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アルメニア北部の小さな町、スピタクは大きな悲劇で知られている。スピタク市や周辺の村町の墓地では、1988年12月7日という同じ死亡日が刻まれた長い列の墓に気づく。この日に起きたことは、2万5千人の命を奪った壊滅的な地震だ。14万人が障害を負い、50万人が家を失った。地震はスピタクを完全に壊滅させ、アルメニア第2の大きさを持つ町、 レニナカン(現ギュムリ)の80%が壊滅した。この出来事はソ連国内外の人々に衝撃を与えた。
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スプートニクはスピタク地震(アルメニア地震)から30周年を迎えたことを受け、目撃者の回想を公開する。
ソ連組立特別建設作業省プレスセンターの記者、オレグ・ゲルチコフさんは、地震後にスピタクで目の当たりにしたことに衝撃を受けた。スプートニクアルメニアは、被災地の出来事を語るゲルチコフさんの回想の一部を伝えている。
スピタクは地表から消え去り、代わりにあったのは建設資材ゴミの山だとゲルチコフさんは思い起こす。彼は地震の数日後に町に到着した。町の入り口には動きのない大きな目をした少年が座っていた。少年は無言で通行人に、両親の氏名が書かれた紙を差し出している。

アルメニア北部のスピタク
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Sputnik / R. Mangasaryan

アルメニア北部のスピタク
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Sputnik / Alexander Graschenkov

アルメニア北部のスピタク
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Sputnik / Igor Mikhalev

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アルメニア北部のスピタク
破壊の光景はおぞましいものだった。地震による打撃は論理的な説明が不可能だった。目の前で瓦礫の下から若い女性が救出された。だが救助隊が引き上げる大多数は死体だった。路上には空っぽの棺とパンを載せた車のバンがあった。これは、1988年の冬に死者と生者が必要とした重要な物だった。
地震後に設置された災害対策本部で指揮を執ったニコライ・タラカノフ氏は、スピタクで起きたことは、その2年前にチェルノブイリで起きた事故より恐ろしかったと述べた。タラカノフ氏はチェルノブイリ原子力発電所事故の際、原発敷地内から放射性物質を除去する作戦を指揮した。
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