2008.11. 5 , 14:30

「ロシアの声」開局79年に寄せて

 10月29日、国際放送「ロシアの声」は開局79年を迎えています。当時のモスクワ放送がドイツ語での放送を開始したのは、1929年10月29日のことでした。最初のドイツ語放送に続き、その後、モスクワ放送では、英語、フランス語、そしてその他の言語による放送がスタートしていきました。そして、現在「ガヴァリット・マスクヴァ!」という言葉とともに始まる番組は、世界160の国々に向けて放送されています。  外国語放送開始当初は、政府首脳らの発言が中心に放送されました。アナウンサーたちは新聞の社説やタス通信の声明を読み、ソ連市民の生活についての情報を伝えました。当時の外国語放送には、ソ連のことを世界に紹介するというだけでなく、西側にソ連の技術的発展のレベルを知らしめるという課題が据えられていたのです。  第二次世界大戦は外国語放送にとって大きな試練となりました。1940年、モスクワ放送は、すでに13の言葉で、ドイツの占領下にあった地域にも放送を行っていました。当然のことながら、このモスクワからの放送はナチス・ドイツのプロパガンダを邪魔するものでした。そこでヒトラーは対抗勢力に力を与えるモスクワ放送を阻止するよう求めました。しかしモスクワ放送は放送を続け、そして人々はこれを聞き続けました。放送では戦況が大きく伝えられ、またナチス・ドイツに占領された地域で、ファシズムに反対する動きが高まってきたことなどが報道されました。  レオニード・シガンさんは1943年にポーランド語課でアナウンサーとして働きはじめ、現在はポーランド語課の課長を務めています。シガン課長は当時を振り返って、次のように話しています― 「第二次世界大戦時に、外国語放送の仕事を始めるようになったのは運命でしょう。それは赤軍がナチス・ドイツを相手に、前線で決定的な勝利を収めていた時期でした。当時、ソ連軍の功績を伝えるような番組を作っていたアナウンサーや記者、翻訳者たちが感じていた気持ちを言葉にすることはできません。それは国にとっても、そして私たちひとりひとりにとっても非常に苦しい時期でした。しかしそれでも私たちは自分たちの使命が高邁なものであると信じていました。そした待ち焦がれた勝利がやってきたとき、私たちはそこにわずかながらも自分たちの貢献があったことに誇りを感じたのです。」  さて、戦後、ソ連の外国語放送は急激に発展していきます。放送言語は毎年増え続け、1980年の末になるとその数は66に達しました。 「モスクワ放送」は冷戦という政治的対立の中で放送を行いました。そこで、いわゆる「鉄のカーテン」の向こうの国で起こっている出来事に対する外国人リスナーの関心は非常に大きなものでした。記者や特派員たちは、自身の番組、レポート、インタビュー、コメントの中で、ロシアの生活について語りました。そして、彼らの高いプロフェショナリズムのおかげで、数百万のリスナーが、貴重な情報源としてのモスクワ放送に耳を傾けるようになったのです。  多くの記者たちは外国語放送に生涯をささげています。1949年から現在に至るまで放送局に勤務している政治評論家のアナトーリー・ポタポフさんは外国語放送について次のように話しています― 「外国語放送という仕事は、西側諸国にロシアの政策をよりよく理解してもらうため非常に重要な意味を持っています。私は最初、特派員として働き、その後、評論員となり、この部署を率いるようになりました。その後、フランスにも派遣され、アメリカが率先して進めていた軍拡に反対するデモについての番組を放送したこともあります。現在はロシア系の外国のリスナー向けに、ロシア語で、国際問題をテーマにした記事を書いています。ミュンヘンやパリ、ワルシャワに住むリスナーから電話をもらうこともあります。私たちの放送を聴き、ロシアで起こっている出来事を理解しようとしてくれていることをとても快く思います。」  21世紀になり、世界の地政学的状況は変化しています。ロシアもまた以前とは違う、民主国家となりました。しかし外国人のロシアに対する関心が消えることはありません。以前と同じように、ロシアの人々がどのように暮らし、ロシアでどんなことが起こり、世界のさまざまな出来事についてロシアがどう考えているのかに、人々は関心を持ち続けています。現在「ロシアの声」は38の言語で、世界160カ国に向け、400を超える番組を放送しています。リスナーの総数は 1 億900万人にのぼっています。また現在、「ロシアの声」はインターネットでも放送を行っています。

 10月29日、国際放送「ロシアの声」は開局79年を迎えています。当時のモスクワ放送がドイツ語での放送を開始したのは、1929年10月29日のことでした。最初のドイツ語放送に続き、その後、モスクワ放送では、英語、フランス語、そしてその他の言語による放送がスタートしていきました。そして、現在「ガヴァリット・マスクヴァ!」という言葉とともに始まる番組は、世界160の国々に向けて放送されています。

 外国語放送開始当初は、政府首脳らの発言が中心に放送されました。アナウンサーたちは新聞の社説やタス通信の声明を読み、ソ連市民の生活についての情報を伝えました。当時の外国語放送には、ソ連のことを世界に紹介するというだけでなく、西側にソ連の技術的発展のレベルを知らしめるという課題が据えられていたのです。
 第二次世界大戦は外国語放送にとって大きな試練となりました。1940年、モスクワ放送は、すでに13の言葉で、ドイツの占領下にあった地域にも放送を行っていました。当然のことながら、このモスクワからの放送はナチス・ドイツのプロパガンダを邪魔するものでした。そこでヒトラーは対抗勢力に力を与えるモスクワ放送を阻止するよう求めました。しかしモスクワ放送は放送を続け、そして人々はこれを聞き続けました。放送では戦況が大きく伝えられ、またナチス・ドイツに占領された地域で、ファシズムに反対する動きが高まってきたことなどが報道されました。
 レオニード・シガンさんは1943年にポーランド語課でアナウンサーとして働きはじめ、現在はポーランド語課の課長を務めています。シガン課長は当時を振り返って、次のように話しています―
「第二次世界大戦時に、外国語放送の仕事を始めるようになったのは運命でしょう。それは赤軍がナチス・ドイツを相手に、前線で決定的な勝利を収めていた時期でした。当時、ソ連軍の功績を伝えるような番組を作っていたアナウンサーや記者、翻訳者たちが感じていた気持ちを言葉にすることはできません。それは国にとっても、そして私たちひとりひとりにとっても非常に苦しい時期でした。しかしそれでも私たちは自分たちの使命が高邁なものであると信じていました。そした待ち焦がれた勝利がやってきたとき、私たちはそこにわずかながらも自分たちの貢献があったことに誇りを感じたのです。」
 さて、戦後、ソ連の外国語放送は急激に発展していきます。放送言語は毎年増え続け、1980年の末になるとその数は66に達しました。
「モスクワ放送」は冷戦という政治的対立の中で放送を行いました。そこで、いわゆる「鉄のカーテン」の向こうの国で起こっている出来事に対する外国人リスナーの関心は非常に大きなものでした。記者や特派員たちは、自身の番組、レポート、インタビュー、コメントの中で、ロシアの生活について語りました。そして、彼らの高いプロフェショナリズムのおかげで、数百万のリスナーが、貴重な情報源としてのモスクワ放送に耳を傾けるようになったのです。
 多くの記者たちは外国語放送に生涯をささげています。1949年から現在に至るまで放送局に勤務している政治評論家のアナトーリー・ポタポフさんは外国語放送について次のように話しています―
「外国語放送という仕事は、西側諸国にロシアの政策をよりよく理解してもらうため非常に重要な意味を持っています。私は最初、特派員として働き、その後、評論員となり、この部署を率いるようになりました。その後、フランスにも派遣され、アメリカが率先して進めていた軍拡に反対するデモについての番組を放送したこともあります。現在はロシア系の外国のリスナー向けに、ロシア語で、国際問題をテーマにした記事を書いています。ミュンヘンやパリ、ワルシャワに住むリスナーから電話をもらうこともあります。私たちの放送を聴き、ロシアで起こっている出来事を理解しようとしてくれていることをとても快く思います。」
 21世紀になり、世界の地政学的状況は変化しています。ロシアもまた以前とは違う、民主国家となりました。しかし外国人のロシアに対する関心が消えることはありません。以前と同じように、ロシアの人々がどのように暮らし、ロシアでどんなことが起こり、世界のさまざまな出来事についてロシアがどう考えているのかに、人々は関心を持ち続けています。現在「ロシアの声」は38の言語で、世界160カ国に向け、400を超える番組を放送しています。リスナーの総数は1億900万人にのぼっています。また現在、「ロシアの声」はインターネットでも放送を行っています。
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