2012.10. 3 , 15:04

日本におけるロシア神学校 - スパイの学校でしたか

日本におけるロシア神学校 - スパイの学校でしたか

    日本で開校されたロシアの神学校で学んだ生徒たちの運命について、第1回目の今日は、ワシリー・オシェプコフをご紹介します。

   最近、ロシア正教会の最高指導者である総主教キリル1世が日本を訪問しましたが、これを機に、日本のロシア正教会にまつわる歴史にふたたび注目が集まっています。そしてロシア正教を日本に広めるために日本に滞在した神父ニコライを始めとしたロシア正教の宣教師たちの人生にもふたたび目が向けられています。

   宣教師ニコライが開いたロシア神学校で学んだ彼らは、ロシアと日本という2つの民族、国家のはざまに生き、その運命は、個人の利害、そして複数の国の特務機関の利害に大きく動かされました。日露戦争、第1次世界大戦、ロシア内戦、鉄道建設の開始・・・、しかし、その神学校の生徒たちの人間性は、初めて日本で活動を行ったニコライ・イポンスキー大主教という素晴らしい人物の基で形成されていたのです。彼らは20世紀初頭の極東の歴史の生き証人となっただけでなく、重要な歴史的出来事にかかわりを持つことになりました。

   ロシア正教の神学校の最初の生徒たちについてはまだ多くの謎が残されています。政治イメージ学およびクロスカルチャーコミュニケーションの専門家で、ロシア日本研究者協会の役員でもあるアレクサンドル・クラノフさんは、その生徒たちの多くが、なぜ悲劇的な最期を迎えたのかなど、多くの謎を解き明かそうとしています。

   神学校に通っていた生徒たちの名前や消息は、今も明らかになっていません。しかし神学校を卒業した少年たちのうち、少なくとも2~3人が、非常によく教育され、目的意識が高く、博識で、流暢な日本語を話すスパイになりました。この神学校にまつわるお話、3回シリーズでお届けする予定ですが、第1回目の今日は、元神学校の生徒の中で、おそらくもっともカリスマ性があり、もっとも才能があったと思われるワシリー・オシェプコフをご紹介したいと思います。ワシリー・オシェプコフは、ロシアで柔道の普及活動を行い、ロシアの格闘技「サンボ」の創始者としても知られています。オシェプコフについて、アレクサンドル・クラノフさんにお話を伺いました。

   これは、日露戦争より前にすでに始まっていたことですが、それが大きな展開を見せたのは日露戦争が終結した後です。生徒たちは1902年から1917年にかけて、日本の神学校で学んでいました。神学校は1879年に、後に大主教となるニコライ大修道院長の尽力によって開校しました。当初の学校の目的は、将来のロシア正教の聖職者を育てるために、日本の子供たちに教育を行うというものでした。しかし1902年8月、ロシア軍からの指令により、ロシア軍のための通訳を養成するために、ハルビンやハバロフスクの少年たちが、神学校に送られるようになりました。ワシリー・オシェプコフはサハリンから、自発的にこの神学校に向かったのです。当時、彼はすでに孤児でしたが、その真面目さと熱意には、誰もがすぐに注目しました。

   アレクサンドル・クラノフさんの声でした。ワシリー・オシェプコフは1892年12月25日(旧暦の1893年1月7日)に、サハリンの徒刑囚、マリヤ・オシェプコワと流刑者セルゲイ・プリサクの間に生まれました。11歳で孤児となり、1907年の9月、14歳のときに、東京の神学校に入ることとなりました。当時の神学校では、12歳から60歳までのロシア人と日本人が学んでおり、一般的な教育機関とは少し異なるものでした。生徒たちのカリキュラムには、地理、日本および極東の歴史、文学、文法、読み書き、新聞記事の翻訳、日本語と漢文の書道など、日本の学校で学ぶすべての教科に加え、神学、ロシア語、ロシア文学、世界史が組み込まれていました。また神学校内では、ロシア語での会話は禁じられていました。

   さらに学校では、嘉納・治五郎によって作られた柔道の基礎が指導されていました。頭がよく、すばしこかったワシリー・オシェプコフは柔道の技を次々と習得し、柔道の総本山、講道館で修行できることになりました。運命の女神が彼に味方をしたのです。講道館の資料には、オシェプコフは1911年10月29日に入学したという記載が残されています。オシェプコフはそこでもめきめきと実力を伸ばし、1913年6月15日、ロシア人として初めて初段を取得しました。同じ年、オシェプコフは神学校を卒業します。祖国に戻ったオシェプコフは、ハルビンにある外アムール軍管区の諜報機関で、通訳として働くようになりました。その後、沿アムール軍管区の諜報機関に入ってからは、任務を遂行するため、日本を訪れることもありました。

   1914年、オシェプコフは、ウラジオストクで初めての柔道学校を開校しました。学生を中心に、50人ほどが通う学校でした。そしてウラジオストクに住む日本人もトレーニングに訪れていました。1915年には、第一回露日国際柔道大会が開かれ、1917年に開かれた第2回大会で、オシェプコフは2段を取得しました。そして、このことが後にオシェプコフの運命を決定づけていくことになりました。

   1923年9月、オシェプコフはついに「DD」というコードネームで、ソ連軍に協力するまでになりました。サハリンで、日本の兵士向けの映画を上映しながら、オシェプコフはサハリンにおける日本軍の配置に関する貴重なデータなどを収集し、報告していたのです。そして1925年、オシェプコフはふたたび日本を訪れることになります。労働者農民赤軍の第4司令部に所属する、最初の日本不法滞在者のひとりとなったのです。最初は神戸、そしてそのあとは東京に滞在しました。東京では、麻布3連隊の分宿に住み、隊員たちが通っていた写真館の主人と親しくなりました。柔道クラブにも顔を出し、麻布3連隊の兵士たちと直接、話すようになりました。兵士たちはオシェプコフの柔道の技術と、人柄、そして素晴らしい日本語に深い印象を受けました。彼がどのようにして日本語を習得したのかについて、アレクサンドル・クラノフさんは次のように語っています。

   オシェプコフは日本で、「弁士」の元で勉強していたのです。この職業は非常に日本的なものです。日本で映画が上映されるとき、オシェプコフは自分でフィルムを買い、レパートリーを組んでいたのですが、その映画の解説をする話し手が必要だったわけです。日本の伝統です。しかも映画の説明をするには、スクリーンに映し出されているすべてのことを、詳細に伝えなければなりません。アメリカの戦争映画、フランスの恋愛ドラマ、日本のサムライのお話・・・こうしたさまざまな映画の解説をしているうちに、彼の日本語能力はきわめて高いものになっていったのです。

   長方活動という仕事は複雑で、危険なものです。しかも日本で諜報活動をするというのはとりわけ難しいことでした。しかし日本の事情に精通していたオシェプコフはここで防諜のためのネットワークを構築しようと努力しました。彼には神学校時代からの知り合いもたくさんいました。しかし、モスクワの本部はすぐに成果を出すよう、オシェプコフに要求しました。そして1926年、帰国命令が下ります。これを機にオシェプコフの諜報活動は終止符を打つことになりました。6年もの間、常に日本側からの粛清の脅威におびやかされていた彼は、今度はソ連側からの粛清の対象となったのです。心底、屈辱を感じたオシェプコフはいかに自分が誠実に働いていたかを証明しようとします。オシェプコフの手記には次のような文章が残っています。「わたしは真のロシア愛国者です。日本の学校に通っていましたが、そこでは自国民、そしてロシアを愛するということを第一に学びました。わたしはロシア軍の人員として教育を受け、1914年以降、祖国に永遠に命をささげてきました。

   完璧な日本語を話し、人間的な魅力と知性を兼ね備えていたプロのスパイ、ワシリー・オシェプコフは数年にわたってシベリアに送られ、そこで柔道の指導を行い、その後、モスクワに戻ってからも、柔道の普及活動に尽力しました。そして、ソ連のフリースタイル格闘技「サンボ」の創始者となりました。

   1937年10月2日の深夜、オシェプコフは、ソ連の数十人の日本専門家たちとともに、日本のスパイの容疑で逮捕されました。逮捕されたオシェプコフの尋問記録2641番には、「1921年から1931年にかけて、正式には日本語の通訳として働き、また不法に地下活動を行った」と記されています。これは終盤の尋問の記録で、その他の記録や資料は一切残っていません。1937年10月10日、オシェプコフはブトゥイルスカヤ刑務所で、狭心症の発作のため亡くなりました。

   1956年になって、オシェプコフはようやく名誉回復。2012年9月にはウラジオストクに、オシェプコフの胸像が建てられました。ロシアで柔道を広め、サンボを確立し、そしてゾルゲの先駆者ともいえる人物だったのです。というわけで、今日は日本で開かれたロシアの神学校で学んだワシリー・オシェプコフの人生をご紹介しました。来週の「文化の世界」では、オシェプコフ以外の神学校の生徒の物語をお伝えします。

 

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