02:17 2020年10月31日
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第二次世界大戦中に日系人の強制収容を命じた大統領令が発令されてから、2017年で75年となる。米国史上、最大の強制退去だった。

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1940年代初めの真珠湾攻撃は米国政府と米国社会の心理に極めて大きな影響を及ぼし、同国のフランクリン・ルーズベルト大統領は9066号の番号を持つ、かの哀しくも有名な大統領令に署名することとなった。日本人の血をひく者は全員、たとえ16分の1でも日本人の血が流れていれば、収容所に収監すると決めた文書である。こうして、1942年、米国政府はほぼ全ての在米日系人、11万人を収容所に収監した。彼らの存在は「安全保障上、適当でない」と考えられたのである。中には、大西洋沿岸州に暮らす3万人の子どもたちも含まれていた。

これほどの過激な行為が行われた理由について、軍事史と日本の専門家、アナトリー・コシキン氏がスプートニクに詳細を語ってくれた:

「現在、文書から分かっていることは、当時、実際に多くの人がドイツや日本の諜報機関に協力していたということです。ですから、大統領令9066号は予防策と見なされていました。米国は、当時アジア系移民が数多く居住していた西海岸に日本海軍が攻撃を仕掛け、部隊が上陸してくる可能性を危惧していました。また、西海岸に居住するアジア系移民の中には、米軍艦船や潜水艦など、米軍の目標位置を無線や他の方法によって日本側に知らせることのできる者がいる可能性があると米国は考えていました。例えば、例の真珠湾攻撃でも、ホノルルには日本領事館がありました。私は、当時そこで外交官という名目で働いていた日本人諜報員の回想録を読んだことがあります。彼らは主に海軍の所属で、真珠湾で何が起こっているのかを詳細に偵察・監視していました。真珠湾攻撃が成功したのは、このおかげが大きいのです。」

しかし、だれかれ構わず連行されて、荷物も手に持てる量しか携行することを許されなかったのである。辺境の州に連れて行かれ人々は、ひどい設備のバラックに住まわされ、食事もろくに与えられなかった。

アナトリー・コシキン氏は言う:

「人権擁護団体にとってまず重要なのは、当然ながら、収容所に収監された日系人のうち、3分の2が、当時は取得が極めて困難だった米国籍を持つ人たちだったということです。つまり、すでに米国に住んで長い年月が経っている人たちだったのです。そのため、後年になって、この行為の違法性を訴えるキャンペーンが展開されました。しかし、精神的・物質的な補償を得るまでには、さらに40年の歳月を待たなければなりませんでした。1988年になってやっと、レーガン大統領が日系人強制収容を謝罪する文書に署名し、諜報活動とは関係なく強制収容され、生存できた人々に補償金が支払われました。」

収容所という劣悪な生活環境にあっても、多くの収容者は根気強く、米国政府に対する忠誠を証明しようと試みた。その結果、2年後の1944年半ばには、11万人のうち約2万人の日系人が収容所から釈放された。彼らは終戦まで米国沿岸部の都市に居住することが禁止された。収容所側は釈放者に25ドルと、事前に釈放者が自ら選択した居住地までの切符代を支給した。ルーズベルトの大統領令が廃止されたのは、1945年1月になってからのことである。

また、不幸にもヒトラーとムッソリーニと同じ民族だった人々が、ルーズベルト大統領令の対象となったことはあまり知られていない:ドイツ人1万1000人とイタリア人5000人が強制収容所に収監されたのである。さらに15万人が「要注意人物」に指定され、戦時中を通して諜報機関の監視下に置かれ、米国内の全ての移動を通知させられた。

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歴史, 日本, 米国
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