18:02 2020年09月29日
戦勝75周年
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今年4月、ロシアのプーチン大統領は9月3日を「第2次世界大戦終結の日」とする法案に署名した。日本の降伏文書が調印されたのは1945年9月2日。同年、ソ連では9月3日を「対日戦勝記念日」と定めて祝日とすることが正式に承認された。一方、それから2年後、「対日戦勝記念日」は労働日となり、祝日としては次第に忘れられていった。ただサハリンと極東の複数の地域では引き続き祝われた。

ロシア国防省は終戦75周年に合わせて「道理にかなったフィナーレ」と題した新たなマルチメディアコンテンツをサイトで公開した。そこには第2次世界大戦の最終段階に関する機密解除された文書が公開されている。作戦マップ、諜報報告書、命令書、ソ連と日本の外交官及び軍事指揮官の交渉プロトコルなどがある。

1945年2月のヤルタ会談で米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン首相は、ソ連が極東で同盟国をサポートし、ドイツ降伏から3か月以内に日本に宣戦布告することを約束する協定を結んだ。この見返りとしてルーズベルト大統領とチャーチル首相はサハリン南部とクリル諸島(千島列島)をソ連へ引き渡すことを認めることに同意した。

1945年春、ソ連軍司令部は満州、サハリン、クリル諸島を攻撃する作戦を計画し始めた。だが、もう1つ別の計画も練られていた。それは北海道北部への侵攻だった。満州で関東軍を壊滅し、サハリン、クリル諸島、そして北海道の半分を占領すれば、日本は必然的に降伏を余儀なくされると想定された。そして1945年8月8日、ヤルタでの約束に従いソ連は日本に宣戦布告した。

その前、日本政府は夏の初めからこれを回避しようと試み、ソ連との外交的接触を確立、単独の交渉では領土に関して譲歩する用意さえあった。だがスターリンは戦争をせずに領土を返還するという日本政府の提案に同意することは、同盟国によってヤルタ協定違反と見做される可能性があると判断した。

北海道への上陸作戦は、8月22日または23日に開始される予定だった。スターリンはトルーマン米大統領に北海道北部を戦略する計画について説明し、これはソ連の世論にとって特に重要な意味を持っているとし、1919年から1921年にソ連の極東全域は日本軍の占領下に置かれていたからだと指摘した。これに対してトルーマン大統領は、極東のソ連軍総司令官に対して降伏することになる地域にクリル諸島全体を含めることに同意した。一方、トルーマン大統領は、ソ連軍による北海道北部の占領計画を断固として拒否した。この時すでに米国は広島と長崎に原爆を投下しており、その結果、日本の降伏は事実上、すでに決まっていた。しかし、ほぼすべての戦場で日本軍の残った部隊が自暴自棄な抵抗を行っていた。これはクリルとサハリンでの作戦にも影響を与えた。日本軍の残った部隊の抵抗は、北海道上陸が予定されていた時までに終わらなかった。

一体なぜ、北海道侵攻計画を最終的にはスターリンも支持しなかったのだろうか?もしかしたらそれは、ソ連による極東での戦争への参入が、日本軍のできるだけ早い壊滅という課題だけでなく、東アジア地域でソ連にとって有利な軍事・戦略的および地政学的な立場を築くことも追及していたからかもしれない。また日本古来の領土の一部を占領することは、ソ連と日本の戦後の関係を非常に複雑にした可能性がある。

一方、この問いに対して正確に回答することを可能とする文書は、まだ研究者の手に渡っていない。これらの文書は今も「機密」という印がつけられたまま保管されているのかもしれない。あるいは、そのような文書は最初から存在せず、スターリンの口頭による命令で決定されたのかもしれない。


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