世界一美味しい羊料理「キュル」
ロシアの仏教国カルムキヤ
まぼろしの伝統料理を日本人が体験

文・写真:徳山あすか

モスクワ在住のカルムキヤ人、ドミトリー・オルソフさん
この春、ロシアの色々な場所を旅した。中でも印象に残ったのが世界で最も西にある仏教国、カルムキヤ共和国への旅だ。人口約27万人、そのうち3分の2がモンゴル系の民族、カルムキヤ人であり、ロシアの中にありながらモンゴル的な要素が色濃く残る。カルムキヤ人の友人、ドミトリー・オルソフさんの誘いで、他の在モスクワ日本人の皆さん数人と一緒に行くことになった。

日本人でこの魅力的な場所に関心がある人、訪れた人はそれなりの数にのぼり、ネット上では「カルムイク」「カルムキア」などと表記が混在しているが、日本語が非常に堪能で、神戸に8年間住んでいたドミトリーさんによれば「カルムキヤ」が一番しっくりくるというので、本稿ではそれを採用する。
カルムキヤでは、チューリップ畑への遠征やお寺の見学など色々楽しいことがあったが、今回はあえて、キュルだけを紹介したい。キュルとは、羊の胃袋の中に肉をつめ、地面に穴をほって、長時間かけて土の中で肉に火を通す、カルムキヤの伝統料理だ。実は筆者は羊肉があまり好きではなかったのだが、キュルの後では世界観が変わったくらい、美味しかったのである。
モスクワから毎日直行便が飛んでおり、わずか2時間のフライトなので、カルムキヤ旅行自体の難易度は低い。が、キュルを食べるとなると話は別だ。キュルは、時間と人数、お金、そしてキュルを作ってくれる職人、肉を埋める土地、穴掘りの労力など、全ての条件が揃わないと食べられない。土に埋めてから最低で8時間、最大で20時間も待つ。できたてを食べるために人数を集める必要があるし、羊の胃袋を手に入れるには一頭買いせねばならず、費用的にもかさんでしまう。

旅行を決めた段階で、ほとんどのメンバーはキュルという料理の存在を知らなかったのだが、一人だけカルムキヤへ行ったことがある日本人女性がいた。モスクワ在住の藤田夕子さんだ。藤田さんは、昨夏のカルムキア初訪問で数日だけ過ごすつもりが、とても気に入って3週間も滞在した。彼女が事前にキュルの手配を頼んでいてくれたおかげで、私たちもこの素晴らしい料理を味わうことができたのだ。
朝7時に集合し、車で市内のゲルに到着。ゲル横のスペースには、キュル用の穴が準備されていた。ここは地元の有名人、レオニード・オチルゴリャエフさんが経営する「ラクダの島」という観光スポット。カルムキヤの伝統的な畜産業を残そうと、様々な動物を飼育し、その模様を世界に発信している。そこの敷地を借り、キュルを調理するのである。

キュルを作るため近郊の村からわざわざ来てくれたのは、バクール・ズルガダエフさんだ。バクールさんの本業は乗馬クラブのオーナー兼インストラクター。最近落馬し、この日は松葉杖をつきながらも来てくれた。キュルはもともと、草原での戦いにおいて、食器も何もなくても美味しくお腹一杯食べられるようにと考えだされたものだ。味付けはシンプルに玉ねぎと塩だけで、羊肉そのもののシンプルな美味しさが味わえる。バクールさんが丁寧に、肉を胃の中につめていく。どんな体格の羊でも、すべての肉が(自分の)胃の中におさまる。羊とは、そういうものだそうだ。
羊を締める際には、胸元に10センチほどナイフを入れ、手を差し込み、大動脈を指でつまんでちぎり、苦しまないように一瞬で絶命させる。流れ出た血は羊の体内にたまるので、大地を汚さない。血はあとでソーセージにする。現在40歳のバクールさんは子どもの頃からこの技術を「見て覚えた」という。昔はカルムキヤ人の男性なら誰もができたが、今これができる人はかなり限られている。

穴はあらかじめ炭火であたためておく。肉をつめた胃袋は汚れないようにアルミホイルで巻き、バクールさんの指導のもと、棒にくくりつけ穴に吊るす。穴を埋め、最後に土の上に炭を置く。あとは待つだけだ。
昼間はチューリップ畑に観光に行き、夜8時すぎ、再びゲルの横に集合した。肉を掘り起こすと、焼き鳥屋さんの前を通ったときのような食欲を刺激する香りがあたり一面に広がった。

引き上げた肉をアルミホイルごとタライに入れ、車に積み、堂々とレストランに持ち込んだ。(ロシアのレストランは持ち込みに寛容だ)車の中は芳ばしい香りでいっぱいになった。

待望の、アルミホイルを開ける瞬間がやってきた。肉を取り分けようとすると、ナイフを使わなくても、やわらかくてほろほろと崩れる。玉ねぎは影も形もなくなっており、出てきたのは肉だけ。そこにいた全員が、あまりの美味しさとやわらかさに、言葉を失うほどだった。臭みは全くない。キュルがどんな味か一言で言うのは難しい。と言うのは、肉の部位によって、繊細だったり、しっかりした風味があったり、肉の旨味がストレートに伝わってきたりと、色々と違う味が楽しめるからだ。
宴席で、地元の国立大学に通っているドミトリーさんの甥と話をした。キュルは好きですかと聞くと、生まれて初めて食べたと言う。よほど豪華な結婚式とか、とても大事な客が来る、といったイベントでないと出てこないのだそうだ。彼も含めて、カルムキヤの若者は、モスクワや海外に出ることを夢見ており、地元文化にはほとんど関心がないという。これはおそらく、ロシアの少数民族が抱える共通の課題だろう。
後日、カルムキヤ旅行をしたメンバーで、モスクワで同窓会をする機会があった。やはりキュルが一番思い出に残ったという男性は「キュルにまつわるエピソードを教えてもらったから、余計に美味しく感じたんじゃないかな。草原で戦いに行った兵士が夜食べられるように、朝に準備しておくという話や、キュルを食べた後に水を飲んで消化を遅らせることで、次の日まる一日食べなくても闘えるようにした、という話がとても印象的だった。食と文化は切り離せないものだね」と振り返った。
カルムキヤでは、羊も美味しいが他の肉もとても美味しい。特に牛肉入り焼うどんなどは絶品だ。滞在中、彼らの食卓に肉が欠かせないということがよくわかる、数々の名言を耳にする機会があった。「カルムキヤ人にとって、鶏肉はデザート」「朝ご飯は肉、昼ご飯は肉、夜ご飯ももちろん肉」「野菜は動物の食べもの」などである。


ロシアにはブリヤート共和国という、やはりモンゴル系の民族が多く住む場所があり、カルムキヤ人ともたくさんの共通点があり面白い。藤田さんいわく、「肉そのものが美味しいのはカルムキヤ、肉の旨味をとじこめるのがうまいのはブリヤート」だそうだ。たしかに、ブリヤートには「ブーズィ」という、小籠包に似たような料理があるが、カルムキヤにはない。あくまで小細工なし、ストレートに肉を食するというのがカルムキヤ流なのである。
同窓会には、モスクワ在住のオペラ歌手で、カルムキヤ人女性のギリャーナ・ドルジエワさんがゲスト参加し、圧倒的に美しい歌声を披露してくれた。彼女のような現代っ子も、肉ばかり食べているのか?と聞いてみると、実際にその通りなのだという。モスクワで主に買うのは牛肉で、鮮度が低いので羊肉は絶対に買わないそうだ。「羊はその日の朝まで生きていたものしか食べません。日本人の、魚に対する考え方もそれと同じじゃないでしょうか?羊を食べるときは、地元からモスクワに持ってきます」と話してくれた。

藤田夕子さんに、キュルの魅力について話を聞いた。

「キュルってレストランのメニューには必ず載ってますが、絶対に無いんです。1か月前に予約してもらえれば用意しておくよ、と言われたりして。カルムキヤで友達になった人たちに聞いてみたら、全員名前は知っているけど、食べたことはないという人がほとんどで、まぼろしの料理なんですね。あらためて、こんな貴重なものを作ってもらって本当に良かったです。

私たちが行ってから、キュル職人のバクールさんは、ロシア人観光客用にキュルを作るようになりました。思いのほか、需要があることがわかったそうです。きっとこれまで知られていなかっただけで、知名度が上がれば、もっと人気になると思います。

今回は汚れないためにアルミホイルで包んで、棒で吊るしましたが、本来は肉をそのまま穴の中に埋めるものだそうです。土の中のミネラルと塩分が浸透して、さらに美味しくなる。そういうワイルドなキュルを、いつか食べてみたいです。」

藤田夕子さん
エキゾチックな魅力がつまったカルムキヤ。ロシアにいながらロシアでないような、どこか懐かしさを感じさせる不思議な場所だ。まるで親戚の家におじゃましたかのような温かな笑顔のおもてなしと、ここでは紹介しきれなかった名物料理の数々を堪能しに、ぜひ訪れてほしい。

© 徳山 あすか / スプートニク日本

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