2015.03.17 , 17:09

リヒテル生誕100周年:夜空の星は楽譜に見える

リヒテル生誕100周年:夜空の星は楽譜に見える

   2015年3月20日、ロシアの偉大なピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルの生誕100周年を迎える。リヒテルの稀有な成功の秘密は、リヒテルが非常に幅広いレパートリーを持っていたことだけではなく、リヒテルがバッハも、ドビュッシーも、プロコフィエフも、ショパンも同じように見事に演奏したことにある。

  しかし音楽評論家たちによると、リヒテルの演奏家としての重要な特質は、あらゆる音楽作品から、唯一無二の貴重なイメージをつくり上げる能力だという。リヒテルが演奏すると、あらゆる音楽が、まるでリヒテル自身が観客の目の前で作曲したかのような、あたかもピアノがリヒテルに愛で報いたかのような音色を奏でる。

   リヒテルは、ジャーナリストからインタビューの依頼を受けた時(リヒテルがマスコミと接触するのは極めて稀だった)、「私のインタビューは、私のコンサートだ」と述べた。リヒテルは、今でいうself made man(自己の力で成功した人)だ。リヒテルは、その不屈の性格をつくり上げた自分の経歴や、人生が知れ渡るのを嫌がった。モスクワ音楽院とミュンヘン音楽大学の教授を務める名ピアニストのエリソ・ヴィルサラーゼ氏は、次のように語っている。

   「リヒテルには、驚異的な即興性がありました。彼が舞台にあがり、演奏を始めると、まるで目の前で音楽が生まれたかのようでした。リヒテルは、観客と一緒に、望んだことを全て行いました。これは、信じられないような形で人々を惹きつける、何らかの並外れた影響力でした。そしてリヒテルは、内面が自由で、おおらかな人物でした。このような性質は、誰からも好かれたわけではありませんが、リヒテルの性格の基盤でした。」

    スヴャトスラフ・リヒテルは、1915年3月20日、ウクライナのジトミルで生まれた。子供の頃は、スヴェチク(光線)と呼ばれた。リヒテルは3歳の時にチフスにかかった。家族は父親の仕事の関係で、オデッサへ移らなければならず、3歳のリヒテルは、親戚に預けられた。母親がリヒテルのもとにやって来たのは、それから3年も経ってからのことだった。当時、国は内戦が荒れ狂い、不穏で飢餓状態にあった。リヒテルの父親は、ドイツ人でウィーン国立音楽大学を卒業し、音楽学校の教師を務めていた。リヒテルに最初にピアノを教えたのは父親だったが、リヒテルは音階の練習は断固として拒否したという。リヒテルは、「音階は音楽ではない」と言って、自分でショパンのノクターンを勉強し始めた。音楽はリヒテルの心をとらえ、リヒテルは手に入れたあらゆる楽譜を演奏した。これに父親は怒りを爆発させ、母親は息子であるリヒテルを擁護した。

   リヒテルは15歳から伴奏ピアニストとして、そしてオデッサ・フィルハーモニーの伴奏者として仕事を始めた。1932年にはオデッサ歌劇場のコレペティートルとなり、1934年には、オデッサ技術者会館で初のソロコンサートを開いて大成功を収めた。リヒテルは19歳だった。音楽に対するひたむきさと深い浸透が、リヒテルの人生で大きな役割を演じた。リヒテルは、「音楽の博学者」となった。だが、それはもっと後になってからのことだ。

   1930年代、オデッサでは音楽が軽やかに響き渡ることはなくなった。町では弾圧が始まったのだ。リヒテルの父親は、ウィーンで20年間過ごしたドイツ人。母親はロシア人だったが、貴族だった。リヒテルの家族には嫌疑がかけられた。リヒテルの両親は、息子を危険から救うために、一時的に息子と別れることを決めた。

  1937年、リヒテルは音楽院に入学するためにモスクワへ向かった。これはとても勇気ある行動だった。なぜなら若きリヒテルは、音楽の教育を一切受けたことがなかったからだ。リヒテルは入学試験に訪れ、ごく当たり前のようにピアノの前に座った。入学試験でのリヒテルの演奏を、偉大なピアニストのゲンリフ・ネイガウスが聴いた。この日からリヒテルは、ネイガウスの愛弟子となった。ネイガウスはリヒテルとの出会いを、次のように振り返っている。「いかなる音楽教育も受けたことのない若者が音楽院に入学しようとすることに、私は当惑した!私は勇敢な人物を見てみたいと思った。そして、彼が現れた。背が高くて非常に痩せ、ブロンドで青い目の生き生きとした、驚くほど魅力的な顔をしていた。彼はピアノの前に座り、鍵盤の上に大きく、やわらかく、緊張した手を置き、弾きだした。彼は非常に抑え気味に演奏した。簡潔さと厳格さが強調されていとさえ言える。彼の演奏は、すぐに私の心をとらえた。何らかの驚くべき音楽へのひたむきさに魅せられた。私は小声で『彼は天才音楽家ではないかと思う』とささやいた。」

   ネイガウスはリヒテルを自分の弟子として迎えたが、リヒテルに教えることは何もなく、必要なのはリヒテルの才能を伸ばすことだけだ、と考えていた。ネイガウスは、リヒテルが音楽院での音楽以外の授業を欠席することを許した。なぜならリヒテルは当時、音楽以外のことには興味を示さなかったからだ。政治的な観点から見た場合、リヒテルは極めて危険な人物だったが、極めて豊かな才能の持ち主だった。リヒテルは音楽院から2度にわたって除籍処分を受けたが、その度に復学した。ネイガウスがまもったのだ。リヒテルは生涯にわたってネイガウスへ敬意を抱き続けた。リヒテルは膨大なレパートリーを持っていたが、ベートーベンのピアノ協奏曲第5番だけは決して演奏しなかった。ネイガウスを凌ぐ演奏はできないと考えていたからだ。1940年11月26日、リヒテルは、モスクワ音楽院の小ホールで開かれたコンサートに出演した。これはリヒテルにとってモスクワで初めとなるコンサートだった。リヒテルはこのコンサートでネイガウスと競演した。そして数日後、モスクワ音楽院の大ホールで、リヒテルのソロコンサートが開かれ、セルゲイ・プロコフィエフのピアノソナタ第6番を演奏した。これは作曲家自身による演奏のあと、初めての演奏だった。

  1941年、ドイツ系のネイガウスが逮捕され、モスクワから追放された。リヒテルの父親はドイツのスパイとしてオデッサで弾圧され、後に射殺された。リヒテルの母親は恋人と一緒にドイツへ渡り、長い間音信不通となった。リヒテルは家族を失った。リヒテルは日記に、「母親は私にとって全てだった。友人であり、助言者であり、道徳的なモデルだった。だが突然このような裏切り。この悲劇は私の全人生に影響を与えた。私は人間を信頼できなくなった。そしてその時私は決めた。私が家庭や家族を持つことはない。私にはただ芸術のみがあるだけだと…」と書いた。リヒテルを絶望から救ったのは音楽だった。

   リヒテルは一日も欠かさずに練習した。この時期のリヒテルの演奏には、何らかの驚くべき力とエネルギーがあった。ドイツ軍はすでにモスクワに近づいていたが、ドイツ人として扱われたリヒテルに、モスクワでソロコンサートを開く許可が与えられた。リヒテルはその後、宣伝工作班と一緒に前線へ赴き、ロシア全土で数多くの演奏活動を行い、包囲下に置かれたレニングラードでもコンサートを開いた。リヒテルはレニングラードでプロコフィエフのピアノソナタ第7番を演奏した。1944年、モスクワ音楽院の卒業試験が、モスクワ音楽院の大ホールで、コンサート形式で行われた。そしてリヒテルの名は、音楽院のロビーの大理石のプレートに金色の文字で刻まれた。

   1945年、リヒテルは全ソ連音楽家コンクールで1位を受賞した。リヒテルは2次予選の直前に演奏する曲を変更し、2時間でリストの作品を暗譜した。リヒテルが演奏を始めると、ホールの照明が消えた。ろうそくが置かれたが、間もなくろうそくも消えてしまった。リヒテルは真っ暗闇の中で演奏を終え、嵐のような拍手が贈られた。なお、1952年、リヒテルは、映画「作曲家グリンカ」に、フランツ・リストの役で出演している。リヒテルがその後コンクールに出場することはなかった。また国際コンクールの審査委員長も度々断った。またリヒテルは、教えることや計画することも好まず、社会に定着した多くのルールを嫌った。リヒテルは、「私が感心を持っているのは音楽そのものだ。私は音楽の僕だ。私はどこで演奏するかについては考えない。私が考えるのは、何を演奏するかということだ…」と語っている。当時は全ての人がリヒテルの演奏スタイルを理解し、受け入れたわけではなかった。リヒテルの演奏が、ピアノ芸術の模範になることを知っていた人はわずかだった。

   ある時、リヒテルはモスクワ音楽院のコンサートで歌手のニーナ・ドルリアクと出会った。ドルリアクはリヒテルよりも7歳年上だったが、リヒテルはドルリアクに若かった頃の母親の面影を見た。この出会いは、2人の人生を変えた。ドルリアクはリヒテルの妻となり、演奏上のパートナーとなり、秘書となり、興行主となり、そして最も近しい友人となった。リヒテルとドルリアクの初の競演コンサートでは、当局から批判されたアンナ・アフマートの詩にプロコフィエフが作曲した作品が演奏された。ドルリアクは、次第に演奏活動から退き、教師として名声を博した。なおリヒテルは一切弟子を取らなかった。単に時間がなかったのは明らかだが、もしかしたら、天分を学んで身につけるのは不可能であることも理由だったのかもしれない。

   リヒテルは社会の注目から逃れようとし、長年にわたってコンサートの録音、ドキュメンタリーや写真撮影、インタビューなどを拒否した。友人も少なかった。リヒテルが誰かを自分のもとに近づけることは稀であり、芸術家特有の気難しさや、傷つきやすい性質を持ち、自分に不満を持つことがよくあった。リヒテルは、まるであらゆる人やあらゆるものと距離をとっているかのようだった。しかし近しい友人や仲間に対しては非常に思いやり深く、優しかった。自宅でイタリア風あるいは東洋風の楽しい食事会を催し、誰が一番たくさんペリメニ(ロシア風餃子)を食べるか、あるいは誰が一番上手に酔っ払った犬になりきって演奏するかなどの大会を開くこともあった。だがこれは、緊張を要する仕事のつかの間の気晴らしにすぎなかった。高名なヴィオラ奏者で指揮者のユーリー・バシュメット氏は、次のように語っている。

   「リヒテル氏は、練習した時間を書き留めるノートを持っていました。リヒテル氏は、一日平均で5時間は練習するべきだと考えていました。もし今日は3時間しか練習しなかったとしたら、明日は不足分を補うために7時間弾かなければなりませんでした。そのため、食事のために短い休憩をとりながら朝から晩まで練習する日がありました。私はその証人でもあります。」

   1950年代、リヒテルは外国へ演奏旅行に出かけるようになった。リヒテルは西欧へ行くことを夢見た。なぜならドイツにいる母親から久方ぶりに手紙を受け取ったからだ。リヒテルは母親を抱きしめ、許すために、母親に会うことを望んだ。そして外国で開かれたあるコンサートに母親が訪れた。リヒテルは母親との再会はあたたかく、喜ばしいものになると思っていたが、それは間違いだった。運命は、息子と母親をあまりにも遠くに引き離してしまった…。

   その後数十年、リヒテルは休む間もなく演奏活動を行った。コンサート、そしてまたコンサート。町、移動、人.... 新たなオーケストラに新たな指揮者。そしてまたリハーサル。コンサート。満員の会場。欧州、米国、カナダ、日本... リヒテルはどこでも超満員のお客さんに割れんばかりの拍手で迎えられ、賞賛の嵐に包まれた。リヒテルが初めて日本を訪れたのは1970年。晩年の1994年にはリヒテル最後の日本公演が東京で開かれた。

   リヒテルの才能が多岐にわたっていたことは、リヒテルが絵画に熱中していたことでも証明されている。リヒテルは生涯をかけて絵画を収集し、自らも油絵を描いた。リヒテルの作品とたくさんの絵画コレクションは、現在、展覧会「スヴャトスラフ・リヒテル。一人称の語り手による」が開かれているモスクワのプーシキン美術館に保管されている。

   リヒテルは、フランスや、彼が愛したオカ川の左岸に位置する町タルーサで夏の音楽祭を創設し、出演した。1981年には、友人だったプーシキン美術館の当時の館長イリーナ・アントノワ氏と一緒に音楽祭「12月の夕べ」を創設した。同音楽祭はリヒテルが提案し、今もプーシキン美術館で開催されている。絵画と音楽のコラボレーションはプーシキン美術館にとって初の試みだったが、大成功した。リヒテルは、「私にはモスクワにもう一つの家ができ、自分の月、12月もできた」と語った。

   1997年8月1日、リヒテルはモスクワで死去した。心臓発作が原因だった。20世紀の偉大なピアニストとの別れは、プーシキン美術館のイタリアのアトリウムで執り行われた。リヒテルの死後、音楽祭「12月の夕べ」には、リヒテルの名が冠された。ある新聞はリヒテルの死を悼み、「彼は人間と神の間の仲介者だった」と報じた。1999年、リヒテルが暮らしていたモスクワの自宅は、リヒテルの家博物館としてオープンした。

    リヒテルは才能があっただけではない。リヒテルは、天賦の才、めぐりあわせ、豊かな人間性など、あらゆるものを兼ね備えていた。リヒテル生誕100周年に合わせて、モスクワの一つの通りにリヒテルの名が命名される。

 

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