モスクワで現代芸術家・森村泰昌展開幕:「見る、知る、創る」を越えて「なる」

© AP Photo / Chitose SuzukiРабота японского художника Ясумасы Моримуры "Внутренний диалог с Фридой Кало" в Институте современного искусства в Бостоне
Работа японского художника Ясумасы Моримуры Внутренний диалог с Фридой Кало в Институте современного искусства в Бостоне - Sputnik 日本
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1月31日、モスクワのプーシキン美術館で、日本の現代芸術家森村 泰昌(もりむらやすまさ)氏の個展が開幕した。森村氏は、あまり知られていないジャンルで活動するフォトアーチストで、セルフポートレートの手法を使い、自らの身体を使って世界的に有名な絵画や有名人などを表現する。その活動の本質は、他の作者の作品を、解釈しなおし自分の新しいオリジナルな作品を創りだす目的で、意識的に誇張して見せることにある。

プーシキン美術館のマリーナ・ロシャーク館長は、モスクワに森村氏を招くことを決めた理由について、次のように語っている-

「それは、彼が完全に日本の芸術家であり、とても奥が深い、大変よく感じ取る能力を持ち、変化する芸術家でありながら、自分自身というものを保ち、全く完全で一貫した美術家だからだ。」

​森村氏は、ロシアの観客に対する挨拶の中で「プーシキン美術館で個展を開き、そこで自分の作品が世界の偉大な芸術家たちの作品と共に展示されることは、自分にとって大きな名誉だ」と述べている-

「日本の大阪から、やってきた美術家の森村泰昌です。このたび世界有数の美術館である、ここプーシキン美術館で個展を開催することになった。素晴らしい作品をコレクションしている、そのコレクションに混じって私の作品も展示され、とてもうれしく又光栄に思っている。ぜひ多くのロシアの皆さんに足を運んで頂き、お楽しみ頂きたい。ダブロー・パジャーラヴァチ(ようこそ私の個展へ)!」

モスクワでは今回、大阪の国立美術館や東京の原美術館、京都国立近代美術館が所蔵するものの他、個人所蔵のものも含め、森村氏の作品およそ80点が紹介されている。レオナルド・ダヴィンチやデューラー、ヴァン・ゴッホ、カラヴァッジオ、レンブラントなど、さまざまな国、時代、ジャンルの画家の肖像画の中に自分の顔を加えながら、森村氏は、まさにその人物になりきっている。その際彼は、オリジナル作品制作の歴史や画家の人生について注意深く研究し、状況を再現し、入念にメイクや然るべき衣装を選んでいる。彼は、これまでの創作活動の間に、すでに約300ものそうした様々な作品を制作した。彼の目的は、画家を制作に駆り立てたものを理解し、実際彼らがどんな人物であったかを知ることにあり、そうした目的を達するため、森村氏は、彼らがいた場所に自分を置いてみようと試みているのだ。

​彼が、そうしたセルフポートレートを最初に制作したのは、1985年で、選んだのはゴッホだった。森村氏は、そうしたアートの形態を愛している。こうした表現手法に達するまでの過程について、森村氏は、次のように語っている-

『東京を愛したスパイたち』 - Sputnik 日本
『東京を愛したスパイたち』
「我々が美術に接する時、どういった接し方の方法があるだろうか?私は一般的には、次の3つであると思う。それは何かというと『見る』『知る』そして『創る』だ。『見る』というのは美術鑑賞だ。美術館に行って様々な作品を鑑賞することによって、私達は目から得た様々な情報をもとに、様々な点で知的な理解を得ることができる。 『知る』というのは美術研究だ。美術の世界では、美術研究に関する多くの資料がある。その助けによって私達は『見る』だけでは得られない多くの知識を得ることができる。 そして『創る』というのは、言うまでもなく絵を描いたり、彫刻を作ったりといった創作行為を示す。私は『見る』ことも『知る』ことも『創る』ことも好きなのだが、残念なことに、いずれの方法を使っても、美術を自分なりに理解できたという気持ちにはなれなかった。美術に対する十分な理解に通ずる糸口が見つからなかった。私は長い間、悩み続けた。自分にとって最良の美術への接し方となかなか出会えなかった。そして悩み続けながらも、続けてきた試行錯誤の果てに行き着いた方法が『見る』でもなく、また『知る』でもなく、あるいは『創る』でもなく、『なる』という方法だった。つまり様々な絵の中の登場人物に、私が『なる』『なってみる』という方法だった。」

スプートニク日本のリュドミラ・サーキャン記者は、森村さんにマイクを向け、ロシアの誰かに「なってみる」つもりはないかどうか、聞いてみた-

「ロシアでは小さな個展はこれまでにもあったが、今回のような大きな本格的なものは初めてで、大変うれしく思っている。私はこれまで、いろいろな作品を創っている。必ずしも自画像ばかりをテーマとしているわけではない。ただ私が、セルフポートレートをテーマにしている作家なので、今回の展覧会は、自画像の自画像というテーマで考えてみた。

私は、ロシア文学がすごく好きなので(トルストイやドストエフスキイなどに)大変興味がある。しかし顔が似た顔になったら、それでOKというわけではない。彼らの本を一所懸命読んだり、いろいろ研究しなければならないので、少し時間がかかるだろうが、自分は大きな興味を持っている。」

​森村氏の創作活動に対し、世界での受け止め方は様々だ。彼の作品を芸術だとみなす人もいれば、キッチュでフォトショップのようなものだと見る人もいる。これについて森村氏自身は、次のように考えているー

「人生においてはユーモアが重要な役割を演じている。軽いアイロニーが、私の作品を貫くようでありたい。もちろん、人々が私の作品の中に芸術を見てくれるようであってほしい。芸術、美術とは、社会生活の特別な分野だ。

例えば、殺人は文明社会にとって受け入れることのできないもので、それはタブーだ。しかし文学の中、例えば、ドストエフスキイの長編小説『罪と罰』の中では、若者が殺人を犯す。 
美術の世界でも、それをすることはできないだろうか? まさにそこのところが、人生と美術の違いなのだ。もし美術に対し、人生の他の領域に対するように対応し始めるならば、美術は、自分の機能を果たすのを止めるだろう。その時、常に出てくる問いは次のようなものだ。美術の中で何でもできることに、果たして意味はあるのか?というものだ。美術にとって大変重要なのは、批判的なアプローチであり、社会を傍らから見ることのできる力である。もし我々が、美術の中に、自己批判の目を保ってゆくのなら、あらゆることができるだろう。少なくとも私は、いつもそうしている。」

 

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