『ロシア革命一〇〇年の教訓』(15)

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『ロシア革命一〇〇年の教訓』(15) - Sputnik 日本
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今回は「第3章 「ロシア無頼」という教訓」の第一節をご紹介しよう。

ロシア革命 - Sputnik 日本
つぎの拙著へ向けて:『ロシア革命100年の教訓』(仮題)
第3章 「ロシア無頼」という教訓

1 無法が法

ロシア革命の本質を本音で語った唯一の日本人は内村剛介であろうと筆者には思われる。その著書『ロシア無頼』を読めば、ロシアの真実がわかるような気がする。一九四五~五六年までラーゲリに抑留されていた内村だからこそ指摘できるロシアの内実があるからだ。

彼の刺激的な見方を紹介しよう。

「銀行を暴力で収奪したヤクザが若い日のスターリンであった(一九〇七年六月、国立銀行の巨額金塊を輸送する馬車がスターリンらに襲撃:引用者註)。その貢(みつ)ぎでレーニンが海外で暮らした。ペン一本で稼いだトロツキーは職業を持っていたから、このスターリンのやり口を許せなかった。レーニンやスターリンはトロツキーのように自分の手で稼がなかった。つまり職業という職業を持たないで革命だけを商売にした。そして自分自身を職業的革命家とかなんとか称しているが、この「無職ゆえの職業的革命家」は「無職のロシア無頼」とその信念、その手口において親類関係にあることは疑えない」(内村, 1980, pp. 63-64)。

「「ボリシェヴィキを縛る法なんてものはない」というのがレーニンである。ボリシェヴィキはレーニンのひきいるロシアの共産党だが、この党はこと自分に関しては一切の法を認めない。「すべては許されてある」とドストエフスキーのスメルジャコフまがいに言うのである。法のないことをすなわち無法を二〇世紀の新たな法とするのがボリシェヴィキである」(内村, 1980, p. 28)。

といった辛辣な放言が並ぶ。なお、明確に指摘しておかなければならないことは、スターリンが「二重スパイ」であった可能性がきわめて濃厚であることだ(Radzinsky, 1996=1996, 上, pp. 135-136)。内村のスターリン評は「当たらずとも遠からず」の印象をもたらしている。

ロシア語では無頼の徒を「ブラトノイ」ないし「ヴォール」と呼ぶ。後者は「法にのっとった盗賊」のようなかたちで使われ、「盗賊」の意に近い。前者は、内村によれば、「ブラート(コネ)の人」、「結びあった人」、「血盟の人」を意味する(同, pp. 37-38)。「ブラート」はユダヤ人の言葉、イディシが起こりで、一九世紀から、いまのウクライナのオデッサで用いられはじめた。その後、ロシア語化し、犯罪者たちの頭目がロシア全土にわたる組織をつくったのだという。ブラトノイ同士の連帯は固く、ブラトノイを文字通り命をかけて守る。ブラトノイ集団は集団側が新メンバーを採用することによって増員してゆく。だが、希望者側の申し出を検討することはしない。既存のブラトノイが入会を提案するのだ。ブラトノイは「法」なるものを軽蔑し、自分たちだけの不文律が彼らにとっての「法」となる。

内村は、ソヴィエト政権はよく組織だった連帯の堅固なブラトノイの世界に対して、「一九一七年以来不断の戦いを挑(いど)んで今日に至っている」と記している。しかし、それはソヴィエト政権とブラトノイの世界の異質性を意味しない。むしろ、両者は驚くほど近似している。「無頼は彼ら固有の人間の尊厳を守るためにこそ掟があると信じているが、その掟を制定する原理を見ると、まず目につくのは全体主義である」という内村の指摘は実に興味深い(同, p. 46)。全員一致を原則として例外を認めない全体主義を特徴としており、「無頼全体主義社会へいったん入った者は、全体が一致しない限りそこを出られないといったことになる」のだ。だからこそ、ソヴィエト連邦はロシア無頼に通じるものがある。そこに通底するのは、無産の原則である。「無頼も共産主義者も無産の原則においては似た者同士である」のだ(同, p. 61)。さらに全員一致の原則も共通している。「民主集中制」と称して、事実上、全員一致の「民主主義」がソ連でまかり通っていたことはあまりにも有名だ。

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『ロシア革命一〇〇年の教訓』(2)
ロシア無頼の起こりは農奴制と深くかかわっている(同, p. 34)。「コサック」はトルコ語の「向こう見ずの人間」を起源としており、有名なドン・コサックはイワン四世の圧政を逃れたロシア正教徒が武装した集団であった。ロシアでは、自由は逃亡を意味したのであり、その逃亡者のうち、二度と生業につかぬ者が現われた。これがロシア無頼の起こりではないかと、内村はのべている。

この逃げ出した者はいわば、無国籍者であり、所有権のような権利をも喪失する。人権そのものをなくした者と言えるかもしれない。実は、本書で何度も紹介しているアーレントは、「全体的支配への道の決定的な第一歩は人間の法的人格を殺すことだった。無国籍者の場合この殺害は、彼がすべての現行法の保護を受けられなくなることで自動的に完了する」とか、「人間からその権利を奪うこと、人間の裡にある法的人格を殺すこと、これは全体的な支配がおこなわれるための前提条件」と指摘している(Arendt, 1951=2014, pp. 246, 252)。実は、第一次世界大戦後、こうした人々が大量の難民や亡命者のかたちで中・東欧地域に大勢いた(黒瀬, 2004, p. 81)。それは、農奴からの逃亡としてロシア国内にいた多数の無頼の存在と類似している。そこに、アーレントのいう『全体主義の起源』があるのかもしれない。

「共同体家族」という価値観

ここで、地球規模での「家族の起源」を探究したエマニェル・トッドの大著『家族システムの起源』にある興味深い指摘を紹介しておきたい。「内因性の共産主義革命が起こった国(ロシア、中国、ユーゴスラヴィア、ベトナム)と、民主主義システムの枠内で共産党が多数の得票を見せる地域の大部分(イタリア中央部、フィンランド北部)では、伝統的農民層において、共同体家族という特殊な人類学的形態の存在を確認することができた。それは、最大限の世帯発展様態において、父親とその既婚の息子たちを連合させた世帯を作るものである。共産主義イデオロギーの発達に必要な価値観は、革命扇動者たちよりも以前に存在していたということになる」というのがそれである(Todd, 2011=2016 上, p. 17)。ここで言う「共同体家族」とは、一組の夫婦が子どもを生産し、婚姻の時期がきてもすべての男子は両親の世帯に残り、己の妻をこの世帯に組み込む一方、女子は両親の世帯を出て、夫の世帯に合流しなければならない家族制度を意味している。「家父長家族」とも言う。

さらに、興味深いのは、世帯主の権力が強大で上意下達システムが強固に働く縦型共同体家族と、兄弟あるいはイトコ間の横の関係が重視される横型共同体家族を区別することができることである(同, 下, p. 503)。ロシアのボリシェヴィズムの厳格さは前者に対応し、セルビアやイタリアの共産主義は後者に属しているのだ。ロシア革命一〇〇年を契機として、こうした民衆レベルにまで踏み込んだ家族システムの差異に注目することこそ必要なのではないか。とくに、ロシアは中国、セルビア、ベトナムとともに、権威主義的・平等主義的な外婚制共同体家族類型をとっており、父方居住共同体家族であるために、巨大な生産集団の集合を可能にする代わりに、継続性を許容しない。父親の死後、集団の分裂を引き起こしかねない(Todd, 2011=2016 上, pp. 201-202)。農民の世界では、家族は義理の姉妹同士の敵対関係によって引き裂かれてしまうのだ。彼女たちは母親となるや、それぞれの夫の子どもの利益のために兄弟の仲を裂こうと努めるからである。

こう考えると、ロシア革命は父親(ツァーリ)の権威を廃することに成功したが、共産主義という新たな権威を守るために党と政治警察の権威を必要としたのは当然ということになる(同, p. 202)。強い権威がなければ父方居住共同体家族は簡単に崩壊してしまうからだ。

『ロシア革命一〇〇年の教訓』(3) - Sputnik 日本
『ロシア革命一〇〇年の教訓』(3)
ハムたるロシア無頼の徒党・共産党中央部

旧約聖書に登場するハムと言えば、ノアの箱舟で有名なノアの息子、セム、ハム、ヤペテの一人である。世界ではじめてぶどうの栽培に成功したノアは飲みすぎて裸になるという失態を演じる。これをみたハムは、他の兄弟に告げ口するのだが、セムもヤぺテも父の醜態を後ろ向きになって顔を向けず、さらに上衣で父を覆い隠した。つまり、ハムは権威者の失態を暴露することで、権威に対する反逆の姿勢を明示したことになる。だからこそ、息子らの対応を知ったノアはハムの息子であるカナンを呪い、カナンの子孫がセムとヤペテの奴隷となる予言したのである。ハムではなくその末息子、カナンを呪うことでカナン以後に生まれてくるカナンの子孫までも呪いつづけるという意図があった。

こうした事情から、ハムは「無礼ぶしつけ鉄面皮を合わせて二乗したような存在」ということになる(内村, 1980, p. 158)。そのうえで、内村は、「ハムたるロシア無頼の徒党・共産党中央部の懐刀はハムそのものであるチェキストだ」と断じている(同, p. 158)。ここでいう「チェキスト」は「チェーカーの人」を意味している。ここでわかるように、ロシア無頼の核心はロシア共産党を陰で支えていた「チェーカーの人」たる「チェキスト」にあるのだ。

ロシア無頼=ボルシェヴィズム
宗近真一郎は、こうした内村の独白をつぎのようにまとめている。

「私見では、「ロシア無頼」は、歴史の弁証法を現実において初めて化肉してみせたボルシェヴィズム、ロシア各地を放浪する定義困難な「自由の民」を嚆矢とし、「党」の秩序と正義によって暴力と抑圧を行使する犯罪社会主義の担い手となり、ソ連崩壊を経過した二十一世紀においては、所有権や生産への基本的エートスを裏返すかたちで怜悧に「所有」を独占した少数のオリガルヒ、そのオリガルヒを制圧するプーチン政権のハードな権勢へと連綿する。これは、痛烈な弁証法や唯物弁証法へのイロニーではないか」(宗近, 2010, p. 201)。

その意味で、「ロシア無頼」の立場から、ロシア革命を見直すことはいまのロシアを理解するうえでも重要なのだ。ただし、この無頼は必ずしもロシア特有のものではない。「生産せず、所有を認めない「無頼」が「官」なるものを媒介にして、ソフトとハードの振幅で荒ぶることがある」のであって、ロシア無頼はロシアだけの無頼ではなかった(同, p. 203)。フランス革命でもロビスピエールという無頼が存在したのである。

『ロシア革命一〇〇年の教訓』 - Sputnik 日本
『ロシア革命一〇〇年の教訓』(4)
ブラートとはなにか

つぎにブラトノイ(ロシア無頼の徒)の淵源である「ブラート」について考えてみたい。ブラートは、「不足した商品やサービスを受け取るための、同じくさまざまな生活上の諸問題を解決するための社会的ネットワークや非公式の接触の利用」を意味している(Барсукова, 2012, p. 89)。いわば、コネを活用した相互扶助を指していることになる。バルスコワは「ブラートはソヴィエト社会の構造的な制約の反映であった」として、ソヴィエトが支配したソ連時代にブラートが蔓延したとみなしている(同, p. 88)。これは、計画に基づく「上からのデザイン」を肯定するアプローチをとってもみても、実際には計画通りにゆかず、その破綻を取り繕うためには、非公式のコネに頼らざるをえなかったソ連社会の実相に対応して広まったのである。

具体的に言えば、実際に必要な商品やサービスがカネがあっても手に入らない現実がソ連時代に恒常化したことで、ソ連国民はブラートを活用してなんとかすることを強いられたのだ。誕生日のお祝いにキャビアを用意しようとしても、入手困難であるため、コネの連鎖を使ってなんとか見つけ出すのである。あるいは、不足している医薬品をどうしても緊急に必要とするとき、ブラートに助けを求めるほうが公式ルートに頼るよりもずっと確実な方法であった。こうしたブラートに基づく交換をアレナ・レデネワは「give-and-take的実践」と呼んで、一般的な腐敗と区別している(Ledeneva, et al., 2000, p. 10)。give-and-take的実践は非公式の便宜交換を意味するブラートが社会的なネットワークの形で形成されていた結果として行うことができたわけだ。

注意喚起しておきたいのは、ソ連の五カ年計画や年度計画はあくまで法律として制定され、その実施は法に基づく執行という形式においてなされたことである。その意味で、そんな法がどうせ実践できないことはわかりきっていたから、国民はそうした法=計画を、ある意味で無視していたことになる。ロシア無頼のボリシェヴィキがロシア革命によって支配するようになると、国中にロシア無頼特有の法の軽視が広がるのだ。無頼の全員一致原則から、ソヴィエト社会全体に無頼の悪弊、「無法が法」というしきたりが広まるのである。

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