18:51 2018年08月21日
兄弟の像

痛みと涙にまみれて 朝鮮戦争休戦65周年を韓国はどう迎えるか

CC BY-SA 3.0 / Danleo / The Statue of Brothers in Seoul War Memorial
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アンドレイ オリフェルト
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朝鮮戦争休戦からすでに65年が経った。だが当時の恐怖全てを生き抜いた人びとの涙はまだ流れ続けている。朝鮮戦争は数十万人の命を奪い、全朝鮮民族に癒せない精神的トラウマを与えた。今日、朝鮮半島の南では武器を手に戦争を経験した人、銃後で厳しい試練を受けた人、そしてかつては統一されていた朝鮮半島を分断した2つのシステムのイデオロギー対立の犠牲者になった人が偲ばれている。

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英雄たち

ソ・チョニョリュさんは今年93歳を迎えるが、ソウルから東にある加平郡の山に何度も向かっている。

「ここには私の部隊の兵士らがいるはずだ。彼らの遺体はこのあたりにある。だから私はここを訪れる。ただ、彼らの墓に祈りたい」と朝鮮戦争の従軍経験を持つ彼は語る。

彼は若いころから機会を見つけては、熾烈な戦いが行われたこの場所を訪れ、戦時中に全ての喜びと憂き目を分かち合った戦友たちが葬られたであろう場所を探している。

裏切り者たち

当時の当局から北朝鮮のシンパだと疑われた韓国一般市民も劣らず非業の運命を辿った。退却した韓国軍部隊、軍事警察、反共産主義を掲げる過激派組織のメンバーは開戦後、裁判と捜査なしにいわゆる「国民情報連合」のメンバーの銃殺を開始。連合には先に、政治的に信頼の置けない人物全員「再教育」のため強制的に加盟させられていた。こうした「浄化」によって、最大20万人の韓国人が亡くなったと算出されている。しかもうち多くは共産主義地下組織と全く関係なかった。

1950年7月に同国南部ヨヤニ村で起きたこうした凶行を生き延びた人物は、このおぞましい出来事を思い出すことすら辛いと語る。

ある韓国メディアは同地に住む女性の言葉を紹介している。

「遺体を埋めることになった男性は、まだ生きていた人びとが最期まで助けを求めていたと語るとき、しくしくと泣いていた。だが近くには銃殺を実行した警察が立っており、彼らを助けることはできなかった。」

長い間、この犯罪行為の証言者が目撃証言を語ることは殺害の脅迫を交えて禁じられていた。そして北朝鮮ほう助を疑われただけで処刑される恐怖は、今にいたるまで一部の人に根付いている。

難民たち

1953年7月27日の休戦協定締結は戦争を止めただけでなく、朝鮮半島の南北分裂を最終的なものにし、多くの朝鮮人の心にもはや戻れない小さな祖国に対する永遠の悲しみを残した。

おそらく、強いられた移住者のもっとも鮮やかな例は文在寅大統領の父、文・ヨンヒョン氏だろう。現在の北朝鮮の東岸にある興南区域からの脱北者であるヨンヒョン氏は朝鮮戦争勃発後から韓国南部の巨済島に移住。だが、同地での生活はゼロから苦労して築き上げる必要があった。数多の困難と家族の将来に関するつきまとう憂慮から、1978年、ヨンヒョン氏は心臓発作で急死した。

一緒に韓国に到達した文大統領の母は、練炭や様々な中古品を市場で売って生活の糧を稼いだ。2004年、彼女は息子の文大統領とともに、生き別れの家族らの面会で、2歳から離れ離れになっていた自身の妹と会うことができた。

だが彼女はすでに68年間も小さな祖国を訪れておらず、もう一度訪れることが出来るかは定かでない。

兄弟

韓国の約4分の1は観たことがあるという同国でもっとも人気がある映画の1つ「ブラザーフッド」は、違う陣地に属しながら戦場で再開した兄弟たちの実話を基に制作された。彼らについては、最近とみに思い起こされている。

こうした戦いのうち1つで、北朝鮮は12日間で15回、韓国軍が守る高台328を制圧しようと突撃した。そして戦火によって断絶した兄弟は毎日、お互いを撃つことになったのだ。

兄弟殺しの戦争の恐怖については、ソウルの戦争記念館にある「兄弟の像」も想起させる。この像もまた、離れ離れになった親類が戦場で会う実際の出来事を物語るものだ。だが今日、この像はおそらくより象徴的に受け止められるだろう。なぜならお互いを殺すことを強いられた兄弟たちの悲劇は、韓国と北朝鮮で同様に痛々しく思い出されるからだ。そして今日、南北朝鮮は、この65年間の休戦にケリをつけるためにこれまでにないほど近い状況にある。

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文化, 歴史, 北朝鮮, 韓国
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