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    「モスクワからの日本語放送アナウンサー第1号『ムヘンシャン』とは誰だ?」

    「モスクワからの日本語放送アナウンサー第1号『ムヘンシャン』とは誰だ?」

    © Flickr/ Polish Ministry of Foreign Affairs
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    今から74年前の1942年4月14日、私どもスプートニクの前身、モスクワ放送が日本語放送を開始した。その時、アナウンサー第1号としてマイクの前に立った「ムヘンシャン」とは、一体誰だったのか? 最新の資料をもとに皆さんにお伝え致します。

    なおこの話題は、サウンドクラウド及びポッドキャストでお聞きになる事が出来ます: https://soundcloud.com/sputnik-jp/letters

    A:日本が真珠湾攻撃によってアメリカとの戦いの火ぶたを切ったその翌年、1942年の4月14日、モスクワからの日本語放送が始まりました。戦争が、日本語放送をスタートさせたのです。

    B:きっと当時も、急にスターリン指導部から「一日も早く放送を始めなさい』と命令が出たのでしょう。私達がサウンドクラウドに移行する際も、突然で大変でしたが、当時の緊張度は今とは比較にならなかったでしょうね。

    A:その時、一体誰が、また、どういった人物がそのテキストを読んだのか、長い間正確なところは判っていませんでした。それがはっきりしたのは、やっと2009年の事でした。私どもの元同僚、歴史学者で、モスクワではアナウンサー兼翻訳員として共にこちらで働き、現在、日本の大学で講師を務める島田顕さんの地道な調査によって明らかになりました。

    B:Aさんは、もう長く(1987年の12月から)働いていますから、女優で演出家の岡田嘉子さんなどから、放送開始当時の事について聞いていると思いますが…

    A:はい、放送開始の時、翻訳は日本共産党のかつての指導者のお一人・野坂参三氏のご夫人、龍さんがその頃滞在しておられた当時のゴーリキー通り、今はトゥヴェリツカヤ通りと言いますけれども、そこの中央ホテル(当時ルクスホテル)の部屋でこの翻訳をなさって、毎日ロシア人の担当者がニュースや解説などのテキストの受渡しのためにホテルまで歩いて、10分ほどの距離だったと言いますが、プーシキン広場にあった外国向けモスクワ放送の本部から通っていたと聞いています。当時モスクワは、ファシストドイツ軍にすぐ近くまで攻め込まれ、必死の防衛戦を続けた結果、どうにか敵を追い返していた時期とはいえ、4月でもまだ寒く、野坂さんは毛布にくるまって翻訳していたそうです。一方、アナウンサーは、当局は初め日本の労働運動家でコミンテルンの幹部として日本共産党の結党を指導したといわれている片山潜氏の娘さん、片山やすさんがアナウンサーにお願いするはずでしたが、やすさんは学生に日本語を教えておられ、ウズベクのフェルガナに疎開されていました。そうした事から、当局は急遽、アナウンサー探しをしたようです。

    B:それで白羽の矢が当たったのが「ムヘンシャン」さんだったわけですね。それにしてもムヘンシャンとは、奇妙な名前ですね。

    A:この奇妙な名前、自分でそう名乗っていたそうですが、ムヘンシャンというのはロシア語のムーハ、ハエから来る言葉で、そこに、日本語のシャン、なになにさんのさんが訛ったシャンをつけ加えたものです。当時はスターリン時代、身の安全を考えて、本名を明かさずに、本名を名乗らずに働くこともよくあった、ということです。岡田嘉子さんは1948年、このムヘンシャンの強い薦めもあってモスクワ放送のアナウンサーとして働き出したと、仰っていました。ムヘンシャンは、自分には九州訛りがあるので、岡田嘉子さんのような有名な女優さんがアナウンサーとして働いてくれたらどんなに素晴らしいだろう、そう言ったそうです。長い間、彼が、九州出身の炭鉱労働者の男性であったということ以外、具体的なこと、正確なことはまったく判っていませんでした。

    B:それが島田さんの地道な調査によって、だんだんわかってきたのですね。

    A:そうです。島田さんは元々、国際共産主義運動が専門で、共産主義世界の建設を夢見てソ連邦に世界中から集まった人々について研究活動を続けていました。2008年の8月、島田さんがアメリカのワシントンのアメリカ議会図書館で目を通した資料の中にムヘンシャンという言葉を見つけ、これがきっかけとなってモスクワの旧マルクス・レーニン主義研究所中央文書館(アーカイブ)、今のロシア国立社会政治史文書館に幾つか資料が残っていることを突き止め、翌年3月モスクワを訪れた折に忙しい合間を縫ってムヘンシャンのデータを入手してくれました。

    B:そうした努力の結果、ついに2009年に「幻の日本人アナウンサー第一号ムヘンシャン」の本名が明らかになったわけですね。

    A:そうです。島田さんがアーカイブで入手した情報によりますと、ムヘンシャンは、本名、「緒方重臣(おがたしげおみ)」さんと仰います。

    B:緒方さんの、出身地なども分かっているのですか?

    A:緒形さんは1896年、福岡県田川郡でお生まれになりました。地方自治体職員の家庭のお子さんで、お父さんは旅館を経営していたということです。この旅館は、今も存在し、立派なホテルとして、御親戚が受けついておられます。

    B:緒方さんは、当時の事ですから、やはり共産主義運動に参加していたのでしょうか?

    A:日本共産党員ではありませんでした。他の党にも属したことはありません。1914年まで日本の初等学校で学び、18歳まで中等農業学校で勉強して、1914年から17年まで、つまり18歳から21歳まで、炭鉱労働者、荷役労働者、雑役夫として働きました。1921年に歩兵予備役として登録されています。

    B:裕福な旅館の息子さんにしては、大分苦労されていますね。

    A:戦前の事ですから、緒方家ではお父さんの権力が絶大で、緒方さんは、父親の母親に対する態度に我慢できず(時に暴力も振るったそうです)、母親の実家で暮らし、母親の死後、父女中さんを後妻にした事に強い義憤を感じ、実家に乗り込み警察沙汰を起こしてしまいます。

    B:そうした家庭的な御不幸もあって、社会的な問題に目覚めて行かれたのですね。ではロシアに来られたきっかけは何だったのでしょうか?

    A:故郷では暮らせなくなった緒方さんは、ウラジオストーク航路も含めて遠洋航海の船に乗り込んで、ボイラーマン、荷役労働者として働き、船員たちのストライキにも何度も参加しました。アメリカ航路やカナダ航路、香港航路、ヨーロッパ航路の船に乗り、視野を世界に広げました。

    B:そうした実際の経験の中から、社会主義、共産主義に興味を持ち始めたのですね。

    A:語弊がある表現かもしれませんが、男のロマンですね、その後1929年に、負っていた借金から解放されると、学習の機会と可能性を得るために、それまで働いていた船から脱出してウラジオストークの国際海員クラブに残ったそうです。このウラジオストークでは、日本人労働者の間での労働組合の路線に沿って活動し、1932年に日本人労働者の間での活動のためカムチャッカに赴きました。

    B:その後、どういうきっかけで緒方さんはモスクワに来たのでしょう?

    A:緒方さんは、国際海員クラブで働き、共産主義運動に傾倒して行き、共産主義をさらに深く学習するためモスクワに出発します、そして1933年から35年までクートベ、東洋勤労者共産大学、あるいは東方少数民族共産主義大学とも訳されますが、こちらの学生になりました。

    B:クートベというのは、分かりやすく言うとどういった機関だったのですか?

    A:当時ソ連に存在していた共産主義者養成機関で、革命家の養成塾といった感があり、世界中から共産主義社会の建設を夢見る若者たちを集めて彼らを教育し、また、世界中へと送り出していました。価値が大きく変化してしまった現代においては、軍事訓練も行われていたクートベは一種の「テロリスト養成機関である」と批判する人もあるでしょう。

    B:当時のソ連には、沢山の政治亡命者がいたのでしょうね?

    A:1930年代のソ連には数万人規模で政治亡命者がおり、日本人も1100人近くいたと推測されています。

    B:しかし当時のソ連は、スターリン時代、厳しい粛清も行われていましたね。

    A:1936年から37年、内務人民委員会の資料によりますと、タナカ氏、カンジョウ氏が逮捕されたのをきっかけに、ムヘンシャンこと緒方氏は、自分もスパイと疑われているようだと感じ、迫害と逮捕の恐怖を経験しました。ブルジョアの生まれと糾弾されるのを恐れ、旅館経営者の息子として生まれた素性も隠していたそうです。

    1938年の1月には岡田嘉子さんと演出家で共産主義者の杉本良吉氏がサハリンを越境してソ連邦に亡命しますが、スパイとして逮捕され翌39年、最高裁の判決によって、10月、杉本氏は銃殺、岡田嘉子さんは10年のラーゲリ、収容所送りとなります。

    一方、ムヘンシャン、緒方氏はこの恐怖の時代を何とか生き抜きます。1938年の末まで、民族植民地問題科学研究所に在籍した後、1939年から1940年まで、革命の火花という名前を持つ印刷所の植字工として働き、1941年から42年までは外国語文献出版所の日本語編集部の校正係を務めました。

    A:そしていよいよ1942年からソ連国家ラジオ委員会日本語課のアナウンサーとなったのですね。きっと突然の使命で、ビックリされた事と思いますよ。当時の放送はどういう内容だったのでしょうか?

    A:当時のステパン・コルムィコフ課長は、次のように言っています-「日本語放送で主要な地位を占めていたのは、ヒトラー・ドイツとの大祖国戦争の戦況状況でした。私はアブコフ氏(のちに東洋学研究所の主任研究員)と一緒に放送原稿を作りました。翻訳では軍事用語に苦労しました。なにしろ私達は皆、ずぶの素人でしたから。ムヘンシャンは、まっすくぐな気性の人で、頑固でしたが、懸命に働いてくれました。実際、アナウンサーは、時々片山さんが手伝ったものの、戦争中は、緒方さん一人でやられていたようです。

    B:それは大変だったでしょう、当時は生放送でしたでしょうし… 戦後、緒方さんはどうされたのでしょうか?

    A:岡田嘉子さんが私に話してくれたことによりますと、先生が、岡田さんが働き始めて、1948年ですが、まもなく姿を見なくなった、ということです。先生のお話では、おそらく、彼は日本に帰国したのではないかということでした。ただ帰国した事を証拠立てる資料はありません。 島田さんの調査では、中国に入り、そこで亡くなられた可能性も高いとのことでした。

    B:事実は、今後の調査を見て見なければ分かりませんが、緒方さんが戦後、無事日本に戻り、故郷の地を再び踏むことができたと、心から願いたいです。

    A:きょうは、4月14日が、私どもスプートニクの前身、モスクワ放送の日本向け放送開始74周年にあたるのに因みまして、幻の初代日本語アナウンサー、ムヘンシャンこと緒方重臣氏について御紹介しました。私達は、緒方さんを初め、モスクワからの音声放送開始に携わった大先輩の方々の深い人間的思いと堅い決意を忘れず、その伝統を新しい可能性の中で、受け継いでゆきたいと思っています。

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