17:36 2019年12月11日
金正恩

頭領のための命 北朝鮮の最高指導者らの警備法は?

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12万人の警備、秘密戦車中隊、4層の警備線に選抜されたボディーガード。北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長が自らの安全保障のため用いる措置は想像を絶し、史上類を見ないものだろう。だが金王朝がこの間、権力を維持できたことはこうした措置に多くを負っている。

スプートニクは、北朝鮮の最高指導者がいかに警備され、誰がいつ暗殺を企てたかをまとめる。

帝国主義者の計略

未来の偉大な北朝鮮の最高指導者である金日成は、権力の座についた最初期から自らの命を危惧する必要があった。1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会の委員長に選ばれ、3月1日には暗殺が企てられた。若き指導者の死は確実だと思われたが、ノヴィチェンコ少尉による手榴弾を自らの身体で包み込む英雄行為が命を救った。

金日成の死を願うものは当時少なくなく、解放された朝鮮半島に対する後見条件を受け入れない急進派国粋主義者や赤軍の元大佐である金日成が活発に創設を推進したソヴィエト政体の敵対者などだ。そのため、すぐに金日成の住居は騎馬隊がパトロールするようになり、公的な行事ではセキュリティ措置が強化された。一方この措置も、さらに2件の襲撃を邪魔するものではなかった。

朝鮮民主主義人民共和国首相の金日成氏 ソビエト兵の「朝鮮解放」を称える表彰式典で
© Sputnik / ヤーコフ・グトコフ
朝鮮民主主義人民共和国首相の金日成氏 ソビエト兵の「朝鮮解放」を称える表彰式典で

ある祝賀行事中、米国が雇った朝鮮の通訳者が金日成を銃撃するも、警備大隊の兵士が金日成を銃弾から自らの身体で防いだおかげで命は助かった。2度めの企ては刃物によるもの。襲撃者は迅速に押さえつけられたが、自白防止に毒入りカプセルを噛み砕いた。

1948年、警備大隊を持つ朝鮮人民軍が創設。同年に朝鮮民主主義人民共和国が建国されると、ソ連軍の撤収がはじまった。金日成は、ハバロフスク近郊でソ連第88独立狙撃旅団に従軍していたころから見識のある一部の兵士には警備として残るよう頼むが、1949年までには全員が撤収。安全問題はもはや金日成自らが解決しなければならなかった。

ソビエト軍の部隊は1948年に朝鮮民主主義人民共和国から撤収 1948年9月9日、金日成首相を元首とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の樹立宣言
ヤーコフ・グトコフ
ソビエト軍の部隊は1948年に朝鮮民主主義人民共和国から撤収 1948年9月9日、金日成首相を元首とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の樹立宣言

敵対的要素

金日成は親衛隊の長には最も親しく信頼のおける友人だけを配備した。後に警備部局に変わる最初の小さな部隊は1945年10月、金日成の朝鮮半島帰還後すぐに創設された。

しかし、不首尾に終わった朝鮮戦争とソ連でのスターリン批判後、金日成に新たな敵、内側からの敵が発生した。ソ連や中国系朝鮮民族の反対派の党員の多くが、金日成の失脚を狙った。金日成は最終的に打ち勝つが、生まれたばかりの単一権力体制に向けられた脅威を感じ、警備担当の人員と機能を大きく拡大し、組織は1958年、パルチザン派出身の忠実な幹部に委ねられた。

「後継者」作戦

北朝鮮幹部の安全保障において大きな変化が起こったのは、金日成の長男である金正日が後継者として最終決定された後だ。1977年には金正日に警備が当てられ、翌年には300人からなる個人的な親衛隊が形成された。

親衛隊の選抜は非常に厳しいものだった。身体的な持久力や心理的な性質のチェックに加え、中央委員会の責任者は候補者と四従兄弟姉妹にいたるまでの親族全員の政治的忠誠度を評価した。その後、17歳の兵士たちは6ヶ月に渡りイデオロギー教育を受け、テコンドーや射撃、警備術を学び、その後ようやく金正日の警備につくことを許された。

金正日が1982年、初めて正式に後継者として名を挙げられた時、金正日の家や執務室だけでなく、金正日が様々な季節に急速に訪れることを好んだ14戸もの別荘の安全保障も必要とされたため、警備は1500人に増強された。

党指導部の警備コンセプトはその時、全平壌に拡大し、平壌への入域は別の警備部隊が管理するようになった。特別防衛部隊は米国による侵入や暴動やクーデターの際に平壌を警備する機能を果たすようになった。

鉄の将軍

1989年、ルーマニアで革命が起き、当時の大統領で金日成の旧知の仲だったニコラエ・チャウシェスクが銃殺刑に処され、1991年には当時のエチオピア大統領のメンギスツ・ハイレ・マリアムが将軍らの裏切りにあい、亡命を余儀なくされる。うち多くの将軍は北朝鮮で教育を受けていた。

北朝鮮ではこれを受けて迅速に結論を出した。思想統制と親衛隊の八従兄弟姉妹にまでいたる親類と子どもの政治的忠誠への要求を強化された。軍事クーデター防止を目的とする特殊部隊の数が増加し、金家の個人的な安全を保障する隊員は計6万から7万人に上った。総局は一方、統一護衛部隊に変成され、平壌の上層部や指導者の食事に使われる食材を栽培する農業組合の警備をする全人員を管理下に置いた。

平壌空港の儀仗兵中隊
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平壌空港の儀仗兵中隊

父の遺言に則り

一方、北朝鮮指導部の警備が初めて社会の注目を浴びたのは金正日が2001年と2002年にロシアを訪れたときだった。

金正日の護衛は多くなく、およそ25人だったが、ロシア側が取ったセ キュリティ対策は多くの点で前代未聞だった。平壌からサンクトペテルブルクにいたる全鉄道区画が特別管理下に置かれ、保険のためブースター機関車が戦闘車両を先行し、停車駅は事前に全て安全を確認され、市内では自国の警備員を引き連れ、北朝鮮側が持ち込んだ装甲メルセデスで移動した。同様の訪問は2011年にも組織された。その際にもメディアへの事前アナウンスは無かった。

2011年8月24日、朝鮮民主主義人民共和国国家国防委員会議長の金正日氏(中央)が車から降り、メドベージェフ大統領との面会に向かう ロシア・ブリヤート共和国の軍駐留地帯「ソスノヴィ・ボール」にて
© Sputnik / セルゲイ・グネーエフ
2011年8月24日、朝鮮民主主義人民共和国国家国防委員会議長の金正日氏(中央)が車から降り、メドベージェフ大統領との面会に向かう ロシア・ブリヤート共和国の軍駐留地帯「ソスノヴィ・ボール」にて

金正日の複数の元警備兵の証言によると、この措置には正当な理由がある。というのも、2000年代初頭まで最高指導者が出席する行事開催地には5、6個の爆発物が見つかり続けたの だ。金正日は2011年12月7日に死亡した。

金正恩・朝鮮労働党委員長にとっても事態は容易にならなかった。金正恩氏の継承後、護衛指令部の兵士は過去最大の12万人に増加。一方、暗殺は一層洗練された手法で企て続けられている。韓国による金正恩氏など北朝鮮指導部の暗殺作戦を担当する特殊部隊創設という最新の計画を受けて、金正恩氏は元KGB職員を警備につけようとすら試み、親衛隊の人数を3、5千人から1万5千人に増加させた。しかし、これが父や祖父を助けたように新たな指導者の助けになるかは時が示す。

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