2014.01. 1 , 16:47

ロシアの新年の不思議な冒険

ロシアの新年の不思議な冒険

ロシアで新年が祝われるようになったのは15世紀末。だが当時は、1月1日ではなく、9月1日に新年が祝われていた。9月1日を新年としたのは、モスクワ大公のイワン3世。それ以来、秋の最初の日である9月1日になると、モスクワ・クレムリンの大聖堂広場に集まった大勢の民衆の前に、ツァーリと侍従たちが宮殿から盛装で姿を現した。総主教は十字行を率い、ツァーリのもとに近づき祝福し、健康を祈念した。厳粛な祈祷が始まり、その後、ツァーリと総主教が、大貴族や正教の司祭たちを順番に祝福した。

 ロシアの皇帝にして改革者のピョートル1世は1699年、ロシアのヨーロッパ化を進め、西欧の暦を導入した。ピョートル1世は、新暦に関する法令を布告し、1月1日を新年にすると発表した。ピョートル1世は1月1日午前0時、モスクワの赤の広場にたいまつを手に持って現れ、空に向かって最初の花火を打ち上げた。モスクワの空には、鮮やかな花火が舞い上がった。祝いは7日間にわたって続いた。そして。1700年1月1日から、ロシアの暦には、新年の祝いが定着した。  

 1917年の革命後、ソ連政府によってクリスマスが廃止されたが、新年は残された。ソ連の指導者ウラジーミル・レーニンは、労働者の子供のためのコンサートやイベントを開く「もみの木祭り」を開催するよう指示した。だがレーニンの死後、ソ連政府の新年に対する態度は一変した。1924年、共産主義モラルの信奉者たちは、新年は「ブルジョア的遺物」だとして批判した。ソ連の新聞には、もみの木を「モールやがらくた」で飾りつけることに抗議する「憤慨した労働者たち」の書簡が掲載された。  

 だが1930年代半ば、政府は慈悲を示した。1935年12月28日、ソビエト共産党の機関紙「プラウダ」に、新年の「名誉回復」に関する記事が掲載された。記事の執筆者は、「なぜ、ソ連の労働者の子供たちの素晴らしい喜びを奪うのだろうか?」と熱く問いかけた。プラウダ紙の記事は、党の指示を意味した。翌日には、1936年の新年を祝う政令が発表された。工場などには、労働者の子供のためのプレゼントを用意するよう指示が出され、市場ではもみの木が売られた。ソ連の新聞は見解を大きく変え、新年を称賛するようになった。人々が喜んでもみの木を買ったり、新年のイベントや人々が楽しんでいる様子が報じられた。 新年は、共産主義思想と関わりを持たないソ連における唯一の国民の祝日となり、スターリン時代の無味乾燥した生活の中で数少ない楽しい出来事の一つとなった。 だが1月1日は労働日であったため、大晦日の夜から元旦にかけて賑やかに新年を祝った人たちは、早朝から仕事をするのが辛かった。政府が国民の要望に応え、1月1日が休日となったのは1948年のことだった。  

 ソ連崩壊後の1992年、ロシアでは1月2日も休日となり、2005年から世界で初めて1月1日から5日までが新年休暇となった。またロシアでは、1月7日のクリスマスも祝日だ。さらに「予備」として旧正月もある。 これは、1918年にソ連政府が旧暦のユリウス暦から新暦のグレゴリオ暦に移行したことに関連している。ユリウス暦とグレゴリオ暦の間には13日の差がある。そのためロシアでは13日から14日にかけて旧正月が祝われる。

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