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    セルゲイ・チフヴィンスキイ氏

    1956年のソ日共同宣言から60年

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    リュドミラ サーキャン
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    13日モスクワでは、ロ日第一外務次官レベルでの戦略対話の定例ラウンドが始まる。そこでは、ロシアと日本の間の平和条約に関する諸問題も話し合われる予定だ。

    今月19日は、モスクワでソ連と日本が共同宣言に調印してから60周年目にあたっている。この宣言が調印された交渉の最終段階は、1956年10月13日から19日までモスクワで行われた。これにより両国間の戦争状態は終わり、外交及び領事関係が復活した。またソ連は、国連加盟についての日本の要請を支持し、ソ連領土内に残ったすべての日本市民を解放し、彼らを日本に帰還させる用意のあることを明らかにした。同時に、貿易発展及び漁業分野での協力に関する議定書にも調印がなされた。ただ交渉の過程では、領土確定問題に関する合意については達成されなかった。それゆえ文書は、平和条約ではなく、共同宣言という形になった。

    スプートニク日本記者は、この交渉に直接参加したセルゲイ・チフヴィンスキイ・ロシア科学アカデミー会員にインタビューした。セルゲイ・チフヴィンスキイ氏は今年9月に98歳の誕生日を迎えている。

    記者:1956年のソ連と日本の交渉は、どのような理由で行われたのですか?

    チフヴィンスキイ:どのような戦争も、平和により終わる。ソ連と日本の間の平和は遅れていた。当時、第二次世界大戦から10年経ち、障害が弱まったように思われた。平和条約に関する交渉が、何十年も長引くなど誰が予想しただろうか? 日本には、ソ連のように巨大で影響力を持つ国家と正常な関係がないことが、日本の国際社会への復帰を不可能にし、互恵的な貿易の妨げとなり、対外政策の自主性を制限しているとの認識があった。ソ連との正常な関係なしに、日本の国連加盟や、中国を筆頭にした社会主義諸国との外交関係確立を期待するのは難しかった。また日本との関係が調整されていないことは、ソ連の利益にもかなっていなかった。なぜなら、急速に経済力を復活させている極東の隣国、日本との貿易及び協力の確立を阻害していたからだ。漁業のような両国にとって非常に重要な経済領域での協力を難しくしていたし、日本の民主的諸組織との接触を妨げていた。その結果、日本が米国の軍事的戦略にますます引き込まれるのを促していたからである。

    記者:あなたは当時まだ若い外交官でしたが、どのような経緯で、ソ連交渉団の一員となったのですか?

    チフヴィンスキイ:1955年から日米ソの間で、交渉をどこで行うかについて駆け引きが続けられていた。米国はニューヨーク行うよう強く主張し、いくつか他の提案もあった。最終的に、交渉はロンドンで開始される事に決まった。当時の駐英ソ連大使は、ヤコフ・マリク氏だったが、それまで彼は長く駐日大使を務めており、よく日本のことを知っていた。一方日本の駐英大使は、松本俊一氏だった。この二人が、交渉でのそれぞれの全権代表となった。当時私はロンドンで、参事官として働き、アジア・アフリカ・南米諸国との関係を担当していた。そうしたわけで対日交渉のための政府代表団スタッフが決められた時、私もそのメンバーに含まれた。

    記者:交渉は、どのような雰囲気の中行われたのですか? すべてスムーズに進んだのでしょうか?

    チフヴィンスキイ:米国が何度も干渉したにも関わらず、両国の間の戦争状態に終止符を打つ平和条約の条項のほとんどすべてに、合意することができた。ただ領土に関する条項だけは、調整に長い時間がかかった。日本側は自分達の路線を、我々は我々の路線を主張した。当初日本側は、エトロフ、クナシリ、シコタンそしてハボマイの島々について、そしてサハリンの北緯50度以南の部分について駆け引きを行った。ソ連側は、そうした提案を断固退け、日本にハボマイとシコタンを引き渡すという自分達のバリエーションを提案した。しかし日本側は、その受け入れを拒否した。コンセンサスは見つけられなかった。それ故領土問題は、ロンドンでの交渉において、解決されなかった。1956年3月には、交渉の一時停止があった。

    記者:しかし1956年秋には、交渉は再開されました。何があったのでしょうか?

    チフヴィンスキイ:この時までにソ連は、外国船に対するオホーツク海での漁獲規制を導入した。この措置が、まず第一に日本側を苦しませた。1956年5月、鳩山一郎首相は、モスクワに自分の友人である河野一郎農林相を派遣した。しかしモスクワで彼は、漁業問題ばかりでなく、平和条約をめぐる対話継続についても交渉した。そして1956年7月、今度は、そうした目的を持って重光葵外相がモスクワを訪れた。しかし、その時の交渉は、クリルの島々に関する立場の違いによりうまく行かなかった。当時、日本国内及び自由民主党内では、ソ連との関係復活路線の撤回あるいは弱体化を求める勢力が強くなり始めていた。彼らは、鳩山首相の解任さえ要求した。当時鳩山氏は『自分の選挙公約を遂行し、ソ連との国交を正常化してはじめて、私は退陣できる』と述べている。そして1956年秋、それまですでに重い病に侵され、車いすで移動していた鳩山氏は、モスクワ訪問を決めた。事実上、10月のモスクワ滞在中のすべての日々は、極めて厳しい交渉の毎日だった。フルシチョフはすでに忍耐力を失いつつあったし、鳩山氏も明らかに体調が悪かったと思われる。日本側は、交渉を終わらせなければ、失敗に終わってしまうと理解した。その結果、1956年10月19日、双方は、国交回復に関する共同宣言に署名した。そして翌11月、日本の衆議院で賛成365、反対あるいは欠席60で、この文書は批准された。続いて参議院でも批准され、12月8日には裕仁天皇が承認し、12月12日、東京で批准書の交換が行われた。一方鳩山氏は、自分の約束を守り、1956年12月に首相を辞任した。

    記者:あなたは、1956年の宣言をどのように評価しますか?

    チフヴィンスキイ:もちろんこれは、前進の一歩だった。両国間の戦争状態が終わり、すべての日本軍人が家に戻った。ソ連は、日本の国連加盟に拒否権を使うのを止めた。貿易発展と最恵国待遇相互付与に関する議定書の調印は、経済協力の可能性を開いた。私は、あらゆるファクター全体と米国の極めて非友好的立場を考慮すれば、あれがあの当時達成できた最大限のことだったと考えている。

    記者:1956年の宣言にある条件の上に立って、60年後の今、日本と平和条約を調印できると、あなたはお考えですか?

    チフヴィンスキイ:もちろん私は、二国間の議題すべてを難しくするこの問題を終わらせてほしいと思っている。それが可能であったにもかかわらず、我々がハボマイとシコタン2島を開発しなかったのは偶然ではなかったと思われる。現在、このバリエーションを受け入れるか否かを決めるのは、日本側だろう。2島が残され、ハボマイとシコタンが日本に渡されるというバリエーションは、最も合理的で達成可能なものだと考える。最終的に、この問題に終止符を打たねばならない。

    なお鈴木宗男元衆議院議員も、全く同じ立場をとっている。安倍首相は、鈴木氏のアドバイスに耳を傾けていると言われている。

    1956年の共同宣言は、ロシア側にとっても気に入らないものだ。なぜならハボマイとシコタンを日本に譲渡する義務があるからだ。一方日本側にとっても、クナシリとエトロフについて記述がないことは気に入らないだろう。しかし、関係正常化は、両国とも望んでいる。プーチン大統領も安倍首相も、領土問題解決に向け対話を続けることにはっきり賛成している。先日の記者会見で、ロシアのドミトリイ・ペスコフ大統領報道官は「遅かれ早かれロ日両国は、コンセンサスに達することができるだろう」と述べた。しかしそのためには、協力して突破口を開く必要がある。

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