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米国はいかに広島の地獄を準備したか?

© AP Photo米国はいかに広島の地獄を準備したか?
米国はいかに広島の地獄を準備したか? - Sputnik 日本
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生きている人間を対象とした核兵器の人体実験は、第二次世界大戦の悲劇の中でも最も非人間的なものの一つである。広島・長崎への原爆投下70周年にあたり、起った事の詳細を、今一度少し振り返ってみたい。

今からちょうど70年前の1945年8月、米国はまず6日に広島へ原爆を投下、9日には長崎が、その苛酷な運命を背負った。

当時日本は、超強力な新型大量殺戮兵器にとって理想的な実験場だった。1945年8月までに日本は、米国の敵国として残った唯一の国だった。また日本は、太平洋戦争における米国の同盟国、中国やソ連の圏外にあり、核攻撃が両国に損失をもたらす事はあり得なかったからだ。また戦争は4年目に入り、日本の海軍及び空軍は疲弊し、敵機の空襲に抵抗できる状態ではなかった。

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1945年2月、米国空軍は日本に対し、高度2千メートル以下の低空からの夜間大空襲を開始した。この空襲の特徴は、焼夷弾を用いた事だった。この爆弾は、ほとんどの建物が木造の日本の都市に、大火災を引き起こした。

こうした悲観的な予想を背景に、軍備に新たに登場した核兵器が、俄然注目されるようになった。米国には「リトルボーイ」と「ファトマン」という全部で2つの核爆弾があった。
軍事的なもの以外にも、原爆使用をうながす、他の理由もあった。当時のトルーマン大統領は、米国に敵も味方も含め他のどの国にもない驚くべき兵器がある事を、世界中にいつか示したいと強く望んでいた。まして24万5千の人口を有する広島は、敵の軍事的要衝で、日本帝国軍の補給基地があり、日本南部の防衛に当たっていた第二陸軍軍団の司令部を含め、一連の重要施設が置かれていた。

広島への原爆投下命令を受けたのは、ポール・ティベッツ大佐で、彼は米空軍屈指の優秀なパイロットだった。彼が機長を務めた爆撃機B-29は、彼の母親にちなんで「エノラ・ゲイ」と名付けられた。8月6日、同機は「リトルボーイ」を搭載し広島へと向かった。これは、高濃縮ウランを用いた原子爆弾で重量は4トンを超え、全長は3メートルだった。なお広島までの飛行は6時間と予定された。

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「エノラ・ゲイ」以外に、広島への原爆投下には、偵察機、管制機、予備の爆撃機など、さらに6機の米空軍機が加わった。日本側のレーダーは、近づいてくる飛行機群をキャッチし、広島を含めた一帯に空襲警報を発令した。しかし空中で米軍機は、高度をあげなかった。なぜなら日本側は、燃料や弾薬を節約しており、敵機の大量来襲の時のみ反撃に出たからだ。

そして運命の時、現地時間で午前8時15分、ティベッツ機長は、高度9千メートル以上から、広島の中心部に原爆を投下した。爆弾は、地上から600メートルほどの高さまで落下し、そこで炸裂した。爆心地あるいは爆心から1キロ以内にいた人間は、即死し炭のように黒焦げとなった。爆風は、家や建物の中にいた人達にも容赦なく襲いかかった。19キロ四方の家々すべてのガラスは溶け破片となって飛び散った。それ以外に、11平方キロに及ぶ場所では火災が発生し、それらは非常に速いスピードで移動する一つの炎の竜巻と化し、投下直後に生き残った人々を巻き込み、多くの命を奪った。こうして原爆投下直後の犠牲者は、9万人に上った。しかし原爆の恐ろしい後遺症、つまり放射線障害で、次々と人々の命が失われていった。1945年末までには、亡くなられた人の数は16万人に達した。所謂「被爆者」の方達の苦しみは、その後何十年も続き、犠牲者は毎年増えて行った。

この広島の悲劇の3日後、今度は長崎に原爆が投下された。9日、チャールズ・スウィーニー少佐が機長を務める爆撃機は、広島型とは違うプルトニウムを用いた原子爆弾「ファトマン」を搭載し、北九州の小倉に向かった。そこが当初、投下目標だったからだ。しかし9日、小倉上空は、7割も厚い雲に覆われていたため、米軍司令部は、投下地点を予備候補地だった長崎に急遽変更した。米軍機が近づいてきた際、日本の対空砲撃隊は爆撃機を偵察機と受け止めたため、空襲警報は発令されなかった。.長崎では 天候が曇りであったことが、ある程度、幸いした。「ファットマン」の威力は21キロトンで、「リトルボーイ」(18キロトン)よりも強力であったにもかかわらず、爆発地点が市の中心ではなく、北の工業地区にずれたこと、加えて、長崎の地形が起伏に富んでいることが、爆風を弱めた。広島のように炎の竜巻が起こる事もなかった。とはいえ、原爆投下後の長崎の惨状は、目を覆うばかりだった。直後の犠牲者の総数は、およそ8万人に達した。

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その後、核兵器を今後どう使うかに関する戦術が、米国の最高指導部で討議された。一つの目のバリエーションは、核爆弾が製造され次第、日本の諸都市を次々に攻撃するというもので、二つ目のバリエーションは、日本上陸作戦開始前に、原爆を集中的に使用した方が良いというものだった。

一方、悪魔のような爆弾の問題に直面した日本側は、それでも、米軍の本土侵略開始まで自分達は持ちこたえるだろうと考えていた。当時はまだ、放射線障害について誰も詳しい事は分からなかったし、それが軍というよりむしろ一般住民に被害を与えていたという事も分からなかった。しかしドイツの無条件降伏から3カ月後、対日参戦に踏み切るという米国及び英国最高首脳との合意に従い、ソ連が戦いに加わり、赤軍が満州に進撃を開始するに至って、もはや日本は、二方向からの攻撃に抵抗するのは不可能となった。

広島・長崎の原爆投下に参加した米国人の中で、その後、自分自身の行動について、悔い改めた者はいない。彼らは「我々は、日本軍国主義に対する祖国の勝利に大きく貢献した」と胸を張っていた。しかし、日本の潜水艦「伊58」の乗組員達は、広島に地獄を用意した者達を厳しく罰する運命を担うことになった。「リトルボーイ」の一部をテニアン島に運んだ重巡洋艦「インディアナポリス」を、その帰途7月30日フィリピン海で撃沈させている。巡洋艦は、日本の潜水艦による雷撃を受けてから12分後に沈み、およそ300人の乗組員が海の藻屑と消えた。生き残った800人以上の乗組員も、4昼夜海上を飲み水もなく食糧もなく漂った。脱水症や幾度にもわたるサメによる攻撃のため、最後まで生き残り救出されたのは、わずか317名だけだった。

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