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    サンクトペテルブルク地下鉄で爆発

    「本当にこの町を愛している」 ペテルブルクは強い、そして優しい

    © AFP 2017/ Olga Maltseva
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    3日、モスクワ時間午後3時前(日本時間21時前)、サイト係との最速で結ぶチャットに至急翻訳を乞う速報が走った。 「真野さん、そこにいる? サンクトペテルブルク地下鉄で爆発 負傷者が出た模様」 息を呑む間もなく、翻訳体制はすぐさま中継に切り替わる。そこから何が続いたかは皆さんはご存知だ。

    目はチャットの速報に釘付けになり、1秒も遅れまいと訳に撤する私の頭の中でシグナルが走った。(ペテルブルク、誰に連絡を…。あ、エレーナに知らせなければ!)私はすぐスマホから短くメッセージを送った。
    「レーナ!都心に行かないで。地下鉄に乗らないで! センナヤで爆発があったみたいなの。」
    エレーナは何も知らなかった。そして私たちが再び連絡をとりあえたのは恐怖の日が終わろうとしていた時刻だった。
    「言葉もない。町中が震撼した。」
    決して冷静さを失わない理知的な彼女からのメッセージは短かった。「善も悪も存在する権利を持っている。ただ時代によってそれがたち現れる形が違うだけ。そうやって人類は発展してきたのよ。」
    エレーナの勤める保険会社は事件現場の「技術大学」駅のすぐ隣にあったことを、私が知ったのはしばらくしてからだった。

    サンクトペテルブルク地下鉄での爆発
    © Sputnik/ Victoria Viatris
    サンクトペテルブルク地下鉄での爆発

    その翌日、ロシアのマスコミ紙面に踊ったのはテロの真相解明や犯人、被害者に関するニュースだけではなかった。この恐怖の最中、サンクトペテルブルクの市民がどう反応し、行動したかを伝える多くの記事に私は大きく揺さぶられた。
    その晩、エレーナがFacebookにある女性が投稿したポストを転送してくれた。これは一女性の身に起こった話だ。そしてこんな話がこの日、ぺテルブルクのいたるところで起きていた。
    「 すべてがとても身近に感じられた。とても脆く、壊れやすいとも。
    私のセンナヤ(事件現場の駅の名前)には息子の学校がある。私のテフノロジカ(事件現場の「技術大学駅」のこと)には息子のチェスのクラブがある。月曜は6時間授業で助かった。
     
    一日中、泣きはらした。幼稚園に息子を迎えに行こうと車に乗ったとたん、嗚咽が止まらない。緊張で、恐怖で、胸に重いものが閊えて。悲しくて。
    その瞬間、ガラス窓を叩く音。家族連れがバギーを押して私の顔を覗き込んでいる。
    『どうしたの? 電話が通じない人がいるの? 落ち着くまで走り出してはだめよ。ハンカチ、それにチョコレート。とてもおいしいよ。食べてください、まだあるから。大丈夫、絶対大丈夫ですよ。』
    うなじに鳥肌がたった。こんな人たちがいる。そして暮らしは続いていくのだ。

     サンクトペテルブルク地下鉄での爆発後、若者がスパッスカヤ駅の入り口の前で犠牲者を悼みロウソクに火を灯して祈っている
    © Sputnik/ Anatoly Medved
    サンクトペテルブルク地下鉄での爆発後、若者がスパッスカヤ駅の入り口の前で犠牲者を悼みロウソクに火を灯して祈っている

    私はミーハ(幼い息子の名前)を乗せ、郵便本局前駅でアリーナを拾った。彼女はヤンデックス・ナビゲーション(ロシア語インターネットのナビ情報。非常時に支援のメッセージを送る場として活躍した)で「車に乗せます」という私のオファーを見つけて連絡してきたのだ。
    アリーナはミーハにりんごを差し出し、ミーハはお返しに12日の幼稚園の出し物で自分が暗誦する詩を披露した。
    『ミーシャ、あんたのママは本当に優しいね。大きくなったらママのようになるんだよ。』
    アリーナ、何をあなたは…。そしてまた鳥肌がたった。
     
    ナ ビゲーションではどこもかしこも、コメンダ、プロスヴェト、ディベンコ、フセヴォロジスク、クプチノと、どんな果てまでも人が人を運んでいた。水、食べ 物、バギーを提供する人。人を気遣う、血の通った人間が回りにいた。無料のタクシー。そんなボランティアにガソリンが無償で提供されていた。モスクワ大通 りでは車に乗った青年が歩行者に水とバナナを配っていた。
     
    驚くべき町だ。驚くべき人たちだ。夕方までにはSNSにたくさんのメッセージが現れた。『移動手段のない人はお越しください。ペトログラツカヤ駅のそばに住んでいます。一緒にお茶を飲んで、猫を撫でましょう。』猫を撫でましょう! これに勝る癒しはない。
     
    そしてまた鳥肌がたった。この災いに遭遇した皆さんに果てしない哀悼を捧げます。」
     
    「カナコ、これは感動的な一体感だった。ひとつの災いが人を束ねた。テロが起きたのは一箇所だった。にもかかわらず、その災いに町全体が参加したの。」
    そしてエレーナはメッセージの最後をこう結んだ。
    「私は本当にこの町を愛している。」

    人間の力では抗うことのできない震災、台風を知っておられる日本のみなさんはこれがわかってくださるに違いない。非常時には一瞬のうちに判断を迫られる。人として行動するか、否か。生き方の最たるものが問われる。
    ペテルブルクは第2次大戦でナチスによる封鎖という人体実験を経験している。飢えと寒さという極限状態に長期間さらされた人たちは果たして略奪に走っただろうか? あの芯の強さは只者ではない。ペテルブルクは死の淵に立たされ、それに飲み込まれず生き抜いたのだ。
    「何も私たちを壊すことはできない。」(テロの日、現場に手向けられた花と蝋燭の間に置かれたメッセージ。)
    その記憶は戦後70年を経た今でも決して風化されることはない。そしてこんな挑戦を受けるたびに雄雄しく、再び立ち上がろうとする。
    亡くなられた方々のご家族をただ抱きしめたい。そして怪我を負われた方々の恐怖と痛みがいつの日か強さに変わることを祈りたい。ペテルブルク、私はあなたが誇らしい。

    群馬のY.S.さん、茨城のN.T.さん、東京のM.H.さんなど日本の読者、リスナーの皆さんから哀悼のメッセージを多数いただきました。皆さんを再び身近に感じる幸せを味わいました。末筆ながらここにご温情に深く感謝いたします。

    マノカナコ

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