日本人にとってのウラジオストク:浦潮本願寺からスマートシティまで

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3月初旬、日本の民間企業や国土交通省の代表者らがウラジオストクを訪れた。訪問の目的は、ウラジオストク凝縮の発展共同マスタープランを協議すること。

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沿海地方のワシーリー・ウソリツェフ副知事によると、沿海地方当局は都市開発の戦略的計画を含む日本との協力に関心を持っている。副知事は特に、日本は隣国であるばかりでなく、アジア太平洋地域におけるロシアの信頼できるパートナーだと指摘し、次のように語った-

「累積投資では、沿海地方の外国パートナーの中で日本が1位だ。沿海地方では今、日本が参加する企業が30社以上活動しており、日本の銀行2行の支店が設置されている。『住友』が参加する木材加工や、『マツダ』との自動車組み立て製造に関するプロジェクト(同プロジェクトは新たな刺激を受けた)など、大きな成功を収めているビジネスの例もある。 経済特区の新たな特権を使ってエンジン製造を展開する計画もある」。

ロシア・エコロジー建設評議会のアレクセイ・ポリャコフ理事長は「スプートニク」のインタビューで「日本はスマートシティ概念に関するリーダーの一つであり、ロシアを含め世界中の国々とそれを積極的に分かち合っている」と述べ、次のように語っている-

「日本の建築家たちは米国、中国、その他の国々の都市のためにマスタープランをつくっている。さまざまな都市、さまざまな国があり、彼らにとって最も切実な問題が取り上げられている。野村総合研究所のスタッフたちはロシアのためにヴォロネジ、ヴォルゴグラード、ノボシビルスク、カザン、ウラジオストクの都市インフラを向上させる五つの主要なベクトルを提案した。そこには都市交通問題の解決、有害物質を使わない住宅建設、産業廃棄物や一般廃棄物の進歩的な処理方法の導入が含まれている。ロシアの都市にとってこれらはきわめて重要かつ必要だ。ヴォロネジのための計画の作成は大方終わった。そしてそのうちの多くのプロジェクトが、ウラジオストクにとっても切実なものとなっている。だがウラジオストクは地域最大の巨大な交通ハブであり、そこから問題や課題が生まれている。だが日本人は同じような経験を有しているため、適切なものを提案するだろう。スマートシティ概念とは非常に多面的で、今も発展し続けている。その30年以上の歴史の間にたくさんの『アクセント』があった。現在は人に主要なアクセントが置かれており、すべての改善は人々の関心に基づいて行われている。スマートシティ最新版の3つのキーワードは、快適性、利便性、そして人の安全性だ。だが人々は快適さの受動的な消費者としても、実際に概念を実現する積極的な参加者としてもみなされていない。そのため環境教育やエネルギー消費における規律、ごみの分別、その他たくさんのことが必要だ。これに関する日本の経験はロシアにとってきわめて重要だ」。

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ウラジオストクは日本人にとってヴォロネジよりもはるかに身近な都市だ。地理的に近いだけではなく、ウラジオストクの多くの建築遺産が、日本の精神を宿している。1880年代、主に長崎から大勢の日本人がウラジオストクへやってきた。まず最初に訪れたのは商人、宝石商、料理人、理髪師、そしてさまざまなサービス分野の従業員だった。彼らの中には、日本の商店の番頭としてウラジオストクにやってきた人たちもおり、すぐに町に慣れ、しだいに裕福になり、独立して商売を始めた。1903年には、ウラジオストクにあった281社のうち92社が日本人に所有されていた。露日戦争前にはウラジオストクに3000人の日本人がおり、日本の商店は54店、大きな事務所や銀行も複数あった。1908年にには日本貿易事務館が領事館となり、1916年に領事館のための新しい建物が建てられ、今に至っている。1946年5月に在ウラジオストク日本総領事館は閉鎖されたが、1992年に再び開館された。

1914年から1937年までウラジオストクでは西本願寺(浦潮本願寺)が活動していた。浦潮本願寺の最後の住職の妻、戸泉米子さんの著書「リラの花と戦争」では、寺とウラジオストクでの生活が書かれている。さらにもう一つ、日本と密接につながりを持つものがある。それは与謝野晶子の歌碑だ。与謝野晶子は1913年、シベリア鉄道で恋人のいるパリへ向かうためウラジオストクを訪れた。そしてウラジオストクで歌集『夏より秋へ』の中の「旅に立つ」という詩が詠まれた。ウラジオストクの住民たちは今もこの詩が刻まれた歌碑に花を手向けている。

 

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