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    マトゥア島

    地下都市に何が遺されたか? マトゥア(松輪)島の日本軍の遺物調査が終了へ

    © 写真: Russian Geographical Society / Andrey Gorban
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    リュドミラ サーキャン
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    クリル諸島の中心部に位置するマトゥア(松輪)島でのロシア国防省とロシア地理協会の合同調査隊は終盤を迎えている。調査では多くの発見があったが中でも最大級のものは日本の軍機だった。東軍管区のアレクサンドル・ゴルデーエフ広報長官は「機体は翼もありよい保存状態で第2次世界大戦時代の三菱のゼロ戦だったものと思われる。ゼロ戦の中隊はマトゥア島に置かれていた。シャシーには漢字がくっきり残されており、製品番号の1733と製造年の1942の数字が読み取れる」と語っている。

    今年5月、ロシア国防省がクリル諸島の中心部に位置する無人島のマトゥア島に注視。専門的な検査機、設備、地質学者、化学者、生物学者から成る最強の調査隊が負った目的は2つあった。1つが太平洋艦隊のベースの一部を移すのにこの島が適切かどうかを知ること。もう1つがこの島を前の主の遺物を調査することだった。

    マトゥア島についての最初の記述は1711年。ここにアイヌの村があった時代のことだ。つづいて日本の軍部が島に興味を持った。第2次世界大戦開戦前にはマトゥア島は強力な城砦、地下には塹壕が張り巡らされ、大小さまざまなトーチカ、空港、港湾設備を有していた。島での上陸戦は展開されなかったが米軍は定期的に海上からの爆撃を繰り返していた。
    日本が全面降伏を宣言すると1945年8月下旬には日本軍守備隊は無抵抗でソ連のパラシュート降下隊に島を明け渡した。この際あらかじめ岸壁に掘られていたトンネルを爆破している。
    第91歩兵師団の司令官、ツツミ・フサキ中将への尋問録には次のような一節が残されている。

    「クリル諸島のなかでは松輪島(マトゥア島)が最大の意味を持っております。島は中間的な航空基地であり、同時に船舶の停泊基地でもあります。この島を奪取すれば北海道に対抗する行為とる場合の良好な基地が出来、また北方の島々との連絡を切断することも可能となるでしょう。米国はこの島に関心を抱いていました。このため日本は多くの軍事力を投入し、堅牢な防衛を築いたのです。この島には第5戦線本部に直属する第41混成大隊が駐屯しておりました。」

    20世紀の半ば、マトゥア島にはソ連の対空防衛が置かれ、その後国境警備隊が駐屯していたが、そうした者たちは調査は行っていない。2001年、警備隊は退去されられ、島は無人化した。だが日本軍の残したあまりに強力な軍事設備は歴史家らの胸を騒がせ続けた。これらの背後に歴史家らは一種の超越した軍事課題または機密があったのではないかとふんでいた。カムチャッカ半島のそうした研究者らが初めて独自の調査を開始したのは2003年だった。
    研究者らは実際に目にしたものに驚愕し、その結果行われた調査回数は実に15回にも及んだ。そうした調査の全て参加した学術指導員のイリーナ・ヴィテル氏はスプートニクからのインタビューに次のように語っている。
    「この島を丹念に調査したのは私たちが初めてであり唯一だ。国防省と地理学協会の調査の計画段階では我々が集めた資料は最も完全で客観的な情報源となった。

    島には縦横に壕、塹壕、人工的な洞窟が掘られている。島の北方は火山という自然の地形が防御壁となっていたが、後は全て日本の工兵らの手で強力な守備城砦が作り上げられている。マトゥア島の縦方向の沿岸は全て石または岸壁から掘り出された岩で密に組まれたトーチカが数珠繋ぎに環状に続いている。これらすべてのシステムは枝分かれした網目状の地下道を有していた。

    ある丘の下にはおそらく司令官の官邸が置かれていたのか、地下の風呂場まであった。完全なる地下都市だ。その機能がなんであったのか、我々は結局明らかに出来ずじまいだった。

    ここの地下には日本軍の細菌兵器ラボがあったとか、または原爆製造のベースキャンプだったなど様々な噂は流れたが、そのどれも証拠は見つけられていない。それはまず地下設備の全てには到底潜入することはできなかったし、それに今回の調査隊のようなすごい機器は我々は持っていなかったからだ。

    その代わり我々は空港の滑走路を見つけていた。よい保存状態で機体の昇降のためのコンクリート製のスロープが設けられている。この数年で我々の発見したものは兵器から兵靴、台所用品まで枚挙に暇がない。マトゥア島に日本軍が残した遺物を並べたら博物館が数軒建ってしまうほどだ。島自体、野外の自然状態での戦争博物館といえる。」

    カムチャッカの調査隊は日本人研究者らと何度も連絡を取ろうとしてきた。だがこうした照会にはほとんど回答が得られなかったという。

    「ある時我々は日本の胸章かメダルのようなものを見つけた。磨いてみると文字が出てきた。下関市の幼年学校卒業とある。我々は外務省を通じて日本政権に対し持ち主を明らかにしてくれるよう要請し、もし親戚が生きておられたならば、その方々にお渡ししたいと伝えた。ところがそれに対する回答は『名前の解読は不可能』。こんな例は唯一ではなく、日本人とコンタクトしようとするとその度になぜかきまって無理解の壁に阻まれ続けてきた。」

    イリーナ・ヴィテル氏は全ての調査が終わった結果、手元に残ったのは回答よりも疑問のほうが多くなったと語っている。日本の歴史家らとの協力が実現すれば、第2次大戦の歴史の新たなページが明らかにできるだろう。この調査の結果の続きについては今後の発表を待ちたい。

     

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