2013.01.31 , 15:11

「日本の奇跡」の秘密は海賊の真珠にあり

「日本の奇跡」の秘密は海賊の真珠にあり

「日本の奇跡」の秘密はどこにあるのだろうか? 日本はなぜあんなにも早く戦後復興を果たし、世界の経済大国の列に並ぶことができたのだろうか? これらの問いにはエコノミストだけでなく歴史家も取り組んでいる。

   専門家らの間では日本の戦後復興が迅速に行なわれた背景には、日本の会社員、労働者の勤勉さ、日本の高級官僚の権限の大きさ、米国からの潤沢な財政支援の3つの要因があるとされている。最初の2つの要因には誰も疑問を呈さないだろうが、3番目に関しては米国は確かにアジア圏に共産主義が拡大しないためのバリアとして日本を使うために援助したが、それでも自国経済と互角で張り合うライバルを育てようとは思わなかったはずだという疑問がでてくる。では日本は第1級の産業と科学を打ち立てるための資金をどこから捻出したのだろうか? 歴史家の中には水兵、イムリオ・イソカワの話がこれに関連するという声がある。

   話はロシアの巡洋艦「アメチスト」が1904年南シナ海のダナング沖合いで日本の水雷艇125を沈没させたところから始まる。水雷艇の乗組員は全員海の藻屑となったと思われていたが、2年後の1906年初頭、フランスの砲艦「クルーレ」は北アンナン島の沿岸でいかだに乗った一人の水兵を発見した。水兵はぼろぼろの服装で憔悴しきった様子で、自分は水雷艇125の乗組員の生き残りで名をイムリオ・イソカワといい、1年半にわたってたったひとりでパラセル諸島のある島で暮らしていると語った。

   イソカワさんは日本に帰国した後、3年間、病院で心理療法を受け、その後、軍人恩給をもらって家族と暮らし始めた。イソカワさんは医師らや友人らに島で素晴らしい宝物を見つけたと話していたが、もちろん信じてはもらえなかった。ところがイソカワさんの死後、45年初頭、イソカワさんの家にはその宝物に大きな興味を示す人たちが東京から訪ねてくるようになった。その際、自分たちとの話については広めないでくれと頼まれた。

   45年6月、パラセル諸島のある島に日本の潜水艦I-409が到着した。その乗組員と船長は日本の軍事諜報機関からの命令で差し向けられたのだった。後日、潜水艦の水上機のパイロットは水兵らが島の海岸線にある洞窟から樽のようなものを運び出していた様子を空から目撃したと語っている。樽の中身については水兵らには知らされなかった。だが、この作戦に関与した人間はその後全員、人間魚雷に配置されている。

   その10年後の1955年、水上機のパイロットは長崎で偶然、潜水艦の元船長に出会った。その際、船長は初めて赤裸々な事実を語った。実は自分は将校には内緒で樽の中身をいくつか覗いた。すると樽は縁ぎりぎりまでぎっしり真珠が詰められていた。しかも価値の非常に高い黒真珠。樽は全部で20個ちかく。しかも1樽の重さは100キロはくだらなかったから、当時でも100-150億ドルはくだらなかっただろうというのだ。

   そんな真珠が一体どうしてこの島にあったのだろうか? 一説にこれは16世紀に大活躍したマレーシアの海賊ブングワラ・アナムバスのものだというのがある。アナムバスはパラセル諸島のどこかの島に陣営を築いていたらしく、イソカワさんが見つけたのはその宝物だろうというわけだ。しかし、潜水艦I-409がお宝を発見したあと、その真珠はどこに行ってしまったのだろう?

   戦後、石油王ジョン・セクストン氏の個人コレクションに1000万ドル相当の黒真珠がいくつか発見された。この線をたどると米国企業「ラジオテクニクス」の元経理長ロナルド・スミート氏が浮かび上がってきた。スミート氏の話では、戦後すぐ、破綻の瀬戸際にあった会社のオフィスに2人の日本人がきて、うまい取引を申し出た。その取引とは1943年の創業以来、この会社が開発したすべてをアタッシュケース2個分の真珠と交換するというものだった。アタッシュケースを開けると真珠の大半は黒真珠だったという。米国人はこれに同意し、糸目もつけないいい暮らしをした結果、全財産を失った。そのかわりに日本には軍需、民需両用の様々な生産を行なう企業が誕生し、大成功を収めた。

   こんなわけで今、ヨーロッパや米国にある黒真珠の出所をつきとめようとすると、戦後、アタッシュケースに真珠をつめて世界を回り、最新の技術を買いあさった日本人数名の軌跡につきあたるかもしれない。

  •  
    シェアする