2012.03.14 , 16:47

「ロシアの声」日本語放送の過去・現在・未来

「ロシアの声」日本語放送の過去・現在・未来

丁度一ヵ月後の4月14日に「ロシアの声」の日本語放送は70周年を迎える。70年前のその日に「ガヴァリット・モスクワ(こちらはモスクワ放送)」という声が日本語で鳴り響いた。本日の放送では、「ロシアの声」の日本語放送の歴史を紐解くこととする。

 1942年の4月14日は、ソ連圏内における大祖国戦争から数えて297日目だった。ドイツ軍はモスクワ郊外の戦いで撃退されたものの、スターリングラード攻防戦がまだ目の前には控えていた。日本が対ソ連戦に参戦しないために、軍事的手段だけでなく、ラジオ放送も利用されることとなった。当時、「モスクワ放送」ではすでに数ヶ国語による放送が行われていたが、新たに日本語放送が創設された。毎日30分のモスクワ放送の枠内では、ソ連情報局の報告とファシズムとの英雄的戦いおよび欧州諸国民の解放戦線の実況中継が主に行われていた。まさにその時、ラジオ放送を利用した情報戦争の火蓋が切って落とされたのだ。その1ヵ月後に、日本で「ラジオ・トウキョウ」がロシア語のラジオ放送を始めたのは決して偶然ではない。

 どんなに日本語を良く知っているロシア人でも日本語を母国語とするものにはかなわないということが「モスクワ放送」は良く分かっていた。そのため、日本語放送における最初の翻訳員兼アナウンサーとなったのは日本人だった。1942年から51年までの苦しい戦争の時代に、日本語放送を率いていたステパン・カルムィコフさんが、日本語放送発足当時の状況の思い出を語る。

 「日本語放送が始まったばかりのとき、メンバーはほんの数名しかいませんでした。唯一の翻訳員として働いていたのは、野坂龍さんで、りゅうさんは後に日本共産党の野坂 参三議長の妻となりました。アナウンサーを務めていたのは、「ムヘンシャン」という偽名の人物でした。この「ムヘンシャン」という人物は、大変働き者で、責任感が強い人でした。その他には、日本共産党の創立者の一人であった片山 潜氏の娘の片山やすさんが働いていました。私たちは大変つらい時代にも関わらず、自らの仕事の重大さを意識し、責任を持って、全力で働きました。」

 ドイツが無条件降伏した後、日本も降伏し、第2次世界大戦は終結した。こうした新しい状況において、「モスクワ放送」の日本語放送の内容は本質的に変化した。

 1946年の終わりから、モスクワ放送の日本語放送向けの番組は、ハバロフスク支局でも作成されるようになった。日本語放送の放送枠は、一日5時間にまで拡大された。終戦直後において、日本語放送のリスナーは日本国内に住む人々だけではなかったことをここで指摘しなければならない。1949年くらいまでは、極東やシベリア、中央アジアそしてモスクワ付近のクラスノゴルスクのラーゲリに抑留されていた多くの日本人兵士たちが「モスクワ放送」による日本語放送を聴いていたのだ。スターリンのラーゲリから解放された日本人たちは、ハバロフスク支局で中心的立場として働いた。当時、ハバロフスク支局で働いていた日本人の中には、赤沼弘さん、ヨシダアキオさん、川越史郎さん、清田彰さんがいる。それから2年後、ユジノ・サハリンスクで発行されていた日本語新聞が廃刊となったため、その編集部からも何人かの翻訳要員がハバロフスク支局で働くようになった。

 また、終戦直後の日本語放送は、プロパガンダ情報を流すだけでなく、人道的な役割も果たしていたことも忘れてはならない。その頃、ソ連邦には日本人捕虜の家族から、その安否を尋ねる手紙やラーゲリでの抑留状況を尋ねる手紙が何千通も届いていた。そこで、「モスクワ放送」の日本語放送も番組の枠内に、ラーゲリのルポルタージュや日本人捕虜の毎日の生活を報じる内容を入れ込んだ。終戦から3年後、ラーゲリでは愛好家たちによる合唱団や楽団が結成されたため、日本語放送でも定期的にその演奏や歌を放送した。放送枠がそうした日本人と慮たちによるコンサート番組で埋められてしまうことも頻繁にあった。こうした出来事は、その時代は世界中のラジオ放送でもよくあった。このようなことが二度と繰り返されないことを願ってやまない。

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