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    ロンドン地主、セックスと交換で住居提供

    ロンドン地主、セックスと交換で住居提供

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    ロンドンとロンドン近郊の不動産の持ち主が、賃料を性的サービスによって支払うことを提案している。そのような提案がネットに掲載された。

    英国にはネット上のセックスサービス広告が禁止されていないが、この持ち主は、不動産賃貸と購入部門でこれを掲載した。サイト「Дом.Lenta.ru. 」が報じた。

    サイト「 Craigslist 」では女性が少なくとも週1回は不動産の持ち主と親密な関係になるという条件付きの「可愛い女性のための無料賃貸」や「ロンドン中心に女性のための無料部屋」といった提案が見つけられる。

    ロンドンでの部屋や一軒家の平均賃料は1晩166ドルだ。

    先に伝えられたところ、スウェーデン人は異星人のためにコンドームを宇宙に打ち上げるようNASAに求めた。

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      豊岳正彦
      破廉恥なり。

      家と国家は同じものである。

      仏教聖典p217
      (なかま第二章生活の指針第一節家庭のしあわせ第三項)

       父母の大恩は、どのように努めても報いきれない。例えば百年の間、右の肩に父をのせ、左の肩に母をのせて歩いても、報いることはできない。

       また、百年の間、日夜に香水で、父母の体を洗いさすり、あらゆる孝養を尽くしても、または父母を王者の位に昇らせるほどに、努め励んで、父母をして栄華を得させても、なおこの大恩に報いきることはできない。

       しかし、もし父母を導いて仏の教えを信じさせ、誤った道を捨てて正しい道にかえらせ、貪りを捨てて施しを喜ぶようにすることができれば、はじめてその大恩に報いることができるのである。あるいはむしろ、それ以上であるとさえいえよう。

       父母を喜び敬うものの家は、仏や神の宿る家である。

      __________

      これは武士道の鑑『民の父母』上杉鷹山公が孫娘で藩主の妻になった参姫へ手紙で書き送った大和女性武士道の心得と同じです。
      hidenori1212.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-96c3.html#comment-103644482
      「上杉鷹山に学ぶ」鈴村進著(三笠書房)から著者による現代語訳文を一部転載します。



      「人は三つのことによって、成育するものである。父母によって生まれ、師によって教えられ、君によって養われるのである。これはすべて深い恩なのだが、その中で最も深く尊いのは父母の恩である。これは山よりも高く、海よりも深いものであって、これに報いることはとてもできないが、せめてその万分の一だけでもと、心の及ぶだけ、力の届くだけを尽くし、努めることを孝行という。
       その仕方にはいろいろあるが、結局は、この身が天地の間に生まれたのは父母の高恩であり、この身は父母の遺体であることを常に忘れず、真実より父母をいとおしみ、大切にする心に少しの偽りもないことが、その根本である。ここに誠実さがあれば実際に多少の手違いがあっても、心が届かぬということはないものである。このことは、自分は徳がないからとても行き届きません、と遠慮すべきではない。その気になって、できる限りのことを十分に努めるべきである。そうしておれば、やがては徳も進み、相手に心が達するものである。あらん限りの力をもって尽くされたい。

      __________________________



      さらに空手と上杉鷹山公のご縁の深さを示すホームページも紹介致します。



      ◎上杉鷹山公
      山形県にある日本古来古武術空手道場和道流「崇武館(そうぶかん)」館長飛鳥宗一郎老師がHP内ワンポイントレッスンで日本古来忘己利他菩薩武士道の鑑碩徳上杉鷹山公について修身の奥義に触れてその真髄を説き明かしてくださっています。
      1.15歳襲封のとき
      『受けつぎて 国のつかさ(司)の身となれば 忘るまじきは民の父母』
      homepage2.nifty.com/sohbukan_karatedo/lesson/lesson2013/lesson201301.pdf

      2.35歳隠退のとき「人君の心得三箇条」(伝国の辞)
      一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物には無之候。
      一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物には無之候。
      一、国家人民の為に立たる君にして、君の為に立たる国家人民には無之候。
      右三箇条遺念有間敷候事
      homepage2.nifty.com/sohbukan_karatedo/lesson/lesson2013/lesson201302.pdf

      大和魂大和民族常民にとって飛鳥老師のワンポイントレッスンは上杉鷹山公のページばかりでなくすべてのページが必読と思います。
      homepage2.nifty.com/sohbukan_karatedo
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      豊岳正彦
      国家は地球と同じであり、地球は宇宙と同じである。

      我々は宇宙生物である。

      故に、宇宙は家と同じである。

      家は母なる大地と父なる天の大慈悲でこどもを育むところである。

      故に宇宙は仏の大慈悲ですべての生命を育むところである。



      *無常(むじょう)anitya・・・・・p325用語解説

      あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態に止(とど)まっていないことをいう。仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。生成発展も無常の一面だからである。



      仏教聖典p21

       四、(法華経第五、薬草喩品から)

       親はどれほど多くの子供があっても、そのかわいさに変わりがないが、その中に病める子があれば、親の心はとりわけその子にひかれてゆく。

       仏の大悲もまた、すべての人びとに平等に向かうけれども、ことに罪の重い者、愚かさゆえに悩める者に慈(いつく)しみと悲(あわれ)みとをかける。

       また、例えば、太陽が東の空に昇って、闇を滅ぼし、すべてのものを育てるように、仏は人びとの間に出て、悪を滅ぼし、善を育て、智慧の光を恵んで、無知の闇を除き、さとりに至らせる。

       仏は慈しみの父であり、悲(あわれ)みの母である。

      仏は、世間の人びとに対する慈悲の心から、ひたすら人びとのために尽くす。

      人びとは仏の慈悲なくしては救われない。

      人びとはみな仏の子として仏の救いの手段を受けなければならない。


      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


      仏教聖典_おしえ_第四章 煩悩_第三節、現実の人生

      三、パーリ、増支部三-六二

       世に母も子を救い得ず、子も母を救い得ない三つの場合がある。

      すなわち、大火災と大水害と、大盗難のときである。

      しかし、この三つの場合においても、ときとしては、母と子が互いに助け合う機会がある。

       ところがここに、母は子を絶対に救い得ず、子も母を絶対に救い得ない三つの場合がある。

      それは、老いの恐れと、病の恐れと、死の恐れとの襲い来たったときのことである。

       母の老いゆくのを、子はどのようにしてこれに代わることができるであろうか。

      子の病む姿のいじらしさに泣いても、母はどうして代わって病むことができよう。

      子どもの死、母の死、いかに母子であっても、どうしても代わりあうことはできない。

      いかに深く愛しあっている母子でも、こういう場合には絶対に助けあうことはできないのである。



      五、パーリ、長老尼偈註

       裕福な家の若い嫁であったキサゴータミーは、そのひとり子の男の子が、幼くして死んだので、気が狂い、冷たい骸(むくろ)を抱いて巷(ちまた)に出、子どもの病を治す者はいないかと尋ね回った。

       この狂った女をどうすることもできず、町の人びとはただ哀れげに見送るだけであったが、釈尊の信者がこれを見かねて、その女に祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の釈尊のもとに行くようにすすめた。

      彼女は早速、釈尊のもとへ子どもを抱いて行った。

       釈尊は静かにその様子を見て、「女よ、この子の病を治すには、芥子(けし)の実がいる。町に出て四・五粒もらってくるがよい。しかし、その芥子の実は、まだ一度も死者の出ない家からもらってこなければならない。」と言われた。

       狂った母は、町に出て芥子の実を求めた。

      芥子の実は得やすかったけれども、死人の出ない家は、どこにも求めることができなかった。

      ついに求める芥子の実を得ることができず、仏のもとにもどった。

      かの女は釈尊の静かな姿に接し、初めて釈尊のことばの意味をさとり、夢から覚めたように気がつき、わが子の冷たい骸を墓所(ぼしょ)におき、釈尊のもとに帰ってきて弟子となった。




      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


      「無我(むが)」


      仏教聖典_はげみ_第一章さとりへの道_第三項仏のたとえ

      十、雑宝蔵経

       ひとりの人が旅をして、ある夜、ただひとりでさびしい空き屋に宿をとった。

      すると真夜中になって、一匹の鬼が人の死骸をかついで入ってきて、床の上にそれを降ろした。

       間もなく、後からもう一匹の鬼が追って来て、「これはわたしのものだ。」と言い出したので、激しい争いが起こった。

       すると、前の鬼が言うには、「こうして、おまえと争っていても果てしがない。証人を立てて所有をきめよう。」

       後の鬼もこの申し出を承知したので、前の鬼は、先ほどからすみに隠れて小さくなって震えていた男を引き出して、どちらが先にかついで来たかを言ってくれと頼んだ。

       男はもう絶体絶命である。

      どちらの鬼に味方しても、もう一方の鬼に恨まれて殺されることはきまっているから、決心して正直に自分の見ていたとおりを話した。

       案の定、一方の鬼は大いに怒ってその男の手をもぎ取った。

      これを見た前の鬼は、すぐ死骸の手を取って来て補った。

      後の鬼はますます怒ってさらに手を抜き足を取り、胴を取り去り、とうとう頭まで取ってしまった。

      前の鬼は次々に、死体の手、足、胴、頭を取って、みなこれを補ってしまった。

       こうして二匹の鬼は争いをやめ、あたりに散らばった手足を食べて満腹し、口をぬぐって立ち去った。

       男はさびしい小屋で恐ろしい目にあい、親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、いまや自分の手も足も胴も頭も、見も知らぬ死体のものである。

      一体、自分は自分なのか自分ではないのか、まったくわからなくなった男は、夜明けに、気が狂って空き屋を立ち去ったが、途中で寺を見つけて喜び勇み、その寺に入って、昨夜の恐ろしいできごとをすべて話し、教えを請うたのである。

      人びとは、この話の中に、無我(むが)の理(ことわり)を感得し、まことに尊い感じを得た。

      ______________
      仏教聖典用語解説

      *無我(anartman)*****
       仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえらるべき実体はない」ということである。
      それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我”(アートマン)を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけがない”と説いたのは当然である。
      なお”我”は他宗教で言う霊魂にあたるといえる。

      ______________




      仏教聖典_なかま_第二章、生活の指針_第二節、女性の生き方・・・p221~

       一、パーリ、増支部四-一九七

       世の中には四通りの婦人がある。

      第一種の婦人は、ささいなことにも腹立ちやすく、気まぐれで、欲深く、他人の幸福を見てはそねみ、施すことを知らない。

       第二種の婦人は、腹立ちやすく、気まぐれで、欲深いが、他人の幸福をうらやみねたむことがなく、また施すことを知っている。

       第三種の婦人は、心広く、みだりに腹を立てない。
      また、気まぐれでもなく、欲を抑えることを知ってはいるが、しかし、他人をうらやみねたむ心が取れず、また施すことを知らない。

       第四種の婦人は、心広く、腹を立てることがなく、欲を抑えて落ち着きがあり、そして他人をうらやまず、また施すことを知っている。


       二、パーリ、増支部五-三三

       娘が嫁入るときには、次の心がけを忘れてはならない。

       夫の両親に敬い仕えなければならない。

      夫の両親は、わたしども二人の利益を計り、なさけ深く守ってくださる方であるから、感謝して仕え、いつでもお役に立つようでありたい。

       夫の師は夫に尊い教えを授けてくださるから、自分もまた大切に尊び敬ってゆこう。

      人として心の師を持たずに生きられないからである。

       夫の仕事に理解をもってそれを助けてゆくように、自分も教養に心がけよう。

      夫の仕事を他人の仕事のように考えてそれに無責任であってはならない。

       夫の家の使用人や出入りの人たちについても、よくその気立てや能力や食べ物の好みなどを心得て、親切に面倒を見てゆこう。

      また夫の収入は大切にたくわえ、決して自分のために無駄遣いしないように心がけよう。




      ___________________


      仏教聖典用語解説


      *無我(anartman)*****
       仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえらるべき実体はない」ということである。
      それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我”(アートマン)を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけがない”と説いたのは当然である。
      なお”我”は他宗教で言う霊魂にあたるといえる。


      *法(達磨・dharma)*****
       さとれるものである”仏陀”によって説かれた”真実の教え”ということで、その具体的な内容は、三蔵とよばれる、経(仏の説かれた教え)・律(仏の定めた日常規則)・論(経と律に対する解釈や註釈)の三種の聖典である。
      これは、覚者である”仏陀”、仏教徒の集まりである”僧伽”と共に、仏教の基本的なよりどころである三宝をなしている。


      *無常(むじょう)anitya *****
       あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態に止(とど)まっていないことをいう。
      仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。
      あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。
      これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。
      生成発展も無常の一面だからである。


      *仏(仏陀・Buddha) *****
       梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。
      普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。
      仏教の目的は、各人がみなこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が分かれている。
       大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、種々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。
      例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦如来といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
       なお日本では、死者のことを”ほとけ”とよぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”に成るという信仰に由来する。


      *煩悩(klesa)*****
       悟りの実現を妨げる人間の精神作用のすべてを指していう。
      人間の生存に直結する多くの欲望は身体や心を悩まし、かき乱し、煩わせる。
      その根元は我欲・我執であり、生命力そのものに根ざしているともいえる。
      貪り、瞋り、愚かさがその根本であり、派生して多くの煩悩が数えられる。
      これらは悟りの実現に障害となるから、修道の過程で滅ぼさなければならないとする。
      しかし生命力に直結しているものを否定できないとして、悟りへの跳躍台として肯定する思想もある。


      *涅槃(nirvana)*****
       梵語の”吹き消す”という意味の、ニルバーナという単語の音写で、”滅”・”滅度”・”寂滅”などと訳される。
      丁度ローソクの火を吹き消すように、欲望の火を吹き消したものが到達する境地で、これに到達することを”入涅槃”といい、達したものを”仏陀”とよぶ。
      釈迦牟尼仏が亡くなった瞬間を入涅槃ということもあるが、肉体が滅びたtきに完全に煩悩の火が消える、という考え方からで、普通は、三五歳で仏になったときに”涅槃”の状態に達したと考えられている。


      *仏性(buddhata・buddhatva)*****

       ”仏になる種子”と言ったもので、あらゆる存在にこれを認めるところに仏教の特徴がある。”覚りに達する潜在力・可能性”といってもよい。また“仏心”といってもよいが、”一切衆生悉有仏性”という句にも表れているように、すべての存在に、差別しないでこの仏性を認めたところに、仏教の平等説の立場が見られる。この内在する仏性を外に現わしたものを”仏ほとけ”と呼ぶ。


      /////////////////////////////////////

      *慈悲(maitri・karuna)*****
       仏教におけるもっとも基本的な倫理項目で、”慈”とは相手に楽しみを与えること、”悲”とは相手から苦しみを抜き去ることである。これを体得して、対象を差別せずに慈悲をかけるものが”覚者かくしゃ”すなわち仏(ほとけ)であり、それを象徴的に表現したものが、観音(かんのん)・地蔵(じぞう)の両菩薩である。やさしくいうと、慈悲とは、”相手と共に喜び、共に悲しんであげる”ということになる。



      *中道(madhyama pratipad)*****
       偏見を離れた中正の道をいう。仏教の立場を指していう。したがって仏教のそれぞれの流れでは、中道の思想は尊重され、高揚されてきた。中間の道という意味ではなく、とらわれを離れ、公平に現実を撤見する立場を形容していうわけだが、その内容は両極端を否定し、(ありのままを)止揚する思想として表われてくる。例えば有・無の両極端、断・常の二見を否定する立場となる。一種の弁証法哲学といえないこともない。



      *智慧(般若はんにゃprajna)*****
       普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に備えたものが”仏陀”である。単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、これを得てさとりの境地に達するための実践を、”般若波羅密はんにゃはらみつ”という。

      *仏(仏陀・Buddha) *****
       梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀ぶっだ”で、その省略が”仏ぶつ”であり、”ほとけ”とも読ませる。
      普通”覚者かくじゃ”・”正覚者しょうがくしゃ”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。
      仏教の目的は、各人がみなこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が分かれている。
       大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、種々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。
      例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦如来といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
       なお日本では、死者のことを”ほとけ”とよぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”に成るという信仰に由来する。

      *波羅密(paramita)*****
       パーラミターという梵語の漢音写で、”度”とか、”到彼岸とうひがん”と訳される。此(こ)の迷いの岸である現実の世界から彼(か)のさとりの岸である仏の世界へと渡してくれる実践行のことで、普通”六波羅蜜ろっぱらみつ”といって、六種類があげられる。六とは、布施(ほどこし)・持戒(どうとく)・忍辱(がまん)・精進(どりょく)・禅定(せいしんとういつ)・智慧(ただしいはんだん)のことで、日本では、春秋の”彼岸”とよばれる行事は、これらを実践するということから名づけられたのである。
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      豊岳正彦
      仏教聖典(第237版本)

      おしえ  

      第二章 人の心とありのままの姿

       第一節 変わりゆくものには実体がない

       一、パーリ、律蔵大品一-六

       身も心も、因縁*によってできているものであるから、この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから、無常*なものである。

       もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。

       王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、自分の思うとおりにすることができる。それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとしてわが身については思うようになるものはない。

       それと同じく、この心にもまた実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。

       もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その通りにできるはずであるのに、心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。


       二、パーリ、相応部五六-一一

       この身は永遠に変わらないものなのか、それとも無常であるのかと問うならば、誰も無常であると答えるに違いない。

       無常なものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、生まれた者はだれでもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、だれでも、苦しみであると答えるに違いない。

       このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体である、わがものである、と思うのは間違っている。

       心もまた、そのように、無常であり、苦しみであり、実体ではない。

       だから、この自分を組み立てている身と心や、それをとりまくものは、我(が)とかわがものとかという観念を離れたものである。

       智慧*のない心が、我である、わがものであると執着するにすぎない。

       身もそれをとりまくものも、縁によって生じたものであるから、変わりに変わって、しばらくもとどまることがない。

       流れる水のように、また燈火(ともしび)のようにうつり変わっている。また、心の騒ぎ動くこと猿のように、しばらくの間も、静かにとどまることがない。

       智慧あるものは、このように見、このように聞いて、身と心に対する執着を去らなければならない。心身ともに執着を離れたとき、さとりが得られる。


       三、パーリ、増支部五-四九・四-一八五・三-一三四

       この世において、どんな人にもなしとげられないことが五つある。一つには、老いゆく身でありながら、老いないということ。二つには、病む身でありながら、病まないということ。三つには、死すべき身でありながら、死なないということ。四つには、滅ぶべきものでありながら、滅びないということ。五つには、尽きるべきものでありながら、尽きないということである。

       世の常の人びとは、この避け難いことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は、避け難いことを避け難いと知るから、このような愚かな悩みをいだくことはない。

       また、この世に四つの真実がある。第一に、すべて生きとし生けるものはみな無明*から生まれること。第二に、すべて欲望の対象となるものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第三に、すべて存在するものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第四に、我(が)も、わがものもない*ということである。

       すべてのものは、みな無常であって、うつり変わるものであること、どのようなものにも我がないということは、仏*がこの世に出現するとしないとにかかわらず、いつも定まっているまことの道理である。

      仏はこれを知り、このことをさとって、人びとを教え導く。


      ****用語解説*****

      *因縁(hetu-pratyaya)___
       因と縁とのことである。因とは結果を生じさせる直接的原因、縁とはそれを助ける外的条件である。あらゆるものは因縁によって生滅するので、このことを因縁所生などという。この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされている。世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したものであるから、注意を要する。なお縁起*という場合も同様である。

      *縁起(pratityasamutpada)___
       因縁生起の略である。あらゆる存在が互いに関係し合って生起することである。仏教の教えの基本となる思想である。あらゆる存在のもちつもたれつの関係を認めるから、「おかげさまで」という感謝となり、報恩という奉仕も生まれてくる。この縁起思想は、さらに哲学的な展開を遂げ、煩瑣な組織をもつに至る。転じて寺院や仏像の由来や伝説を指したり、吉凶をかつぐのに用いられるようになったりするが、因縁*同様本来の意味を忘れて逸脱していることに注意を要する。

      *無常(anitya)___
       あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態には止まっていないことをいう。仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。生成発展も無常の一面だからである。

      *智慧(般若prajna)___
       普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、
      正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に具えたものが”仏陀”である。
      単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、
      これを得てさとりの境地に達するための実践を”般若波羅密”という。

      *無我(anatman)___
       仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえられるべき実体はない」ということである。それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我(が:atman)”を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけはない”と説いたのは当然である。なお”我”は他宗教でいう霊魂にあたるといえる。

      *無明(avidya)____
       正しい智恵のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。その心理作用が愚痴であるという。
      学派によって分析、解釈はさまざまであるが、いずれも根源的な、煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものと把えられている。
      したがって、例えばあらゆる存在の因果を十二段階に説明する十二因縁説では、最初に無明があると設定しているくらいである。
      生存の欲望の盲目的な意志と把えてもよいであろう。

      *仏(佛陀 Buddha)____
       梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。仏教の目的は、各人がこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が別れている。
       大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、様々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦牟尼仏といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
       なお日本では、死者のことを”ほとけ”と呼ぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”になるという信仰に由来する。
       
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      豊岳正彦
      第二節 心の構造

       一、迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。
       
       人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。

       絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。仏の作る世界は、煩悩を離れて清らかであり、人の作る世界は煩悩によって汚れている。

       心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。心のように仏もそうであり、仏のように人びともそうである。だから、すべてのものを描き出すということにおいて、心と仏と人びとと、この三つのものに区別はない。

       すべてのものは、心から起こると、仏は正しく知っている。だから、このように知る人は、真実の仏を見ることになる。


       二、ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れている。なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着とがあるからである。

       この貪りの心から迷いの世界が生まれ、迷いの世界のさまざまな因縁も、要約すれば、みな心そのものの中にある。

       生も死も、ただ心から起こるのであるから、迷いの生死(しょうじ)にかかわる心が滅びると、迷いの生死は尽きる。

       迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので迷いの世界となる。心を離れて迷いの世界がないと知れば、汚れを離れてさとりを得るであろう。

       このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現れる。


       三、すべてのものは、みな心を先とし、心を主(あるじ)とし、心から成っている。汚れた心でものを言い、また身で行なうと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。

       しかし、もし善い心でものを言い、または身で行なうと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。悪い行ないをする人は、この世では、悪いことをしたと苦しみ、後の世では、その悪い報いを受けてますます苦しむ。善い行ないをする人は、この世において、善いことをしたと楽しみ、後の世では、その報いを受けてますます楽しむ。(第966版本「悪い行いをする人は、その悪の報いを受けて苦しみ、善い行いをする人は、その善の報いを受けて楽しむ。」)

       この心が濁ると、その道は平らでなくなり、そのために倒れなければならない。また、心が清らかであるならば、その道は平らになり、安らかになる。 

       身と心の清らかさを楽しむものは、悪魔の網を破って仏の大地を歩むものである。心の静かな人は安らかさを得て、ますます努めて夜も昼も心を修めるであろう。


       第四章 煩悩

       第一節 心のけがれ

       一、仏性(ぶっしょう)を覆いつつむ煩悩に二種類ある。

       一つは知性の煩悩である。二つには感情の煩悩である(一つは道理に迷う理性の煩悩である。二つには実際に当たって迷う感情の煩悩である)。

       この二つの煩悩は、あらゆる煩悩の根本的な分類であるが、このあらゆる煩悩の根本となるものを求めれば、一つには無明(むみょう)、二つには愛欲となる(この二つの煩悩は、無明と愛欲となる)。

       この無明と愛欲とは、あらゆる煩悩を生み出す自在の力を持っている。そして、この二つこそ、すべての煩悩の源なのである。

       無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、また転じて、死を願うような欲望ともなる。

       この無明と愛欲とをもとにして、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさ、邪見(じゃけん)、恨み、嫉(ねた)み、へつらい、たぶらかし、おごり、あなどり、ふまじめ、その他いろいろの煩悩が生まれてくる。


       二、貪りの起きるのは、気に入ったものを見て、正しくない考えを持つためである。瞋りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。愚かさはその無知のために、なさなければならないことと、なしてはならないこととを知らないことである。邪見は正しくない教えを受けて、正しくない考えを持つことから起きる。

       この貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさは、世の三つの火といわれる。貪りの火は、欲にふけって、真実心を失った人を焼き、瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害(そこ)なう人を焼き、愚かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。

       まことにこの世はさまざまの火に焼かれている。貪りの火、瞋りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、さまざまな火によって炎々と燃えあがっている。これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身(しん)・口(く)・意(い)の三つの悪い行為に導くことになる。しかも、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪道に陥(おと)し入れる。


       三、貪(むさぼ)りは満足を得たい気持ちから、瞋(いか)りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる。貪りは罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易でなく、瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。愚かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。

       したがって、人びとは気に入ったものの姿を見聞きしては正しく思い、気に入らないものの姿を見ては慈しみの心を養い、常に正しく考えて、この三つの火を消さなければならない。もしも、人びとが正しく、清く、無私の心に満ちているならば、煩悩によって惑わされることはない。


       四、貪り、瞋り、愚かさは熱のようなものである。どんな人でも、この熱の一つでも持てば、いかに美しい広びろとした部屋に身を横たえても、その熱にうなされて、寝苦しい思いをしなければならない。

       この三つの煩悩のない人は、寒い冬の夜、木の葉を敷物とした薄い寝床でも、快く眠ることができ、むし暑い夏の夜、閉じこめられた狭苦しい部屋でも、安らかに眠ることができる。

       この三つは、この世の悲しみと苦しみのもとである。この悲しみと苦しみのもとを絶つものは、戒めと心の統一と智慧である。戒めは貪りの汚れを取り去り、正しい心の統一は瞋りの汚れを取り去り、智慧は愚かさの汚れを取り去る。


       五、人間の欲にははてしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きが止まらないのに似ている。彼はいつまでたっても満足することがなく、渇きはますます強くなるばかりである。

       人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。

       人は欲を決して満足させることができない。そこには求めて得られない苦しみがあり、満足できないときには、気も狂うばかりとなる。

       人は欲のために争い、欲のために戦う。王と王、臣と臣、親と子、兄と弟、姉と妹、友人同士、互いにこの欲のために狂わされて相争い、互いに殺し合う。

       また人は欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺し、姦淫する。ときには捕らえられて、さまざまな刑を受け、苦しみ悩む。

       また、欲のために身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、死んで後の世には、暗黒の世界に入ってさまざまな苦しみを受ける。


      六、愛欲は煩悩の王、さまざまの煩悩がこれにつき従う。

       愛欲は煩悩の芽をふく湿地、さまざまな煩悩を生じる。愛欲は善を食う鬼女、あらゆる善を滅ぼす。

       愛欲は花に隠れ住む毒蛇、欲の花を貪るものに毒を刺して殺す。愛欲は木を枯らすつる草、人の心に巻きつき、人の心の中の善のしるを吸い尽くす。愛欲は悪魔の投げた餌(え)、人はこれにつられて悪魔の道に沈む。

       飢えた犬に血を塗った乾いた骨を与えると、犬はその骨にしゃぶりつき、ただ疲れと悩みを得るだけである。愛欲が人の心を養わないのは、まったくこれと同じである。

       一切れの肉を争って獣は互いに傷つく。たいまつを持って風に向かう愚かな人は、ついにおのれ自身を焼く。この獣のように、また、この愚かな人のように、人は欲のためにおのれの身を傷つけ、その身を焼く。


       七、外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。貪りと瞋りと愚かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。

       心に貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさがあるときは、口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。

       意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。

       知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。
       
       人の貪(むさぼ)りも、愛欲も恐れも瞋(いか)りも、愚かさからくるし、人の不幸も難儀も、また愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。
       

       八、人は煩悩によって業(ごう)を起こし、業によって苦しみを招く。煩悩と業と苦しみの三つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。

       この車輪の回転には始まりもなければ終わりもない。しかも、人はこの輪廻(りんね)から逃れるすべを知らない。永遠に回帰する輪廻に従って、人はこの現在の生から、次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。

       限りない輪廻の間に、ひとりの人が焼き捨てた骨を積み重ねるならば、山よりも高くなり、また、その間に飲んだ母の乳を集めるならば、海の水よりも多くなるであろう。

       だから、人には仏性があるとはいえ、煩悩の泥があまりに深いため、その芽生えは容易でない。芽生えない仏性はあってもあるとはいわれないので人びとの迷いははてしない。
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      豊岳正彦
      第四節  迷いのすがた

       一、この世の人びとは、人情が薄く、親しみ愛することを知らない。しかも、つまらないことを争いあい、激しい悪と苦しみの中にあって、それぞれの仕事を勤めて、ようやく、その日を過ごしている。

       身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。

       富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命まで失うようになる。しかも死への道はひとりで歩み、だれもつき従う者はない。

       貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れ果ててしまう。このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。

       すべての世界が敵対するかのように見え、死出の旅路は、ただひとりだけで、はるか遠くに行かなければならない。


       二、また、この世には五つの悪がある。

       一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺き、互いに傷つけあい、いがみあっている。

       二つには、親子、強大、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。

       三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。

       四つには、互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。

       五つには、すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。


       三、人は互いに敬愛し、施しあわなければならないのに、わずかな利害のために互いに憎み争うことだけをしている。しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、時の経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。

       この世の争いは、互いに害(そこな)いあっても、すぐに破滅に至ることはないけれども、毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、生をかえ、死をかえて、互いに傷つけあうようになる。

       人はこの愛欲の世界に、ひとり生まれ、ひとり死ぬ。未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、おのれひとりでそれに当たらねばならない。

       善と悪とはそれぞれその報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらし、動かすことのできない道理によって定まっている。しかも、それぞれが、おのれの業を担い、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。


       四、恩愛のきずなにつながれては憂いに閉ざされ、長い月日を経ても、いたましい思いを解くことができない。それとともに、激しい貪りにおぼれては、悪意に包まれ、でたらめに事を起こし、他人と争い、真実の道に親しむことができず、寿命も尽きないうちに、死に追いやられ、永劫に苦しまなければならない。

       このような人の仕業は、自然の道に逆らい、天地の道理にそむいているので、必ず災いを招くようになり、この世でも、後の世でも、ともに苦しみを重ねなければならない。

       まことに、世俗のことはあわただしく過ぎ去ってゆき、頼りとすべきものは何一つなく、力になるものも何一つない。この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りといわなければならない。


       五、このような有様が、まことにこの世の姿であり、人びとは苦しみの中に生まれてただ悪だけを行ない、善を行なうことを少しも知らない。だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。

       ただおのれにのみ何でも厚くして、他人に恵むことを知らない。そのうえ、欲に迫られてあらゆる煩悩を働かせ、そのために苦しみ、またその結果によって苦しむ。

       栄華の時勢は長続きせず、たちまちに過ぎ去る。この世の快楽も何一つ永続するものはない。
       

       六、だから、人は世俗のことを捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わねばならない。道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。

       ところが人びとは、善い行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。また、人が死んでまた生まれるということを知らず、施せば幸いを得るということを信じない。すべて善悪にかかわるすべてのことを信じない。

       ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、ただ眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。

       どんなものでも永久に変わらないものはないのであるから、すべてうつり変わる。ただ、これについて苦しみ悲しむことだけを知っていて、教えを聞くことがなく、心に深く思うことがなく、ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪って飽きることを知らない。


       七、人びとが、遠い昔から迷いの世界を経めぐり、憂いと苦しみに沈んでいたことは、言葉では言い尽くすことができない。しかも、今日に至っても、なお迷いは絶えることがない。ところが、いま、仏の教えに会い、仏の名を聞いて信ずることができたのは、まことにうれしいことである。

       だから、よく思いを重ね、悪を遠ざけ、善を選び、努め行なわなければならない。

       いま、幸いにも仏の教えに会うことができたのであるから、どんな人も仏の教えを信じて、仏の国に生まれることを願わなければならない。仏の教えを知った以上は、人は他人に従って煩悩や罪悪のとりこになってはならない。また、仏の教えをおのれだけのものとすることなく、それを実践し、それを他人に教えなければならない。
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      豊岳正彦
      はげみ

      第1章 さとりへの道 

       第一節 心を清める

       一、人には、迷いと苦しみのもとである煩悩がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。

       第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。

       見方を誤るから、我(が)という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。

       第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。

       第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためにあると考える。この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。

       第四には何ごとも耐え忍ぶことである。暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗(そし)りを受けても耐え忍ぶことによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。

       第五には、危険から遠ざかることである。賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。


       二、世には五つの欲がある。

       眼に見るもの、耳に聞く声、鼻にかぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感じ、この五つのものをここちよく好ましく感ずることである。

       多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕えられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩を起こし、苦しみを生む。だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。


       三、その方法は一つではない。例えば、蛇と鰐(わに)と鳥と犬と狐と猿と、その習性を別にする六種の生きものを捕えて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。

       このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその住みかに帰ろうとする。蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空に、犬は村に、狐は野に、猿は森に。このために互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられてゆく。

       ちょうどこのたとえのように、人びとは目に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意(こころ)に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。

       またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。はじめの間は、生きものたちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。

       これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。もし心が制御されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。


       四、人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。それはちょうど香が薫りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。いたずらに名声を求め、名誉を貪って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。

       名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃(やいば)に塗られた蜜をなめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。

       愛欲を貪り求めて満足を知らない者は、たいまつをかかげて風に逆らいゆくようなものである。手を焼き、身を焼くのは当然である。

       貪りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。自分の心をほしいままにしてはならない。心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。


       五、さとりを得ようと思うものは、欲の火を去らなければならない。干し草を背に負う者が野火を見て避けるように、さとりの道を求める者は、必ずこの欲の火から遠ざからなければならない。 
                                           
       美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。心が主であるから、よこしまな心を断てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。

       道を求めて進んでゆくことは苦しい。しかし、道を求める心のないことは、さらに苦しい。この世に生まれ、老い、病んで、死ぬ。その苦しみには限りがない。

       道を求めてゆくことは、牛が重荷を負って深い泥の中を行くときに、疲れてもわき目もふらずに進み、泥を離れてはじめて一息つくのと同じでなければならない。欲の泥はさらに深いが、心を正しくして道を求めてゆけば、泥を離れて苦しみはうせるであろう。


        六、道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って教えの光を身に加えなければならない。どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。

       身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。

       宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧は静かな清い心から生まれる。広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。

       貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、よい生活と幸福とを得る人である。


       七、人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。貪(むさぼ)りを思えば貪りの心が起こる。瞋(いか)りを思えば瞋りの心が強くなる。損なうことを思えば損なう心が多くなる。

       牛飼いは、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じこめる。これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、また殺されたりすることを防ぐのである。

       人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じこめ、悪い思いを破り捨てなければならない。貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋(いか)らず、損なわない心を育てなければならない。

       牛飼いは、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。

       人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。


       八、釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢(たくはつ)しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。

       そのときアーナンダは釈尊にこう言った。「世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います」「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか」「世尊よ、また他の町へ移ります」

       「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ。仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう」
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      豊岳正彦
      平和へ、、, さん

      個人の気持ちはフェイスブックのほうをみればよいのでは無いでしょうか。

      コメント欄はスプートニクさんの情報収集手段であるので、身分と出典を明らかにして情報提供しています。また、個人の気持ち表明であっても投書欄の文章は10行程度の文章ではとても納まらないでしょう。

      スプートニクも、短文の気持ち、はフェイスブックで募集していると思います。
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      豊岳正彦
       第二節 善い行ない


       一、道を求めるものは、常に身と口と意の三つの行ないを清めることを心がけなければならない。身の行ないを清めるとは、生きものを殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲を犯さないことである。口の行ないを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。意の行ないを清めるとは、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、よこしまな見方をしないことである。

       心が濁れば行ないが汚れ、行ないが汚れると、苦しみを避けることができない。だから、心を清め、行ないを慎しむことが道のかなめである。


       二、昔、ある金持ちの未亡人がいた。親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。その家にひとりの女中がいて、これも利口でよく働く女であった。

       あるとき、その女中がこう考えた。「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう」

       そこで、女中は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。

       「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません」とことばを返すと、主人は怒った。

       女中はさらに次の日も遅く起きた。主人は怒り、棒で打った。このことが知れわたり、未亡人はそれまでのよい評判を失った。


       三、だれでもこの女主人と同じである。環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜で、静かであることができる。しかし、環境が心に逆らってきても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのである。

       自分にとって面白くないことばが耳に入ってくるとき、相手が明らかに自分に敵意を見せて迫ってくるとき、衣食住が容易に得られないとき、このようなときにも、なお静かな心と善い行ないとを持ち続けることができるであろうか。

       だから、環境がすべて心にかなうときだけ、静かな心を持ちよい行ないをしても、それはまことによい人とはいえない。仏の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、よい人といえるのである。


       四、すべてことばには、時にかなったことばとかなわないことば、事実にかなったことばとかなわないことば、柔らかなことばと粗いことば、有益なことばと有害なことば、慈しみあることばと憎しみのあることば、この五対がある。

       この五対のいずれによって話しかけられても、

       「わたしの心は変わらない。粗いことばはわたしの口から漏れない。同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起こさないように」と努めなければならない。

       たとえばここに人がおり、鋤と鍬を持って、この大地の土をなくそうと、土を掘ってはまき散らし、土よなくなれと言ったとしても、土をなくすことはできない。このようにすべてのことばをなくしてしまうことはのぞみ得ない。

       だから、どんなことばで語られても、心を鍛えて慈しみの心をもって満たし、心の変わらないようにしておかなければならない。

       また、絵の具によって、空に絵を描こうとしても、物の姿を現わすことはできないように、また、枯草のたいまつによって、大きな河の水を乾かそうとしてもできないように、また、よくなめした柔らかな皮を摩擦して、ざらざらした音を立てようとしてもできないように、どんなことばで話しかけられても、決して心の変わらないように、心を養わなければならない。

       人は、心を大地のように広く、大空のように限りなく、大河のように深く、なめした皮のように柔らかに養わなければならない。

       たとえ、かたきに捕らえられて、苦しめられるようなことがあっても、そのために心を暗くするのは、真に仏の教えを守った者とはいえない。どんな場合に当たっても、
       
       「私の心は動かない。憎しみ怒ることばは、わたしの口を漏れない。同情と哀れみのある慈しみの心をもって、その人を包むように。」と学ばなければならない。


       五、ある人が、「夜は煙って、昼は燃える蟻塚。」を見つけた。
      ある賢者にそのことを語ると、「では、剣をとって深く掘り進め。」と命ぜられ、言われるままに、その蟻塚を掘ってみた。

       はじめにかんぬきが出、次は水泡、次には刺叉(さすまた)、それから箱、亀、牛殺しの刀、一片の肉が次々と出、最後に龍が出た。

       賢者にそのことを語ると、「それらのものをみな捨てよ。ただ龍のみをそのままにしておけ。龍を妨げるな。」と教えた。

       これはたとえである。ここに「蟻塚」というのはこの体のことである。「夜は煙って」というのは、昼間したことを夜になっていろいろ考え、喜んだり、悔やんだりすることをいう。「昼は燃える」というのは、夜考えたことを、昼になってから体や口で実行することをいう。

       「ある人」というのは道を求める人のこと、「賢者」とは仏のことである。「剣」とは清らかな智慧のこと、「深く掘り進む」とは努力のことである。

       「かんぬき」とは無明のこと、「水泡」とは怒りと悩み、「刺叉」とはためらいと不安、「箱」とは貪り・瞋り・怠り・浮わつき・悔い・惑いのこと、「亀」とは身と心のこと、「牛殺しの刀」とは五欲のこと、「一片の肉」とは楽しみを貪り求める欲のことである。これらは、いずれもこの身の毒となるものであるから、「みな捨てよ」というのである。

       最後の「龍」とは、煩悩の尽きた心のことである。わが身の足下を掘り進んでゆけば、ついにはこの龍を見ることになる。

       掘り進んでこの龍を見いだすことを、「龍のみをそのままにしておけ、龍を妨げるな。」というのである。


       六、釈尊の弟子ピンドーラは、さとりを得て後、故郷の恩に報いるために、コーサンビーの町に帰り、努力して仏の種をまく田地(でんち)の用意をしようとした。コーサンビーの郊外に、小公園があり、椰子の並木は果てもなく続き、ガンジスの洋々たる河波は、涼しい風を絶え間なく送っていた。

       夏のある日、昼の暑い日盛りを避けて、ピンドーラは、並木の木陰の涼しいところで座禅していた。ちょうどこの日、城主のウダヤナ王も、妃たちを連れて公園に入り、管弦の遊びに疲れて、涼しい木陰にしばしの眠りにおちいった。

       妃たちは、王の眠っている間、あちらこちらとさまよい歩き、ふと、木陰に端座するピンドーラを見た。彼女らはその姿に心うたれ、道を求める心を起こし、説法することを求めた。そして、彼の教えに耳を傾けた。

       目を覚ました王は、妃たちのいないのに不審をいだき、後を追って、木陰で妃たちにとりまかれているひとりの出家を見た。淫楽に荒んだ王は、前後の見境もなく、心中にむらむらと嫉妬の炎を燃やし、「わが女たちを近づけて雑談にふけるとはふらちな奴だ。」と悪口を浴びせた。ピンドーラは眼を閉じ、黙然として、一語も発しない。

       怒り狂った王は、剣を抜いて、ピンドーラの頭につきつけたが、彼はひとことも語らず、岩のように動かない。

       いよいよ怒った王は、蟻塚をこわして、無数の赤蟻を彼の体のまわりにまき散らしたが、それでもピンドーラは、端然と坐ったままそれに耐えていた。

       ここに至って、王ははじめて自分の狂暴を恥じ、その罪をわびて許しを請うた。これから仏の教えがこの王家に入り、その国に広まるいとぐちが開けた。




       七、その後、幾日か過ぎて、ウダヤナ王はピンドーラをその住む森に訪ね、その不審をただした。

       「大徳よ、仏の弟子たちは、若い身でありながら、どうして欲におぼれず、清らかにその身を保つことができるのであろうか。」

       「大王よ、仏はわたしたちに向かって、婦人に対する考えを教えられた。年上の婦人を母と見よ。中ほどの婦人を妹と見よ。若い婦人を娘と見よと。この教えによって、弟子たちは若い身でありながら、欲におぼれず、その身を清らかに保っている。」

       「大徳よ、しかし、人は、母ほどの人にも、妹ほどの人にも、娘ほどの人にもみだらな心を起こすものである。仏の弟子たちはどのようにして欲を抑えることができるのであろうか。」

       「大王よ、世尊は、人の体がいろいろの汚れ、血・うみ・汗・脂など、さまざまの汚れに満ちていることを観(み)よと教えられた。このように見ることによって、われわれ若い者でも、心を清らかに保つことができるのである。」

       「大徳よ、体を鍛え、心を練り、智慧をみがいた仏弟子たちには容易であるかも知れない。しかし、いかに仏の弟子でも、未熟の人には、容易なことではないであろう。汚れたものを見ようとしても、いつしか清らかな姿に心ひかれ、醜さを見ようとしても、いつしか美しい形に魅せられてゆく。仏弟子が美しい行いを保つには、もっと他に理由があるのではあるまいか。」

       「大王よ、仏は五官の戸口を守れと教えられる。目によって色・形を見、耳によって声を聞き、鼻によって香りをかぎ、舌によって味を味わい、体によって物に触れるとき、そのよい姿に心を奪われず、またよくない姿に心をいらだたせず、よく五官の戸口を守れと教えられる。この教えによって、若い者でも、心身を清らかに保つことができるのである。」

       「大徳よ、仏の仰せは、まことにすばらしい。わたしの経験によってもそのとおりである。五官の戸締まりをしないで、ものに向かえば、すぐに卑しい心にとらわれる。五官の戸口を守ることは、わたしどもの行いを清らかにするうえに、まことに大切なことである。」


       八、人が心に思うところを動作に表すとき、常にそこには反作用が起こる。人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。人はこの反作用に用心しなくてはならない。それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。それは風に向かってちりを掃くようなものである。それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。


       九、せまい心を捨てて、広く他に施すことは、まことによいことである。それとともに、志を守り、道を敬うことは、さらによいことである。

       人は利己的な心を捨てて、他人を助ける努力をすべきである。他人が施すのを見れば、その人はさらに別の人を幸せにし、幸福はそこから生まれる。

       一つのたいまつから何千人の人が火を取っても、そのたいまつはもとのとおりであるように、幸福はいくら分け与えても、減るということはない。

       道を修める者は、その一歩一歩を慎まなければならない。
      志がどんなに高くても、それは一歩一歩到達されなければならない。道は、その日その日の生活の中にあることを忘れてはならない。


       十、この世の中に、さとりへの道を始めるに当たって成し難いことが二十ある。

         一、貧しくて、施すことは難く、

         二、慢心にして道を学ぶことは難く、

         三、命を捨てて道を求めることは難く、

         四、仏の在世に生を受けることは難く、

         五、仏の教えを聞くことは難く、

         六、色欲を耐え忍び、諸欲を離れることは難く、

         七、よいものを見て求めないことは難く、

         八、権勢を持ちながら、勢いをもって人に臨まないことは難く、

         九、辱められて怒らないことは難く、

         十、事が起きても無心であることは難く、

        十一、広く学び深く究めることは難く、

        十二、初心の人を軽んじないことは難く、

        十三、慢心を除くことは難く、

        十四、よい友を得ることは難く、

        十五、道を学んでさとりに入ることは難く、

        十六、外界の環境に動かされないことは難く、

        十七、相手の能力を知って、教えを説くことは難く、

        十八、心をいつも平らかに保つことは難く、

        十九、是非をあげつらわないことは難く、

        二十、よい手段を学び知ることは難い。


       十一、悪人と善人の特質はそれぞれ違っている。悪人の特質は、罪を知らず、それをやめようとせず、罪を知らされるのをいやがる。善人の特質は、善悪を知り、悪であることを知ればすぐやめ、悪を知らせてくれる人に感謝する。

       このように、善人と悪人とは違っている。

       愚かな人とは自分に示された他人の親切に感謝できない人である。

       一方賢い人とは常に感謝の気持ちを持ち、直接自分に親切にしてくれた人だけではなく、すべての人に対して思いやりの心を持つことによって、感謝の気持ちを表そうとする人である。

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      豊岳正彦
      仏教聖典p85

      おしえ第四章煩悩第一節心の穢れ第七項( パーリ、本事經二四)


       外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。

       心に貪りと瞋りと愚かさがあるときは、口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。

       意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。

       知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。

       人の貪りも、愛欲も恐れも瞋りも、愚かさからくるし、人の難儀も不幸も、また愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。

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      仏教聖典 はげみ 第二章実践の道 第二節 さまざまな道 A6文庫本p177~

      十二、(パーリ、本事經三九、四〇)

       おのれに恥じず、他にも恥じないのは、世の中を破り、おのれを恥じ、他にも恥じるのは、世の中を守る。慚愧(ざんぎ)の心があればこそ、父母・師・目上の人を敬う心も起こり、兄弟姉妹の秩序も保たれる。まことに、自ら省みて、わが身を恥じ、人の有様を見ておのれに恥じるのは、尊いことといわなければならない。

       懺悔(さんげ)の心が起これば、もはや罪は罪でなくなるが、懺悔の心がないならば、罪は永久に罪として、その人をとがめる。

       正しい教えを聞いて、いくたびもその味わいを思い、これを修め習うことによって、教えが身につく。思うこと修めることがなければ、耳に聞いても身につけることはできない。

       信と慚(ざん)と愧(ぎ)と努力と智慧(ちえ)とは、この世の大きな力である。
      このうち、智慧の力が主であって、他の四つは、これに結びつく従の力である。

       道を修めるのに、雑事にとらわれ、雑談にふけり、眠りを貪るのは、退歩する原因である。

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      仏教聖典おしえ第一章因縁第三節第三項 (華厳経)

       この世の中には、三つの誤った見方がある。

      もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。

       一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。

      二つには、ある人は、それはすべて神の御業(みわざ)であるという。

      三つには、またあるひとは、すべて因も縁もないものであるという。

       もしも、すべてが運命によって定まっているならば、この世においては、善いことをするのも、悪いことをするのも、みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、運命のほかには何ものも存在しないことになる。

       したがって、人びとに、これはしなければならない、これはしてはならないという希望も努力もなくなり、世の中の進歩も改良もないことになる。

       次に、神の御業であるという説も、最後の因も縁もないとする説も、同じ非難が浴びせられ、悪を離れ、善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。

       だから、この三つの見方はみな誤っている。

      どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。

      (A6文庫本p45)
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