Sports.ruによれば、レスツォワ氏は五輪史上、2種の競技(バイアスロンとクロスカントリー)で2つの金メダルを、またソ連崩壊後の1994年のリレハンメル五輪で3つ目の金メダルを獲得した類まれな選手。ノルディックスキー世界選手権でも3つの金メダルを勝ち取っている。
レスツォワ氏の話では、ソ連代表団はレスツォワ氏の妊娠を知った時、まず40キロの自転車走行トレーニングをやらせ、その後中絶をさせるために病院にやった。
レスツォワ氏は「(中絶は)強制されたんです。国にはメダルが必要だったから」と語る一方で、最終的な決断は自分で下したこと、当時の自分は五輪出場は最初で最後になる可能性があるため、スタートを逸してはならないと考えていたと明かしている。結果としてレスツォワ氏は中絶に同意はしたものの、アパートの付与を要求。その後の人生では4人の娘に恵まれた。
レスツォワ氏は1988年カルガリー五輪女子バイアスロン4×5キロリレーで金を、個人20キロで銀をとった。ソ連崩壊後の1992年アルベールビルではバイアスロンの7.5キロスプリントと、1994年リレハンメル五輪女子バイアスロン4×7.キロリレー5で2つの金メダルを獲得している。
スポーツ選手はメダルという高い目標に到達するために多くの犠牲を払わざるを得ない。ロシア人女子フィギュアのエリザベータ・トゥクタミシェワ選手も、五輪出場が女子の早期引退に影響しているとの見方を示している。
成功の光と影
同じような境遇にいたソ連女子選手は他にもいた。女子フィギュアのキラ・イワノワ選手(享年38)。
イワノワは1984年サラエボで銅メダル、翌年の世界選手権、欧州選手権で2つの銀に輝いた将来有望な女子だったが、綺羅星のようなスポーツ人生の裏で実生活は悲劇と失敗の連続だった。妹の自殺、切羽詰まった中絶、仕事もなくし、辛い離婚を経験し、最後は自宅で包丁で背中を刺された姿で発見された。
真逆の例が日本に
これとは逆に、五輪直前に妊娠がわかり、出場を辞退したが受け入れられず、そのまま参加したという選手が日本にいた。
朝日新聞の報道によれば、1964年インスブルック五輪に出たスピードスケートの長久保(旧姓高見沢)初枝さん(81)がそうだ。女子1000メートルレースで転倒し、出血しながらも滑り抜き、3000メートルでは6位入賞を果たしたという。その時に一緒に走ったお腹の子どもは五輪から8か月後、無事に誕生した。日本だけではない。世界には妊娠したまま五輪出場し、メダルを獲得した選手らがまだまだ存在する。
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