、いったんはプーチンとの関係も冷え込んだとみられていた。しかし、2016年1月、プーチンはマスメディア幹部との秘密会合で、「クドリンと毎日のように電話で話している」と語り、二人の関係修復がなされていることが明らかになった。同年4月、彼は大統領付属経済会議副議長に任命され、公的地位も復活した。孤高を深めるプーチンにとって、クドリンが救いになるのかもしれない。

    外交上の孤立

    外交上も、プーチンが孤高を強めていることは明らかだろう。プーチンは2000年5月に就任した当初、当時の米国のジョージ・W・ブッシュ大統領とうまくやっていこうとした(最初に会ったトニー・ブレア英首相とも同じである)。彼の率直な接し方に好感をもったのである。だからこそ、2001年9月11日の同時多発テロを受けて、米国によるアルカイダ壊滅作戦を支援するためにキルギスでの米国の基地使用を一時的に認めるなどの友好的措置を率先してとったのである。だが、米国は2002年末、基地返還を露骨に渋り、恒久的利用さえ目論むようになる。この結果、プーチンは欧米諸国が簡単に約束を反故にするやり口に辟易するようになる。

    とくにプーチンの心に深く刻まれたのは、親米政権としてジョージアでのミヘイル・サーカシヴィリ大統領(2004年1月)、ウクライナでのヴィクトル・ユーシェンコ大統領(2005年1月)が誕生した事件であろう(ついでにキルギスでも2005年にアスカル・アカエフ大統領政権が打倒された)。この背後に、米国の煽動があったことは明らかであり、だからこそ2005年12月、ロシア下院は非政府組織(NGO)を改正する法案を採択し、外国からのNGOへの資金流入を厳しく取り締まることにしたわけだ。さらに、西側ジャーナリズムが勝手に「アラブの春」と呼んでいる、2010年末以降、チュニジアから始まった中東の専制政治体制の相次ぐ崩壊もまたプーチンの危機感を高めた。民主化の嵐が自分自身をも巻き飲み込みかねないことを痛切に怖れるようになるのだ。

    民主化をカネの力で無理強いする新自由主義的な手法は決して正当化できないはずだが、残念ながら民主化を促すこと自体への批判は欧米諸国ではほとんど聞かれない。そこに、プーチンの不信感が募り、欧米への対決姿勢が徐々に尖鋭化していくのである。それを決定づけたのがウクライナ危機であり、プーチンは心から激昂したに違いない。選挙で選ばれたヤヌコヴィッチを暴力で打倒しておきながら、平然とロシアだけを悪者にする姿勢はたしかに許されるものではない。クリミア併合を契機に、ロシアは2014年からG8メンバーから外される事態になり、まさに外交的に孤立する(4)。それだけでなく、米国は日欧を巻き込んで対ロ経済制裁を実施、ロシアを排除する動きが広がるのである。

    しかし、この日欧米の戦略的とは言えない近視眼的な対ロ政策はロシアの対中接近を促し、両国の民主化を遅らせるという現象につながっている。皮肉なことに、国連安保理の常任理事国2国の協力が深まれば、国連外交は頓挫し、非人道的な殺戮行為が起きてもまったく無力な状況に陥ってしまう。いまのシリアがその典型例だろう。なぜプーチンがバッシャール・アド・アサドをかばうかというと、プーチンを孤立させている欧米諸国に対する憤怒があるからであり、アサドを守ることが自分の生命を守ることにつながると信じているからだろう。

    最優先課題は国家安全保障 (割愛)

    反テロ法の推進者 (割愛)

     

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    (1) アレクサンドルは2005年5月、モスクワで68歳の老女をVWで轢き殺した過去がある。結局、刑事事件化は途中で見送られた。

    (2) ヴォロディンはサラトフ州副知事から統一ロシアを経て2010年に副首相兼政府官房長になり、2011年5月から全ロ人民戦線参謀本部長に転じ、同年12月から大統領府第一副長官に就任していた。彼は「ストラテジスト」と呼ばれる「策謀家」で、プーチンの命令で政治的戦略を練る役割を果たすようになっている。いわばウラディスラフ・スルコフに代わる存在として重宝されるようになっている(スルコフは2012年5月、プーチン大統領のもとで副首相兼政府官房長になり、2013年5月にいったん解任されながら、同年9月、南オセチアなどを担当する補佐官として復帰、その後、ウクライナ東部をめぐる問題に従事しているが、メドヴェージェフに近くなりすぎているとみられる)。

    (3) この一連の人事の解釈を困難にしているのは、ナルィシュキンの対外諜報局長官への転出である。フラトコフ長官は元首相でもあり、このポストは決して軽いものではない。それどころか、2017年にも、いまの連邦保安局と対外諜報局などを合併させてロシア国家安全保障省を創設するとの見方があり、このKGB復活を意味する新機関のトップにナルィシュキンを据える可能性がある。彼は、KGB出身の経歴をもち、こうした憶測が実現しないともかぎらない。ゆえに、今回の人事の読み解きは難しいのである。

    (4) こうした外交的孤立をもっともわかりやすく示しているのは、2014年11月にオーストラリアで開催されたG20であった。トニー・アボット首相(当時)はプーチンに対して露骨な待遇をする。昼食時に、ブラジルのジルマ・ルセフ大統領だけが離れて座っているテーブルにプーチンを座らせ、事実上、一人で昼食をとらせたのである。怒ったプーチンは「ワーキング・ブレックファースト」に出席することなく、ブリスベンを去った。

    (5) 「反革命・サボタージュとの闘争に関する人民コミッサールソヴィエト付属全ロシア非常委員会」(VChK)が1917年12月、人民コミッサールソヴィエトによって設立された。VChKはその後、国家政治総局(GPU, 1922年)、統一国家政治総局(OGPU, 1923年)、内務人民委員部(NKVD, 1934年)、国家保安人民委員部(NKGB, 1941年)、国家保安省(MGB, 1943年)、国家保安委員会(KGB, 1954年)のように変化する。これらは「チェーカー」と総称される秘密警察のような機関だ。

    (6) 2006~2014年の間、EUでは、いわゆるメタデータとしての電話をかけた者の電話番号やIPアドレスなどの情報を最低6カ月保持する規定がEU指令にあった。具体的には、EUデータ保全指令第6条により、EU加盟国は6カ月から24カ月の間、ユーザーの通信に関するデータの保存を通信事業者に義務づけなければならないとされた。しかし、2014年4月に欧州司法裁判所はこの指令を無効とし、各国の法令で規制されるようになっている(Ведомости, Aug. 22, 2016)。英国では、2014年、データ保持・調査権力法が制定され、メタデータの蓄積がプロバイダーに義務づけられた。この法律に対してはロンドン王立裁判所およびEU裁判所で係争中である。2016年以前には、ドイツのオペレーターはメタデータを6カ月、保持しなければならなかったが、2016年はじめからは、電話の電話番号や日付、時間、メッセージの中身、使用者の住所、IPアドレスなどについてのデータは10週間の保持に削減された。加えて、当局がデータを要求したり獲得したりできる事件リストも削減された。オーストリアでは、2015年10月以降、オペレーターは最近2年間のメタデータを保存しなければならなくなった。米国では、エドワード・スノーデンの2013年の暴露によって、国家安全保障機関(National Security Agency, NSA)の「プリズム・システム」がテレコミュニケーション・ネットワーク経由の情報を秘密裡に収集してきたことが明らかにされた。もちろん、これはプライバシーの侵害であり、個人の自由への侵害だ。日本では、いわゆる「電子帳簿保存法」が1998年7月に施行され、電子納税に対応する目的で、紙保存が原則であった国税関係帳簿書類を、一定の要件を満たすことにより、電磁的記録による保存を認め、第10条で、帳簿書類の保存方法として、特例ではなく、同法施行前には保存義務のなかった電子取引にかかわる電磁的記録が保存されなければならないことになった。法人事業者の保存期間は7年とされた。この規制はあくまで納税にかかわる制度だが、電子情報としてインターネット空間にあったり、スマートフォン間にあったりするものを保存させることが課題になっている。

    (7) なお、こうした各国によるデータ保存の義務づけがどうして生まれたかというと、米国政府による外国人への警戒から、外国人を監視するための情報収集が行われてきたことが関係している。自国民のデータを自国内に保存することで、外国による利用、もっとはきり言えば、米国による利用を阻止しようとする動きが生まれたのだ。たとえば、ブラジルのジルマ・ルセフ大統領は2013年ころからネット収集データ保存法の立法化を推進した。マレーシアも同種の法律を制定した。このように、米国の外国諜報監視法(FISA)の悪影響が世界中に広がっているのである。

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