02:02 2018年01月20日
東京+ 7°C
モスクワ-8°C
    写真提供はルーキン氏(最左)、イヴァノフ氏は右隣、6月8日、モスクワ国際関係大学での学会

    急逝イワノフ編集長、中国専門家で親友のルーキン氏が追悼

    © 写真: Aleksandr Lukin
    オピニオン
    短縮 URL
    0 130

    スプートニク日本語課のアンドレイ・イワノフ編集長の急逝は多くの東洋学専門家を震撼させた。イワノフ氏は豊かな知識をもとに平易な言葉で明確な地域情勢分析が行なえるジャーナリストだった。イワノフ氏が多くのインタビューをとった中国の専門家のアレクサンドル・ルーキン氏も故人の稀有な才能を知る一人。

    ルーキン氏は親友イワノフ氏の死を深く悼み、近しい人間でなければ書けない追悼文を送ってくださった。

    「アンドレイ・イワノフと知り合ったのは2006年。それがどの場だったかは今となっては正確に思い出せないのだが、おそらく頻繁に行なわれるどこかの大使館のレセプションの席だったと思う。ただし彼の名前を聞いた瞬間、これはどこかで知っているぞと思いあたった。私は『ノーヴォエ・ヴレーミャ(新時代)』誌で彼の台湾についての記事を読んでおり、それをそれまで数年かけて書きあげた『中国におけるロシア像』という本のなかでかなり引用していたからだった。

    私はこの人物はきっと老練で精通したすごく偉いジャーナリストで、おそらく東洋学専攻だったんだろうと思っていた。なぜならあまりにも知識豊富に専門的にかくも遠く離れた島の情勢を書き表していたからだ。彼は事に精通してはいたが、話してみると気さくでとっつきやすく、とても快活だった。私たちはすぐに親しくなり、お互いを、そしてこの世のあらゆることからかい、笑い合いあった。それから私は彼を自分が編集長を務めていた雑誌『ロシア-中国:21世紀』の副編集長に呼んだ。これはロシアで初めて出された中国についての専門誌で民間のストラクチャーが融資していた。私はジャーナリストではない。このため編集長としては雑誌の路線を決め、何について書くべきかは言えたが、ジャーナリストとしては書き、しかるべき形にテキストを編集することは出来なかった。この仕事にはプロが要る。そしてアンドレイはちょうどそのプロだったのだ。彼は中国に関するどんなテーマのどんな記事もわずか半時間で書けた。しかもそれは十分におもしろく、内容豊かで大いに読まれた。それだけではない。彼はほんの少し手を加えるだけで、学者たちのうんざりするほど退屈なテキストを明確で分かりやすい記事に仕立て上げるという才能を持っていた。

    この時代、アンドレイは「コメルサント」紙に勤務し、東アジアについての記事を書いていた。なんと彼は大学の専攻は東洋学とは全く関係なく、しかもジャーナリストでもなく、プログラマーだったと知ったときの驚きといったら。アンドレイはモスクワ歴史公文書大学科学・技術情報学部を出ていた。ジャーナリストに、そしてアジアの専門家になったのは年がいってからのことだったのだ。大学卒業後、アジアに興味を持ったアンドレイは自力で日本語、朝鮮語、中国語の基礎を学び、この地域に共通する問題ではおそらく最高のプロの論説員になった。興味深いことだが彼のような例は他にないわけではない。ジャーナリズムを専攻して面白い記事がかけるというジャーナリストはめったにいない。よいジャーナリストには物理学者から歴史家までどんな人間でもなりうる。ところがジャーナリズム科を出た人間だけはだめだ。どうやらこれはジャーナリズム科ではどんな問題に対してだろうが基礎知識がきっちり与えられず、深く考察することも教えられないことに起因するようだ。

    おそらくまさにこのプロフェッショナルというのと「知ったかぶり」が故にアンドレイはしょっちゅう職場で問題につきあたった。アンドレイは事実の誤り、専門的なミスには我慢がならず、いつもそれらを指摘しては自分の見解をはっきり示すので、これが指導部には気に入られず、大体にして必要とされるのが地域の専門家ではなく、広く浅く「適当にこなす」者であるという今どきの国際ジャーナリズムの方向性に真っ向から矛盾していた。

    今、アンドレイの元職場の「コメルサント」紙で彼のいたポジションで働く人間らがしょっちゅう名前や役職を混同し、日付を間違え、組織名を誤るのは偶然でもなんでもない。なのに幹部も読み手もそれどころではない。深さや正確さはいまどき切実には求められてはいない。そういう時代なのだ。

    しばらくたってアンドレイは「コメルサント」紙を出ざるをえなくなり、今度は雑誌『惑星のこだま』国際部で部長となった。多くはアンドレイのおかげでこの雑誌は新たな読者を得て、ソ連末期の雑誌の創刊時にほぼ並ぶほど人気を博した。だがこの雑誌もしばらくするとたぶん財政上のことだったと思うが、問題が生じ、人員カットが始まり、その後完全に廃刊になってしまった。こうしてアンドレイは2009年の段階から協力していたムギモ(モスクワ国際関係大学)の東アジアおよび上海協力機構調査センターに完全に移った。それはセンターに日本専門家がいなかったからだった。

    アンドレイは把握の深さと広さ、迅速な課題遂行というジャーナリストと研究者の両方の最高の資質をあわせ持ち、すぐさま積極的に作業に加わった。従来の研究者が論文や分析資料を書くのに数ヶ月を要するところを、アンドレイは2日で全てを終わらせた。しかもをそれを極めて質の高いかたちで行うことができた。指導部からアジア関係の緊急な課題が入ると、みんながアンドレイのところにもってくるようになった。それをアンドレイは断ることなく頼まれたことは全部やっていた。私はいつもアンドレイに研究をやるよう背中を押したものだが、彼はいったん真剣に取り組み出すとすぐに成功を収めるようになった。アンドレイは外務省などの諸機関向けにたくさんの分析資料を書き、学術論文を数本、露日関係についての修士論文を書いた。その彼の指導教官だったのが著名なロシア人日本専門家で元外務次官、駐日ロシア大使を務めたアレクサンドル・パノフ氏だった。その一部を私たちは自分たちの文集に載せた。大きな共同執筆論文「ロシア-中国、400年に及ぶ相関関係」でロシアと台湾、香港、マカオとの関係について稀有な1章を書いた。だが自分の本の出版までには彼は至らなかった。「ロシアの声」日本語課のインターネットサイト編集長になると、アンドレイはこの仕事に多くの時間を費やすようになった。この仕事を彼は愛し、どうやらここで自分を見つけたようだった。アンドレイはロシア情勢、世界情勢へのロシア人専門家らの見解の多様性をなんとか日本の読者に分かってもらおうと邁進し、政治的事件、ロシア内外で取り上げられている問題について論説を書いた。つい先日、北朝鮮での党大会の取材旅行から帰ったばかりで、会って印象を語るという約束だった。だが、この約束は果たされなかった。

    アンドレイの死去はあまりにも突然で恐ろしい一撃だった。私たちの年齢では知人の死はもう異例なことのようには受け止められない。だがアンドレイは特別な親友だった。それにプロの人間として彼に代わる人物など見つけようもないからではない。アンドレイと私はお互いに分かり合い、いつも冗談を言い合い、人生を笑い飛ばしていた生きていたからだ。ところがその人生が私たちにこんな打撃を食らわせたのだった。

    私は自分の50歳の誕生日にアンドレイの別の才能も知ることになった。彼はかなり筆の立つ、というかプロフェッショナルにと言ってもいいほどの絵が描けた。アンドレイが贈ってくれたのは私の肖像画で油絵のあらゆる手法に正しくのっとって描かれており、隣には毛沢東がいて、彼の名言である「お前が仕事をしているうちは、私は安泰だ」が書き込まれていた。言い伝えでは毛沢東は亡くなるしばらく前に自分の後継者にこの言葉を伝えたとされている。アンドレイは死ぬ前に自分からこの言葉を私に言ってくれたのではないかと思いたい。少なくとも彼の期待を裏切らぬよう、私は全力を尽くすつもりだ。」

    タグ
    ロシア
    コメント・ガイドディスカッション
    Facebook経由でコメントスプートニク経由でコメント
    • コメント