15:10 2020年02月17日
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日本人の集団移住はこれまでに三回行われた。そして、ほぼすべての移民先で日本人街を形成することに成功している。リトルトーキョーやリトルオーサカ、リトルヨコハマなどである。Forbesがその中から、訪問すべき8つの日本人街を選んだ。スプートニクはForbesのチョイスにコメントを付して、読者の皆さまにお伝えする。

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リトルオーサカ(サンフランシスコ、米国)
© 写真 : Public domain
リトルオーサカ(サンフランシスコ、米国)

リトルオーサカ(サンフランシスコ、米国)

所在地:The Western Addition、Fillmore StreetとLaguna Streetに挟まれた6区画

サンフランシスコの日本人街は米国最古のものである。市内西部に日本人街が形成されたのは1906年の地震の後、日本人が市内西部に集団で住むようになった時のことである。日本人街は大きく成長し、真珠湾攻撃まで繁栄を続けた。真珠湾攻撃の惨劇の後、まず集団略奪が始まり、後に日系人の強制収容所での集団抑留が行われた。第二次世界大戦後、抑留者の全員がサンフランシスコに戻ったわけではないが、それでも時間が恨みの跡を消し去り、日本人街は復活した。

リベルダーデ(サンパウロ、ブラジル)
© 写真 : Public domain
リベルダーデ(サンパウロ、ブラジル)

リベルダーデ(サンパウロ、ブラジル)

所在地Subprefeitura da Sé, Liberdade

リベルダーデ(ポルトガル語で「自由」の意)は、本国以外では最大の日本人コミュニティが暮らす場所となり、現在の人口は6万人を超えている。この地区に最初の日本人移民が現れたのは1910年代のことであるが、リベルダーデへの集団移入が始まったのは第二次世界大戦後のことである。日本の退役軍人の多くにとって敗戦国での生活は苦しく辛いものであり、そうした人たちが新しい生活を始めるために家族を引き連れてブラジルに移住したのである。この地区は建物の建築が有名であり、その大部分は2008年の皇太子(徳仁親王)のサンパウロ公式訪問に向けて修復された。

日本人街(デュッセルドルフ、ドイツ)
日本人街(デュッセルドルフ、ドイツ)

日本人街(デュッセルドルフ、ドイツ)

所在地:Immermannstrasse付近の地区

デュッセルドルフの日本人街は、米国の日本人街とは毛色が違う。それに、ここでは日本人コミュニティそのものが違っている。1970~80年代頃、日本企業の多くはこの町に本部を置くようになった。そのため、デュッセルドルフの街中で(特にインマーマン通りで)数多く見かける日本人は、こうした企業の社員かその家族であり、駐在員である。

リトルヨコハマ(バンクーバー、カナダ)
リトルヨコハマ(バンクーバー、カナダ)

リトルヨコハマ(バンクーバー、カナダ)

所在地:Powell Streetおよび Alberni Street付近の地区

リトルヨコハマと名付けられたバンクーバーの日本人街は、北米最古の日本人街のひとつである。ここに最初の日本人移民が住み始めたのは1890年代のことである。しかし、カリフォルニアの日本人街とは違い、バンクーバーのでは第二次世界大戦後の復興により多くの時間と労力を要した。米国と同じく、カナダの日本人もまた1942年初頭に抑留され、その権利が回復されたのはわずかに1947年になってからのことである。

コロニア・ウルキサ(ラプラタ、アルゼンチン)
コロニア・ウルキサ(ラプラタ、アルゼンチン)

コロニア・ウルキサ(ラプラタ、アルゼンチン)

所在地:Colonia urquiza, La Plata

コロニア・ウルキサはこの国最大の日本人街である。現在、300世帯がこの地区に暮らしている。彼らは1960年にアルゼンチン国家農業委員会に招待され、農業振興のためにラプラタにやってきた。日本人はこの地の景観を物理的にも、また文化的にも一変させた。エキゾチックな植物を栽培する温室が出現し、農場のほか、小さな日本風の公園さえも誕生した。移住者は学校、日本食レストラン、トレーニングセンターを建設し、しばらくすると、毎年8月に日本の伝統歌曲のフェスティバルを行うようになった。

リトルトーキョー(ロサンゼルス、米国)
© AFP 2019 / Frederic J. Brown
リトルトーキョー(ロサンゼルス、米国)

リトルトーキョー(ロサンゼルス、米国)

所在地:リトルトーキョーは西をLos Angeles Streeに、東をAlameda Streeに、南を3rd Streetに、西をFirst Streetに囲まれた地区、およびFirst Streetの北側、Alameda Streetの西側に位置している。

リトルトーキョーはサンフランシスコの日本人街と似たような運命を辿った。この街もまた1900年代初頭に誕生し、第二次世界大戦中の日本人抑留によって空洞化した後、戦後復興を遂げ、米国のみならず、世界でも有数の美しい日本人街となった。1995年、リトルトーキョーは米国で国の歴史記念物に登録された。区内には日米日系人博物館、デヴィッド・ファン劇場、火の見櫓、庭園、モニュメントなど数多くの名所がある。日本食レストランも日本人街の名所である:有名なカリフォルニアロールは料理人の真下一郎によってこの地区で考案されたものである。

パコ地区の日本人街(マニラ、フィリピン)
パコ地区の日本人街(マニラ、フィリピン)

パコ地区の日本人街(マニラ、フィリピン)

所在地:パコ地区は南がパシッグ川、北がサンミゲル地区に挟まれた場所にある

パコ地区の日本人街は日本国外で最古の日本人街である。この街の歴史はきわめて特殊だ。最初の日本人移民がフィリピンにやってきたのは16世紀末のことである:それは祖国での迫害から逃れてきたキリシタンであった。彼らは17世紀初めにはすでに居留地を形成し、19世紀から20世紀にかけては、日本からのさらなる移民の波を受け入れた。日本人街は感染症の蔓延にも戦争にも耐え、今や日本人街のないマニラの町など想像もつかない。最大の名所であり、フィリピンの日本人コミュニティの象徴にもなっているが、最初の移民の指導者で、武士でカトリック司祭であった高山右近の像である。

ブロックMのリトル東京(ジャカルタ、インドネシア)
© CC BY 2.0 / Christian R
ブロックMのリトル東京(ジャカルタ、インドネシア)

ブロックMのリトル東京(ジャカルタ、インドネシア)

所在地: Blok M, South Jakarta

ジャカルタの日本人コミュニティが形づくられるようになったのは、ジャカルタがバタヴィアと呼ばれ、国全体がオランダの支配下にあった時代のことである。第二次世界大戦後、インドネシアが独立を果たしたとき、かつての日本人捕虜の多くは国内に残る決断をした。彼らはブロックMのリトル東京に居を構えた。まもなくして、そこに一時移住者、すなわち日本企業の職員である駐在員が加わった。日本人街が最も繁栄したのは1980年代末から1990年代初めにかけてのことである。しかし、1998年5月には全国で暴動が発生し、リトル東京にもその影響が及んだ上、極めつけには、かの有名なアジア危機が襲った。これらの出来事はジャカルタの日本人街にも影響を及ぼさないわけにはいかなかったが、日本人街は生き続け、数多くの観光客を惹きつけている。

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